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番外編:Before Love

本編前の二人の話。 ---------- 「う~っ、疲れたぁ!」  夜勤が明けて、午前中で仕事が終わった中村は、白衣を脱ぎながら思いっきり伸びをした。その子どもっぽい仕草に、傍にいた看護婦が笑みをもらす。 「お疲れ様です、中村先生。ゆうべは大変でしたね」 「んー、僕も正直ビビッたよ、もうダメなんじゃないかって」  昨夜運ばれてきた急患の交通事故患者は、見た瞬間やばいと思った。明らかな出血過多、意識はなく呼吸も心肺も停止していた。一分一秒を争う手術を中村は驚異的な手捌きで切り抜け、明け方には「一命を取り留めた」と家族に伝えられるほどに患者の容態は安定した。 「中村先生が残ってらして良かったって、小谷先生もおっしゃってましたよ」 「いやぁ、小谷先生のアシストも完璧だったし、みんなのお陰だよ。でもまだ親父なんかが見たら、あら探しされて遅いだのって怒られるんだろうなー」 「院長先生、厳しいから」  看護婦は中村の机上のカルテをまとめ、診察室の扉を開いた。 「今日は帰ってゆっくり休んでください。明日は午前中お休みでしたよね?」 「うん。じゃあお疲れ」 「お疲れ様です」  診察室を出てロッカールームで着がえて荷物を取り、中村はわざわざ外来棟の一般出入り口へ回る。そちらへ行けば、薬局があるからだ。 「柴崎くん」  薬局のカウンターから小窓を覗き込み、中村は呼びかける。 「あー、中村先生じゃないですかぁ」  しかし真っ先に反応するのは亜弓ではなく、自他ともに中村ファンを認める、薬局最年少の雪村(ゆきむら)という女の子だった。その甘く高い声に、奥にいた亜弓が振り返る。  雪村は可憐で愛らしく、その実聡明で有能で女性としては大変魅力的だが、中村の意中の人は、その向こうにいるどこかうすらぼんやりした美青年だ。 「…中村さん」  気づいて名を口に乗せた亜弓に、中村は嬉しそうに手招きする。亜弓は一瞬躊躇するように眉を寄せて俯き、カウンターへ寄ってきた。 「ちょっと出てきてよ」  人当たりのいい笑みで亜弓を薬局の外へ誘うと、亜弓は今度こそ表情を強張らせ、しかしすぐに外へ出てきた。二人、人目につかない柱の陰に移動する。 「柴崎くん、今日何時に仕事上がる?」  問いに、訝るように亜弓は中村を見上げた。 「たぶん…八時くらいだと」 「そう。じゃあ僕、今日は夜勤明けでこれで仕事終わりだから、家で仮眠取った後、八時頃に車で迎えに来るね」  驚いた亜弓が目を瞠る。 「なんで…」 「僕のうちで、夕飯でもご馳走しようと思って。僕の手料理だよ」 「…いいです、遠慮します。俺、仕事あるから」 「亜弓」  低く呼ばれ、薬局へ戻ろうと踵を返した亜弓がびくりと肩を揺らす。 「薬局の予定表見たけど、明日は仕事休みだよね。僕も明日は午前中休みなんだ」 「……」 「僕の部屋へ来ないか、と言ってるんだ」 「っ……なんでっ…」  中村の言葉の意を汲み、亜弓はくちびるを噛んで拳を握り締めた。 「もう俺にかまわないでください、あんなことして…まだ俺を辱め足りないんですか」  あんなこと、とは一週間前の一服盛った強姦のことだ。 「お願いですから、もう…」 「悪いけど、そういうわけにはいかないんだ」  優しく、しかしきっぱりした声音で言われ、亜弓は絶句して中村を見つめた。 「…柴崎くん、僕はこの病院の院長の息子だ」 「……」 「薬局の人事に、口を出せない立場でもないんだよ」 「!」 「意味は分かるね?」  優しく笑んで、亜弓の肩に手を置き、すれ違いざまに囁く。 「…じゃあ、八時に駐車場で」  蒼白した亜弓は、しばらくそこから動かなかった。  家に帰って仮眠を取り、起き出した中村はキッチンに立っていた。今日のメニューは大き目の牛すね肉を使ったビーフシチューとバターライス、ペンネとクリームチーズのサラダ。そして美味しい赤ワイン。  煮込んでいる鍋の火を止め、時計を見上げると七時半。そろそろ迎えに行けばちょうどいい時間だ。  愛車のBMWに乗り込み、通い慣れた道で病院へ。  駐車場に入ると、既に亜弓が佇んでいた。中村は車を降り、亜弓の元へ駆け寄る。 「ごめんね、待った?」 「いえ…」 「どうぞ、乗って」  恭しく助手席のドアを開けると、亜弓はおとなしく乗り込んだ。 「疲れたでしょ」 「……」 「夕飯できてるから、すぐ食べられるよ」  黙ったままの亜弓は、表情も視線も変えず、額を窓につけてぼんやりと外を眺めている。  中村の存在を無視するように。  やがて中村の部屋へ戻り、亜弓をダイニングテーブルへ促し、中村は食事をサーブする。食器もワインも全てしつらえ、まずはグラスを触れ合わせ、それを口にした亜弓が少し目を見開く。 「…美味しい」 「でしょ。そんなに高いものじゃないけど、お気に入りなんだ」  やっと心をここへ取り戻した亜弓に、中村は笑いかけた。 「シチューも美味しいです。全部中村さんが作ったんですか?」 「うん。洋食は得意なんだ」  へえ、と頷いた亜弓の表情が、心持ち明るくなっていることに中村は嬉しくなる。  亜弓は、誰と接するにも同じだった。  親しさの度合いに違いはあれど、誰に対しても、表面でしか接しない。深く触れることもない。まるで亜弓の中で人間は全て『自分』と『それ以外』にのみカテゴライズされ、『それ以外』には友人も知り合いも赤の他人も、恋人さえ、存在しないかのようだ。  みんなそれを見破れないでいる。七十億人の『それ以外』の人間のうちの一人に過ぎないことに、気づかないで亜弓と接している。  五人の『頼れる上司』のうちの一人になりたくはないのか? 十人の『気の置けない友人』のうちの一人になりたくはないのか? 二十人の『嫌いな人』のうちの一人になった方がマシじゃないか。いてもいなくても亜弓にとって変わらないなんて、そんなこと。  中村はそれに耐えられなかった。亜弓を愛してしまったから。  だから、手段は選ばない。亜弓に、自分の存在を刻み付けるためなら。  亜弓に、自分という人間から愛されているのだと、思い出してもらうためなら。  食事を終え、ずいぶん長い間、二人はソファに座ってテレビを見ていた。大きなソファだから、二人の肩は触れもしない。  ふと亜弓を見やると、テレビの画面など見ていなかった。憂鬱そうな表情に戻って、ソファの上で膝を抱え、どこか違うところを見つめている。  その視線が、不意に中村を捉えた。 「…中村さん」 「うん?」 「しないんですか?」  その瞳の、熱のなさが。  中村の芯に、火をつけるというのに。 「んっ……!」  中村は亜弓の手首を掴み取り、力任せに引き倒してソファに組み敷き、深く口づけた。 「僕は食事に誘っただけだけど?」 「そうですか、じゃあしなくていいです」 「なに言ってるんだ、きみが今誘ったんじゃないか」 「誘ってなんか、…っ!」  体を押さえ込み、顎を掴んで再び深いキスをし、服をたくし上げて肌に触れた。  触れ合う肌は暖かいのに、どうして心は冷えていくんだろう。  ――ああ きみはまたそうやって 僕を拒絶するんだ  着衣を乱した亜弓をベッドルームへ連れ込み、ダブルサイズのベッドに押し倒す。その服を剥ぎ取る間も、亜弓はさしたる抵抗もしない。 「好きなんだ、亜弓……好きなんだ」  白い肌にくちびるで触れながら、中村は繰り返す。一週間前にもそうしたように。けれど、その言葉も想いも、決して亜弓には届かない。 「…抱きたいなら抱けばいい」  冷酷な呟きが、中村の耳を打つ。  それは絶望を伴って、中村の火を煽る。  どうすればいいんだろう。想いが届くことがないのなら。  触れ合っても、遠い。せめて、もっと近くに。 「…ッ!!」  声にならない悲鳴が、亜弓の喉に引っかかる。後ろにジェルを塗りこみ、中村は器用な指先で、容赦なく前立腺をこすり上げた。 「や、あ、あ、…あっ」  セックスに、手抜きはしない。焦らしもしない。ただ亜弓が中村を、できるだけ楽に受け入れられるように。傷を負うことなく、痛みを最小にできるように。  濡れ始めた前を口腔に包み込み、指で後ろを緩やかに追い上げ、あらん限りの快感を与える。できる限り慎重に慣らし、大丈夫だと判断できたところでようやく、中村は自らを亜弓の中に差し入れた。 「…いっ…!」  それでも亜弓は苦痛を訴える。それは仕方のないことだけれど、中村は自分の欲望を殺し、挿入を止めて亜弓の頬を撫でる。 「亜弓、目を開けて、僕を見て」  きつく閉じたきりになっていた亜弓の瞼を撫で、甲で口を塞ぐようにしていた手も外させててのひらを握り合わせた。  ゆるく、涙に濡れた瞳が中村を映す。 「目は、開けてて。僕を呼んで」  少しずつ、奥へ進む。 「あ……あ、なかむ、ら、さ…」 「もっと、呼んで」  その名を、きみが覚えこむように。  きみにとって特別な人間として、きみがその名を思い出せるように。  きみが僕を、思い出せるように。 「あ、あ、なか、」 「亜弓…」  絶頂が近づき、亜弓の呼吸が切迫する。遂情を助けるように、中村は強いグラインドで、亜弓の性感帯を刺激し続ける。 「ん、…んんッ……!!」  やがて極まった亜弓が腕の中で痙攣し、引き絞られたその中で中村も果てた。  亜弓の虚ろな瞳は背けられ、中村を映さない。  ――それでもいい。想いが届かなくても、傍にいることはできる。  諦めて、中村も目を伏せた。  いつか亜弓が、自分を見てくれることを夢見て。 <END>

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