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初恋終焉
夢の中でピアノを弾く俺のそばで笑う彼の姿も、熱くて舌先を火傷したたこ焼きの温度も、朝起きて枕に滲んだ涙も、俺は全部なかったことみたいに無視をして、毎朝学校へ向かうべく玄関のドアを開いた。
「おはよう」
毎朝、通学路で少し前を歩く彼の背中を見つけては早足で近付き、挨拶する。
それだけは唯一昔から変わらない景色、卒業するまでの俺に許された、唯一二人きりの時間。
「おはよ」
彼は振り返って特別笑うわけでもなく、掛けられた声に反応しただけに過ぎない熱量の声で挨拶を返す。
「今日は少し寒いね、冬は嫌いだ」
近所のおばさんたちみたい。俺が彼に決まってするのは天気か季節の話。それくらい、俺たちにはもう共通の話題がなかったのだ。
冷たい風が鼻に当たってくすぐったいせいなのか、なんだか鼻の奥がじんと痺れる。
「……お前、寒がりだよな」
何かを思い出すみたいに彼が不意に薄く笑った。
その仕草が俺にはものすごく悔しかった。
俺のことを知った風で話す彼に、ものすごく腹が立った。
ずっとあれから俺のことなんてまるで何も知らないみたいにしているくせに、なんでそんな顔して笑うの、笑えるの? 俺はもうずっと彼のことで泣くことしか出来ていないのに──。
並べて歩いていた肩がずれて、視界からいなくなった俺を彼が不思議そうに振り返って眺めた。そして例のお決まりのセリフを口にした。
「どうした?」
俺は久しぶりに聞かされたそれに、当然のように「なんでもない」と答えるはずだった。そうしたかった。彼があの言葉をくれたのだから、そうすべきだと思ったのだ──なのに……唇は震えて、歯がカチカチと音を立てる。目も鼻も熱くて、痛くてたまらない。
視界の中で驚いた瞳で俺を見る彼が滲んで、歪む。俺は馬鹿だ、なんて勿体無い。俺を見てくれる彼の姿を少しでも見ていたのに、もうこの冬を越したら彼には会えないのに。
目を開けるんだ。涙を拭え、彼に笑って「なんでもない」と答えるんだ。俺たちだけの大切な合言葉。もう次はないかもしれない。声を出せ、頼むからもう少しだけ強くいてくれ。
どうにか開けた唇の隙間から息を吸って、声を出そうとした瞬間、俺は彼に引っ張られ、路地へと吸い込まれた。
俺は一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
自分より背の高い彼の肩が視界を半分塞ぎ、強い力が俺を締め付けている。彼の肌と、形の良い耳朶がすぐそばにあって、そこからすごく良い匂いがして、思わす膝が抜けそうになった。
間違えでなければ、彼は、今、俺を抱き締めている──。
そのあまりの衝撃的事実に、昔のことが一気に甦った──。
中1の冬、彼の父親が新しく母となる人を彼に紹介した時、彼は家に来て、そのことを俺に話しては酷く落ち込み、辛そうに涙を浮かべ、突然俺に抱きついて来たのだ。
俺は弱った彼の姿に戸惑いながらも、必死に彼の背中を撫でて、一緒に泣いたのを今でも覚えている。
だけれど、これはあの時のとは訳が違う。
彼の体温がまるで違う──抱き締める力がまるで違う──彼の心臓の音が、あの時とは明らかに違う。
俺が彼の名を口にするよりも早く、彼は口を開いた。
「卒業したら、俺と一緒に東京へ行こう。俺と一緒に住もう。俺とずっと一緒にいてくれ──」
俺は自分が泣いていることに肌を伝う涙の温度で知った。
俺はまだ、毎夜見ている夢から醒めていないのか──?
彼を欲するあまり、俺は朝から白昼夢を見ているのかと、声も出せずに鯉がするみたいにパクパクと空気を食んだ。
「俺のせいでお前が周りから変な目で見られるのが怖くて、ずっとお前を避けてた、ずっと我慢してた。けど、もう無理。ごめん、好きなんだ。好きだ──ずっとお前が好きだった。もう離れたくない、ごめん──」
馬鹿だ──、
俺も彼も、大馬鹿だ──。
俺たちは誰よりも互いにそばにいたくせして、誰よりも互いの気持ちに鈍感だった──。
卒業という名の、傷付かず、綺麗に離れられる儀式を前に、自ら先に壊れるのを恐れて、俺たちは二人してわざと隙間を作って無理に別の道を歩いた。
望んだ場所も行き先も同じ道だったのに──。
俺は彼の腕の中で馬鹿みたいに泣いた。
彼の制服が濡れることなどお構いなしに、今まで堪えていた涙も声も全部彼の体に吐き出すみたいに、子供みたいにしゃくりあげて、彼の背中へ腕を回して必死にしがみ付いた。
ずっとこれが欲しかった。
ずっと俺だけに特別な彼を夢見てた。
俺は彼が好きだった。
そして、彼も──俺を好きだった。
「好きだ──好き、俺も大好き。離れたくない、もう離れたくない──」
俺からの返事を聞くと、彼は初めて俺のピアノを聴いたあの時と同じ瞳で俺を見た。あの綺麗な丸い黒い瞳で──。
俺はずっとそばでそれを見ていたかったけれど、彼は少し居心地悪そうに照れながら目を閉じろよと、俺に命令した。俺は薄く笑ってそれに従い、初めて知る彼の味と温度に深く酔いしれた──。
fin.
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