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第1話

 窓から見える太陽が、ずっと高いところに昇っている。鳴き始めたセミの声をガラス越しに聞きながら、近江谷京介(おうみやきょうすけ)はデスクでひとつ大きな伸びをした。 「……やっと終わったぁ」  気の抜けた声とは裏腹に、パソコンの画面に映るのは生々しい臓器の写真。おまけにタイトルは『死体鑑定書』。それをものともせず、京介は机上に置かれた箱から一口サイズの黒糖まんじゅうを取り出して口へと放り込んだ。  総合大学の医学部、法医学研究室。京介が研究生を経て助教として籍を置くことになったのは、三十二歳になった今年の四月のことだ。研究生時代から変わったことといえば少しばかり学生に講義をする機会を得た程度で、毎日解剖と鑑定書作りの繰り返し。それでも飽きるなんてことは全くない、いや、あり得ない。物言わぬご遺体の声を拾って真実を探る。そもそも医学の道に進んだのも『生物の生死に興味があったから』という理由だった京介には、興味をそそられる進路だったのだ。  今回の検死案件は、鑑定書をプリントアウトしてサインをすれば終わる。もう一度画面に目を通して、京介は印刷ボタンをクリックした。ついでにもう一個まんじゅうを手に取る。その瞬間、研究室中に『あー!』と盛大な叫び声が響いた。 「……なに、萩野(はぎの)先生」 「また近江谷先生が黒糖まんじゅう食べてる!」 「美味いよ。食べる?最後の一個だけど」 「そ、そうじゃないですよぉ」  わざとらしく崩れ落ちてみせるのは、今年臨床の初期研修を終えて法医学研究室に入ってきた萩野瑞樹(はぎのみずき)。中性的な名前と中性的な容姿をしているが、れっきとした女性である。瑞樹はプリントアウトされた鑑定書を揃えて京介に手渡しながら口を尖らせる。 「近江谷先生がお菓子とコーヒー以外を口にしているのを見たことがないんですけど。食生活はどうなっているんですか?」 「言われるほどひどくはないと思うけど」 「嘘だぁ。ここ三日、何食べました?」 「……おとといはオープンしたてのケーキ屋のショートケーキ。昨日は喉が渇いていたから氷食べて、今日は見ての通り」 「氷は食べ物じゃないです!だからこんなに細いんですよ、BMIいくつですか?」  瑞樹はおもむろに京介の手首を掴んで持ち上げる。カフスのボタンを留めているというのに、シャツの袖はするりと肘まで落ちていった。ほとんど肉の付いていない骨張った腕が現れる。質問には答えません、という意思表示のように、京介は無言で腕を引いた。  実際、初めて京介を見た人は『不健康そうだ』という第一印象を抱くだろう。切れ長の涼しげな瞳は黒縁のセルフレーム眼鏡に隔てられ、表情を読みづらくしている。さらに眼鏡が顔に影を落とすことで、どことなく顔色が悪く見えてしまう。長めの黒髪であることがまた、暗さを助長している。身体の線は細く、どこを触ってもしっかり骨格が分かるほどに肉付きが悪い。京介自身がゆったりとした服装が好きなのも相まって、貧相な見た目に拍車をかけているのだ。 「健診では特に治療がいるモノはないからいいんだよ。あ、じゃあエネルギー源としてもう一個食べておきますかね」 「そういう問題じゃ……、や、もういいです」  呆れる瑞樹に構わず、京介は最後のひとつになったまんじゅうを胃に収めて箱をゴミ箱に捨てた――つもりだったが、わずかに届かず床へと落ちた。京介が手を伸ばす前に、瑞樹がそれを拾い上げる。 「……和菓子屋、彩花堂(さいかどう)?」 「うん。最近ここの黒糖まんじゅうにハマってて。サイズも手頃だし、この辺の和菓子屋の中では一番あんこが美味しいんだよね」 「近江谷先生おすすめのお菓子屋は外さないからなぁ。今度行ってみようかな」  丁寧に箱をつぶしながら瑞樹が言う。京介の甘味好きも店へのこだわりも、法医学研究室の面々は嫌というほど知っているのだ。教授が手土産用の菓子折りや来客へのお茶菓子を選ぶ時に、必ず京介に意見を求めてくるほどには詳しい。スイーツ好きを自称する女子大生なんて、到底京介の足元にも及ばない。問題なのは、研究室の誰一人として京介が食事らしい食事を摂っている姿を見るのが稀だということだ。 「ちなみに、今日は何を食べるんですか?」 「ん?パティスリー・ソレイユのケーキ。今日はまだ早い時間だし、限定品も残っているはずだからね」 「夕食の話ですよ?」 「そうだけど?」  当然のように返す京介に、研究室中から呆れたようなため息がちらほら聞こえる。どうやら皆、京介と瑞樹の会話を聞いていたらしい。 「大丈夫、明日は兄ちゃん一家が来て全部やっていくから」 「喫茶店のマスターのお兄さんですか?ほんっと、近江谷先生ってお兄さんに生かされている感ありますよね」 「失礼な。兄ちゃんがお節介なだけ」  いや、お前の生活が目に余りまくりだからだろ。研究室にいる面々が無言でツッコミを入れる。そんな雰囲気をものともせず、京介はささっと帰り仕度を済ませて立ち上がった。 「じゃ、お先に」  鑑定書を出す手配をしてしまえば、明日の始業時間までは自由になる。京介にとって、行きつけの洋菓子屋『パティスリー・ソレイユ』に寄ることは仕事が早く終わった日の醍醐味なのだ。大抵京介のお気に入りのケーキは閉店間際には売り切れていて、店内を覗くだけになってしまうことも多い。何も買わずに出てくるのは忍びなくて、かといって目当てのモノが買えないのも残念で。好きな店だからこそ、しょうもないことで気分の浮き沈みをさせるのは避けたいところだ。 (その点、彩花堂の黒糖まんじゅうはありがたいよなぁ)  大学から一番行きやすい場所にある和菓子屋『彩花堂』が、最近定番商品として売り出しているミニサイズの黒糖まんじゅう。これが当たりだった。いつ店を訪れても売り切れていることはなく、仕事の合間に食べるのにちょうどいい大きさ。突然の来客の対応にも使えて、少々の余りが出ても配りやすい。最近の京介には、もはや欠かせない一品になっている。 「明日は彩花堂かなー、って、えぇ……?」  足取り軽く『パティスリー・ソレイユ』の前にやってきた京介は、扉の張り紙をみて思わず嘆きの声をこぼした。そこには『臨時休業』の文字と共に謝罪の言葉が書かれている。なにも今日じゃなくたって、と京介は静かに肩を落とした。 「うーん、どうしようか……」  午後の予定が狂ってしまった。そういえば、最近一駅先に新しい洋菓子屋がオープンしたんだっけ。足を向けてもいいが、期待外れだった時のことを考えると冒険するのはためらわれる。ならば、なじみ深い店の方が良い気がした。 「……彩花堂にしよ」  当初の予定とは違うけれど、外さないという一点では彩花堂に勝るものはない。たまには黒糖まんじゅう以外に手を出しても面白そうだ。京介はくるりと進行方向を変え、通い慣れた和菓子屋への道を進み始める。

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