11 / 16

第11話

 亜弓はさっき秀明が指差した自分の胸のあたりに、てのひらを置いた。 「……俺、中村さんのこと好きなのか」  呟くと、秀明が睫毛を上げる。 「そう思わない?」 「思う…気がする。なんか合点がいった」 「そりゃよかった」 「でも……」  急に亜弓は口ごもった。  部屋を出て行く前の、中村の眼差しを思い出す。亜弓をきつく睨みつけた濡れた目の中に見た、滴るような憎悪。あんな中村は見たことがない。亜弓、と明るく呼びかけてきた中村とは別人のようだった。  もう二度と、中村は自分を好きだとは言ってくれないのではないか。  そう考えて、亜弓は自覚した自分の気持ちに怯む。中村を好きだと思った、その気持ちがもう意味を成さないのだとしたら。  俄かに亜弓の指先が震えた。 「…でも、たぶん中村さんは、もう俺を好きじゃない」  そう言った亜弓を咎めるように、秀明は縮こまった薄い肩を揺すった。 「そんなのわかんないよ。だってあの人、悲しそうだったじゃん」  秀明がそう形容した中村の表情を、亜弓は思い出そうとする。 「あの人、すごく亜弓のことが好きだったんだね。怒ってるってより、やりきれないみたいに見えた。気持ちが亜弓に伝わんないのが、悲しくて仕方なかったんだよ。それが急に変わるとは思えない」 「人を嫌いになるときは一瞬だ」 「それも否定はしないけど。ならどうするの」 「……」 「嫌われたと思うから、せっかく気づいた自分の気持ちを無視するの。拒まれるのが怖いから、伝えもせずに放っておくの。そこで止まってたら、あの人が亜弓を好きになったことも亜弓があの人を好きになったことも、みんな無駄だったってことになると思わない?」 「……」 「もし亜弓があの人とのことをこのままほったらかしにして終わらせてしまうなら、俺はあの人の方が気の毒だと思うな」  秀明は先ほど自分が最低野郎だと罵ったことも忘れた様子で、中村の肩を持つ。  何が悪かったんだろう、と亜弓はぼんやり考えた。 「亜弓はもっと早く、あの人とのことを考えるべきだったね」  そう言われ、それがいけなかったのかと納得する。中村とのことを放置して、成り行きに任せていた自分の無責任が原因か。  つまり亜弓が秀明を拾って中村を怒らせなくても、いずれここへはぶち当たっていたのかもしれない。ならばそういう時、相談して自分の気持ちに気づかせてくれる人の存在があっただけ、亜弓は幸運だったのだろうか。 「…言う」  覚悟を決めて、亜弓は言った。 「今までずっと言ってもらってばっかりだったから、今度は俺が好きだって言う」  四つも年下の秀明が微笑んで励ます。 「こればっかりは、言わなきゃ伝わんないことだからね」 「……うん」  静かに決意し、亜弓は頷いた。  その夜、秀明は亜弓が眠っている間にマンションを出た。  音を立てないように寝室を出ようとして、ふと後ろ髪を引かれる思いで、疲れ果ててベッドに沈んでいる亜弓を見やる。半分枕に顔を埋めたその幼い寝顔に、我知らず笑みがこぼれる。 (四コも年上の、三十一になろうかっておっさんの顔じゃねえよな、こりゃ)  顎に飛び出し始めた髭も、そこにあるべきではないような存在の違和感を発している。女顔、といってしまえばそれまでなのだろうが、そこは相応に、女にしか見えないというわけではない。普段の物言いからしても、女々しいと形容すべきところはない。むしろ亜弓は、かなりいい性格をしている。  女性的な容姿に男性的な内面を備えた、一種倒錯的な美しさというのが亜弓の魅力なのだろうか、と秀明は分析した。  何にせよ、普段何かと男からも女からもちやほやされる秀明ではあるが、四年後に自分がこんな三十歳になっていられる自信はまるでなかった。 (なんで自分の好きになった人の恋を応援してんのかって思うけど…何の見返りも求めず拾ってもらったことに感謝してる分、この人にはほんとに幸せになってほしいんだよな。ばかだね、俺も)  苦笑を浮かべ、物件案内と就職情報誌を腕に抱いて踵を返した。亜弓を起こさないよう、口づけたい衝動はもみ消すことにする。  秀明は玄関を出て鍵をかけ、もらっていた合鍵を郵便受けに入れた。

ともだちにシェアしよう!