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溶けた女と喉噛む男

 物心ついた時から、ママは俺の家にいた。  小学校に上がる前に親父は死んだ。病死だったのか事故死だったのか、実はふんわりとしか知らない。もしかしたら、自殺だったのかもしれない。  ともあれ、親父は突然俺の生活から消えたのに、ママはずっと、俺の家の記憶に付きまとった。  母さんはいつも自分のことを『わたし』とか『母さん』と呼ぶ。  母さんの手を離したら駄目だからね。母さん、今日は遅いからごめんだけど一人でご飯食べてね。参観日、母さん仕事でいけないや。  けれどひとつだけ、不思議な言いつけ方をするときがあった。  ママの言うことをきちんときいて、ママが喜ぶ大人になりなさい。  この『ママ』という言葉が指すモノが、いつもうちの仏間に突っ立っている背の高い女のことだと気が付いたのはいつのことだったか。  その足元に、いつも踏みつけられてぐちゃぐちゃになっている親父がいることに気が付いたのは、いつのことだったか。  ああ、俺は大人になったらそこに行くのか。親父と一緒に、ママに踏みつけられ永遠と苦痛を味わうのか。  自分の行く末を知った俺は、何度か足掻くように逃避を試みたものの、結局うまくはいかなかった。  高校を卒業して家を出た。大学ではひっそりと恋人ができた。暫くはうまくいっていた。母親のことはあえて考えないようにしていたけれど、たまに来る電話では元気そうだったし、いつも俺のことを案じてくれていた。  だから同居を始めた恋人が『夢に変な女が出る』と零した時も、怖い話やめろよと笑った。  まさか、ママが、追いかけてくるとは思っていなかったから。  だって俺はあの家以外で、ママを見たことがなかったから。  日に日にやせ細り、口数が少なくなる恋人に、俺は何もしてやれなかった。結局自殺未遂を繰り返した彼は、心を病んだことを家族に打ち明け実家に帰った。俺との関係はそこでプツンと切れてしまった。  別に、結婚を約束したわけじゃないけれど。一生を誓い合ったわけじゃないけれど。でも、もう少し長く二人でいる筈だったのにな、と人並みに悲しんだ。人生を台無しにしてしまったことを人知れず詫びた。  虚ろな目をした彼に『俺のせいだ、それはママだ』と訴えたが、彼の耳と理性が俺の声を拾ってくれたのかはわからない。  ママは追いかけてくる。ママは諦めない。ママは家に縛られているわけじゃない。ママは俺が生まれたときからずっと、俺を呪っている。  アレがいつからいるのか、どうして家にいるのか、一度外出中の母さんに聞いてみたことがある。  母さんは震えを隠しながらぎこちなく笑って、『ママってなあに?』と言った。……見えてるくせに。いつも、仏間のふすまを開けるときには左側を――ママがいる方を絶対に開けないくせに。  それも、母さんなりの抵抗だったのかもしれない。一人でこの家に住むようになってから、母さんの気持ちが少しだけ理解できるようになった気がする。  母さんは、今は天井を見るだけの生活だ。  施設の人たちは良くしてくれるといつも笑う。ここは楽だわ、と笑う。解放されたように笑う。  次は俺の番なんだ。ママのお世話をするのは、俺なんだ。だってアイツは、どうやっても逃れられない呪いのようなものだから。  ――そうやって腹をくくったつもりになっても、やっぱり現実を直視できずに俺は最大限逃げ回った。  そのうち、同居人が居るとママがあまり出てこないことを知った。母さんの見舞いに来た遠縁の親戚が、電車がないからと泊まった時、ママは一回も姿を現さず、親戚も特に何事もなく平和に帰路についたのだ。  誰かと一緒なら呪いは薄れる。少なくとも、俺の負担は減る。  これは賭けだ。他人の命を犠牲にした賭けだ。  それでも俺は死にたくない。毎日、顔の形がわからなくなるまでぐちゃぐちゃになる程踏まれる、叩かれる、あの男の隣に並びたくない。  …………きっとこれは罰なんだ。  いままで、いろんな人間を、生贄にしてきた……罰だ。 「ちょっとータイラさーん? どこ見てんの? そっちなんかいんの? いないよね? ……おれの目の前で意識ぶっとばすのやめてもらっていいですかぁー?」  一人で勝手に贖罪の気持ちになり、今までの同居人を一から思い出していた俺の前で、さっき会ったばかりの男が笑う。  相変わらずぶっこわれたオモチャみたいな笑い方だが、今はコイツが本気でぶっこわれた人間だってことを知っているから別に不思議には思わない。  ただひたすらシンプルに怖いだけだ。 「タイラさんあれだよねぇ? ちょっと逃避癖あるよね? なんか困ったことがあった時さー、考える前に逃げちゃうっていうか蓋してみなかったことにするタイプでしょー」 「……なんで知ってんの……つか、なんで、そういうの、口に出すんだよお前は……」 「んー。ふふふ。空気読む気がないから。ていうか逃避困るからやめてよー。おれが目の前にいるときは、ちゃーんとおれを見てよ、ね?」  場所と状況と相手が違えば、こんなに情熱的なセリフもないよなーと思うところだ。  ここが家(もちろんママがいる)で、俺はいま畳の上に押し倒されていて、にこにこ俺を押し倒している相手が勿部ナガルでなければ。 「つか、いい加減離せよ……っ、冗談キツイ、から、」 「おれ、嘘と冗談嫌いだってば。だから全部本当でマジでガチだよーって言ってるじゃん? マジでガチでえっちしよ~って言ってんの」  ……言われたばっかでアレだが、若干現実逃避で意識が飛びそうになる。もうなんか、考えるのが怖い。目のまえの男の笑顔を見るのも怖い。現実が怖い。そんで、頭上の廊下の方に立っているママの存在感だけが明確なのも、怖い。  勿部ナガルはママをガン無視して俺に笑いかける。こいつほんとどういう神経してんだ。何食ってどんな生き方したら、こんなとんでもない性格ができあがるんだ。  現実を見たくない俺の両腕をがっしりと拘束しながら、馬乗りになったナガルは俺の右耳の下を舐める。思わず飛び上がりそうになり、両足の隙間にガッと挟まった状態のナガルの太腿に押さえつけられる。  恥ずかしいなんてもんじゃない。消えてなくなりたい。それなのにナガルは許してはくれない。くれるわけがない。 「さっさと降参しちゃえばいいのに。だってタイラさん、別におれの見た目きもーいとかむりーとかじゃないんでしょ?」 「……まあ、見た目は、それほどでも」  嘘だ。ぶっちゃけ死ぬほど好みだ。  ファミレスで見たときは人間っぽくない動き方とワケわかんない言動の方に目が行って、なんかバケモンみたいな男だな顔は綺麗だけど、程度だった。  でもコイツの感情のわけわかんない方向性がわかると、不気味さはむしろ消えた。ぶっこわれた人間なんだから、そりゃぶっこわれたように笑うだろうよ。  勿部ナガルはぶっこわれている。だから、そのぶっこわれたオモチャみたいな動き方で、笑い方で、立ち振る舞いでなんの不思議も問題もない。  違和感がなくなると、ナガルの外見は単純に背の高い手足の長いイケメンでしかなくなった。中身は置いといて、外身だけなら正直抜ける。  首が長いのも、鎖骨がくっきりしているのも、色気のある目じりも、細くて長い指も、薄い唇も、絶妙に性癖に刺さる。中身がナガルじゃなけりゃ、ヒトメボレしたっておかしくない。もう一回言うが、中身がナガルじゃなければだ。  どんなに見た目がパーフェクトでも、コイツは勿部ナガルだ。  それだけで外見の百パーセントの好感度が一気にマイナスにまで落ちる。  だが悲しいかな。こいつを勿部ナガルだと認識しているのは俺の理性で、こいつの外見に反応しているのは俺の本能だ。残念ながら俺は、理性よりも本能の方が若干反応が速いらしい。  だからナガルが首を傾げて笑う時の喉仏の動きとか、ちらっと見える艶やかな舌とか、そういうものに見事に反応してしまう。……別に好みじゃないです、なんて嘘、早々にばれているだろう。  ナガルの唇は耳から肌をなぞりながら下る。甘い愛撫のような感覚に、身体が勝手にぞくぞくしはじめる。 「ふふー。……いまちょっとびくっとしたね? タイラさん、喉、すき? ていうかおれに押し倒されて乗っかられてるだけなのに、ちょっと反応してるよね? いじめられるの好きなタイプ?」 「っ、ちょ、舐めん、な……、っ、ふ……」 「声殺したらだめーだよ。いっぱい聞かせてあげなきゃ。ほら、ママ、すげー顔してる。タイラさん、見える?」 「み、みたく、ない、むり……!」 「ふーん? じゃ、別にいいけどね。でもおれのことはちゃんと見なきゃだめだよ? ほーら、こっちむいてー。……ほら、結構ちゃんとコーフンしてんじゃん。まだ何もしてないのに、タイラさんのチンコちょっと硬いよ?」 「……おま、ほんと、そういうの、なんで言……」 「言うとタイラさんが泣きそうになってかわいいから。ほらめっちゃ硬い。おれよりばっきばきじゃーん。なに、溜まってたの? あ。そっかぁ、ママがずーっといたら、オナニーもできないよねぇ」  図星。その通りすぎて息を飲むことすらできずに睨むこともできない。同居人の居ぬ間をぬって自慰をしたくても、ママはずっと、四六時中この家にいるのだ。  それにこのところは恐怖が勝りすぎて性欲どころの話じゃなかった。健康だってギリギリ保ってるくらいなのに、オナニーしている場合じゃないだろ。そりゃ急に撫でられたら変な声くらい出ちまう。……俺が特別エロいだけじゃない、と思いたい。  マジで泣きそうな顔晒すしかない俺を覗き込んで、至近距離でナガルは笑う。 「きつそうだし、とりあえず一回ぬこっかーっつってもおれ、男相手にすんの初めてだから、痛かったりしたらごめんねぇ? あ、タイラさんベルトしてないの? 準備がいいねー」  別に準備してたわけじゃない。久しぶりの外出準備にテンパりすぎて忘れてただけだ。  俺がうっかりしていたせいでベルトという防具をすっ飛ばし、ナガルはさっさとジーンズのジッパーに手をかける。  俺の両手は頭の上でナガルの左手に拘束されているのに、右手は器用にそこに届いた。腕も足も長い奴で嫌だ。ほんと嫌だ。手際もよくて嫌すぎる。 「ナガル……、やめ……っ」 「やめると思う? 思ってないよね? じゃあその言葉、無意味だから意味ないよ? わーパンツ地味。すごいタイラさんっぽい。うーん大きさは……おれ友達いないし男の股間に興味ないからよくわっかんないなぁ。これってふつう?」 「しらねーよ! どけ!」 「どかないってば。いいじゃん、さっきの除霊のお礼だよ? あれ、ほんとうはお金とってやる仕事だよ? おれが勝手にやったとはいえさ、タイラさん、すんげー怖かったんでしょ? ベッド買おうか迷うくらい毎晩毎晩這いずってのぞき込んでくる黒いヤツに怯えてたんでしょ? ちょっとおれに触らせてくれるくらいよくない? 怪我させるつもりも、痛くするつもりも一切ないんだしさー。おれね、タイラさんに嫌いになってほしいけど、別に物理的にぶっ叩こうとか痛い事しようとか微塵も思ってないし」 「……そりゃ、感謝は、してる、けどさ。他にもっとなんかやり方……っ、ひぁ!? ま、ちょ……ぁ、やだ……っ、……!」 「…………わー。あったかーい」  初めて子犬を抱き上げたみたいな声出すんじゃねーよひとのチンコ触って! と突っ込めたら気持ちよかっただろうに俺の声帯はビビりすぎていて掠れた声しか出さない。  するっと下着から取り出された俺のアレは、最高に恥ずかしいことに若干もう濡れていた。恥ずかしい。むり。ほんとむり。泣く。三十一歳だけどこれは泣いていいと思う。  ただでさえ無理なのに、妙に感動しているナガルは容赦なく俺を掴む。ばか擦んな、馬鹿ぐりぐりすんな! って言いたいのにひゅっと息と一緒にひっこんだ言葉は、喘ぎ声にしかならない。 「へーなんか、自分の触ってもほら、感覚ってよくわかんないけど。なんかあったかいゴムみたいだねぇー。わりといけるなぁ。うん。ていうかタイラさんかわいいね? 真っ赤だね? ちょっと泣いてるね? うっそ、かわ……えー。これもっとぐちゃぐちゃしたらもっと泣いてくれる?」 「おま、やめ……っ、ぁ、だめ、だめだめだめだっつって……っ、ひ、ぁ……っ!?」  俺の先走りを指に絡めて、まんべんなく竿にまとわせるように塗りたくって擦る。それだけで結構もう無理だったのに、どこかなぁーここかなぁーなんてにこにこしながら丁寧に丁寧に擦りあげていくものだから、本当に涙が滲んできた。  生理的な涙なのか、屈辱の涙なのか、自分でもわからない。  俺の目じりを嬉しそうに舐めるナガルの唾液の冷たさだけをリアルに感じていたのは、お得意の現実逃避かもしれない。  なんで俺、こんなとこで知らない男にチンコ握られてんの?  なんて疑問を考えると死にそうになるし、やっぱり罰だとか思っちゃうし、そうすると今までの罪とかそういうの考え始めてまた意識が飛びそうになるから、いっそ俺は快楽を追った方がいいんじゃ……? と思い始める。  こう言っちゃなんだが、子供ができるわけじゃない。女の子はそのリスクがある。どうしてもある。でもおれは、いざこいつの精子がうっかり体内に入ったところで、ちょっと腹を下すかもしれないだけだ。  そもそもゴム常備してないからアナルセックスはできないし。残念ながら肛門ってやつはいきなり棒を入れるようには作られていない。  相手がバイブならこっちが負けるかもしれんけど、いざ尋常にレイプされそうになったところで、しばらくご無沙汰だった俺のソコには、がんばっても指くらいしか入らないだろう。たぶん。  ゲイでもバイでもないこいつがそこまで頑張ってレイプするとも思えない。いきなりその辺から適当な棒を持ってくる可能性は否定できないのが、なんかこう、アレだけど……。  うん。これは現実逃避だ。やっぱり俺は、現実逃避が大好きなくそやろうだ。  ママとか、母さんとか、同居人とか、別れた恋人とか。そういうものを考えるのに疲れた。半分くらいは自業自得なんだけど、本気で疲れた。  頭がぼんやりしてくる。意識が、段々理性から本能にシフトする。  ぬるぬるの先っぽに緩やかに爪を立てられ、思わず腰を浮かしてしまう。もうすっかり濡れたチンコはがっつり勃っていて、恥ずかしさなんかカンストしてもうわけがわからなくなっていた。 「タイラさん、やっぱちょっと痛いっていうか強めの方が好きだねー。先っぽ、ぐーってするの、好きでしょ? これ、イイ?」 「っあ、ぁ……ふ、……っ、それ、だめ、だから……ぁっ」 「嘘つき」  俺の目の前でかぱ、と口を開けて笑ったナガルが、すっと頭を下げる。そして俺の喉に齧りつく。 「…………っ、ひ、ぅ……!」  ゾク、とした快楽が腰に走る。喉ダメ喉ダメ喉ダメなんだってば、って伝える術がない。俺の口はだらしなく喘ぎ声を吐き出すだけの駄目な器官でしかない。  歯を立てられ、べろりと舐められ、肌を吸うように啄まれてそのあまりの気持ちよさに眩暈がして、頭が真っ白になった。  ああ、うん。俺はこの感覚を知っているし、たぶん大体の成人男子は知っている筈だ。……あー……、むり……しにたい……いやしにたくはないけど、しにたくはないんだけど、できればいますぐ逃げ出して押し入れの中とかで膝をかかえて蹲りたい。 「わー……タイラさん、もしかして、喉噛まれてイッちゃった? え? ……チンコじゃなくて? 喉? うそ、はは、ちょうえっちじゃーん」  うるせーだまれ、と言いたかった。  言いたかったのに言えなかったのは、けらけら笑うナガルがけらけら笑いながらも俺のアレをぐちゃぐちゃにするお作業を一切やめる気配がなかったからだ。  管から白い粘着質な液体がすべて出た後も、ぬめぬめぐちゃぐちゃする手を一切休めない。  いやいやいやいや! まて! まてナガル待ってほんと待ってください無理だって……! 「待っ……なが……っ、い、イッた、イッた、から、ダメ、ダメ、も、やめ……っ、扱かな……っ!」 「ん? なんで? タイラさんすごーく気持ちよさそうだよ? 駄目じゃないし嫌じゃないよね? 嘘よくないよ? うわぁすっごい出たねぇ……おれも脱いどきゃよかったかなぁ? 次終わったら脱ぐね? タイラさんも脱いじゃおっかぁ」 「つ、次って、何……、ぁ、や……そこばっか、駄目だって、言っ……っ、ん、ぁ、」 「くびれのとこ、好きだね? 覚えたよ? あは、すげーね。すげーかわいい。タイラさん今度鏡あるとこでしようよ。すんごいどろどろの顔してんの、見たらきっともっと恥ずかしくてきもちいーよ。……いま想像した? わーえっち。びくびくしたね。かわいいね?」 「ぁ、あ、みみ、だめ……ぁ、ふ……」 「噛まれんの、好き?」 「…………す、」  すき。と、うっかり本音が出そうになった時、急に俺の左側――ナガルが囁いているのは右側だ――に、何かが落ちて来た。  何か、ボールみたいなもの。白くてでかいスイカくらいの大きさのもの。  何? って思った。普通に。ごく普通に思ってしまった。そして俺は……理性をぶっ飛ばしたままの俺はごく普通に反射的に左側を見てしまった。見てしまったから、認識してしまった。  腰を折り異常な体勢で顔を床につけ、俺の方を凝視している顔面が溶けた女を。 「――――――……ッ」  いつもだったらもっと用心する。用心して無視する。  それなのにこの時は理性なんてものぶっ飛ばしたままで、すっかり忘れていた。  ここは、ママの家だということを。  目がない。うっすらここか? という名残はあるが、鼻もないし口もなんていうか……どろどろに溶けていて唇の痕跡すらない。ただぼっかりと穴が開いているように見える。  あー。あー。あー。あー。と、金属のような声がする。左側から、一気に全身に鳥肌が立つ。  思わず本気で身体を起こそうとして、伸し掛かる男に力任せに阻止された。精液まみれであることなんか一瞬で忘れてもがく。でも、ナガルは放してくれない。 「なが……っ、ひ、ひだり、そこ、すぐ……っ」 「ん。知ってる知ってる。いるなぁ、って思ってたもん。おれ、タイラさん程じゃないけどわりと見えてるからねー。これ、タイラさん初見? いままでいた?」 「は、はじめて……みる、奴、」 「そかー。じゃあ除霊むずいかー。話は長けりゃ長い程効くって感じだからねーいきなり現れた奴にはおれ、基本無力なのよねー。ってことで、はいこっち見て」 「え。え?」 「どうしようもないから無視一択だねーどうせ逃げらんないでしょ、この家の中からは。大丈夫大丈夫、霊障なんてね、大体は木の持ちようだからさ。ごはんちゃんと食べてちゃんと寝てれば大概平気だよー」  こいつ何言ってんだ。  こいつマジで言ってんのか。  俺の横の奴が見えてんのか本当に見えてんのか? 聞こえてんのか? あーあーあーあーあーあーあーあーって、ほら。ほら、言ってんじゃん。唸ってんじゃん。どろどろの女が顔をべったり俺に近づけてんじゃん。すぐそこにいるじゃん。  そう訴えたいのに口はパクパク動くだけで、パニックになった俺からは涙しかでない。  それでもどうにか言葉を探す。どうにか、おまえに言わなきゃいけない言葉を探す。 「ナガル、助けて……!」  一瞬、なんでかナガルから表情が消えた。  ずーっとあたりまえのようにそこにあった壊れたオモチャみたいな笑顔が消える。けれどすぐに、心底嬉しそうに眼を細めて、まるで人間みたいにナガルは笑った。 「うん。助けるよ。おれがタイラさんを助ける。だからだいじょーぶだってば。安心して、ね? せーよくって幽霊より強いとかよく聞くでしょ? 聞かない? そう? おれはたまにきくよ? えっちなこと考えてたらユーレイ撃退しちゃいましたーとか。……だいじょぶ、おれがいるよ? だからタイラさんは怖がらないでさ、そんなやつ気にしないでさ、おれだけ見てよ」  ゆっくりと近づく顔の意味がわからないのに、本能で『あ、これキスだ』と目を閉じる。  隣で溶けた女が唸っている。キスなんかしている場合じゃない。場合じゃないのに、俺は啄む唇の甘さに一瞬で現実逃避した。  拘束されていた両手を開放され、迷わずにナガルの背中に手をまわして抱きしめた。  ナガルの濡れた手が俺の頬を掴む。覚えのある精液のにおいがする。でも不快よりも快感が勝る。 「……ん……、ふ………………タイラさん、キスうまいねー。……ちょっと、はまりそうー……」 「ぁ……ふ………………、……っ」  柔らかい舌が絡む。くちをあけろ、と言われるまでもなく当たり前のように舌を差し出した俺に、ナガルは余計なことは言わずに食いついてきてくれた。  キスに味なんかない。ないのに、甘ったるい雰囲気が充満する。  飴を転がすみたいにお互いの舌を舐め合って、十分満足して少し離れたのに、やっぱもうちょっとと思ってねだってしまう。  たりない。と言えば、ナガルは笑う。笑ってキスをしてくれる。  たっぷりキスを堪能したのに――左の奴は消えないんだけどどういうことだ勿部ナガル……。  そう思いじろりを睨むと、聡い男はけろっと笑う。 「おれ別にー、ちゅーしたらそいつ消えるよーとか言ってないよー? 気にしないで無視しよ! って言っただけー」 「む、無視って言われても、う、ひ、ぎゃ!? おま、何!?」 「おっぱいないねーそうだよねー男の人だもんねー、でもまあこれはこれでぐっとくる……これ乳首?」 「お、おま、おまえ、何やっ、」 「えー? えっちなこと再開。だってユーレイとか、気にしても仕方ないし。いるもんはどうしようもないし。そんなことよりタイラさーん、おれともっとエッチしよ?」 「しねーよ馬鹿そこ退け、ぅあ、ちょ……っ、だ、だめだめだめ喉、ひ、ぃ、あ」 「……ウィークポイントはっけーん」  喉をべろりと舐められ、濡れた場所を指先でなぞられただけでもうだめだ。全く腰に力が入らない。  左からは相変わらずあーあーあーあーあーあーあーと金属みたいな唸り声が聞こえてくる。怖くて見れないけど、顔の溶けた女は普通にそこにいるんだろう。 「せ、せめて、ば、ばしょ、……場所、変えて……っ」 「ん? そう? 別にここでよくない? あ、おふとんの上がイイ的なこと?」 「いい! 布団がいい! 布団好き!」 「そっかーじゃあお布団……えーでもおふとんってタイラさんの部屋じゃない? ……そこ通っていくの?」  そこ。  と指し示された居間の入り口を見る。  そんですぐに、見なきゃよかったと後悔する。  立ちふさがるようにそこにいるのは、いままで見たことないような形相のこの家の主だったから。 「………………座布団の上で、いいです」 「ん。おれもそう思うー」  けらけら笑う男に抱き起され、はいばんざーいと服を脱がされ、ずり、ずり、と床を這うような音で移動する溶けた女を背後に感じながら、服をぬぐ綺麗な男のどこをみたらいいのかわからなくて、今こそ現実逃避がしたいと心底思った。  結局この日は座布団の上で一夜を明かしてしまったんだけど。  溶けた女も、ママも、いつの間にか居なくなっていて、俺に残ったのは若干放り出せなかった羞恥心と綺麗な男の予想外に優しいキスの記憶だけだった。

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