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第2話

 彩花堂は老舗というほどではないが、それなりに長い間地域に根ざしてきた店だ。二代目の店主が亡くなったあとも、おかみさんが元気に切り盛りしている。噂では三代目が店に出たこともあるらしいけれど、京介の記憶にはおかみさんの姿しかない。  少し身を乗り出せば海が見えそうな上り坂。その途中にこぢんまりと建っているレトロな二階建ての建物が彩花堂だ。創業時から内装はリフォームしているらしいけれど、どこか懐かしさを覚えるようなたたずまい。  軒先にのれんがかかっているのを見てほっとした京介は、少し早足で店内へと入っていった。 「いらっしゃいませ」  おかみさんの落ち着いた声に出迎えられ、京介は一度店内の空気を吸い込んだ。まったりとしたあんこの甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつもはほぼ一直線にまんじゅう詰め合わせの箱を手に取って会計を済ませるところだけど、今日は違う。店内に入って目の前にあるはずなのに、ほとんど中身を見ることのないガラス張りのショーケース。なぜか少々の緊張感を覚えながら、京介は中身を覗き込んだ。 (……うわぁ、)  一目見て、京介は普段の自分がいかにもったいないことをしていたのかを思い知らされた。朝顔の練り切り、金魚の形を透明な寒天に閉じ込めた錦玉羹、海の色をした琥珀糖。ひとつひとつが季節を切り取った芸術品だ。細かいところまで視線を巡らせながら、京介は感嘆の息を漏らす。  茶の湯をたしなむわけではないけれど、たまには上生菓子も買ってみようか。京介はさらにショーケースの中を眺めてみると、不意に商品と『目が合った』。 「えっ?」  無意識のうちに声が出てしまい、京介は慌てて口をふさぐ。そこには、一つ目お化けをかたどった練り切りが数個、仲良く並んでいた。いかにも伝統的、というような和菓子たちの中で、絵本にでも出てきそうな一つ目お化けが独特な存在感を放っている。気付いたら目を離せなくなっていて吸い込まれてしまう。しばしそのまま固まっていると、不意にショーケースの向こう側から声が降ってきた。 「可愛いでしょ、その練り切り」 「っ!」  反射的に京介は顔を上げた。瞬間、声の主とぱちりと目が合う。二の句が継げないままぽかんとする京介に、その人はにこりと笑ってみせた。どこかで見覚えがある顔立ちだな、と京介が記憶を手繰る前に、答え合わせとばかりにおかみさんが近付いてきた。 「こら、紘人(ひろと)。お客さんに突然そんな風に声を掛けたらびっくりするでしょ?」 「ははっ、嬉しくてつい」 「すみませんねぇ、近江谷さん。うちのバカ息子に構わず、これからもひいきにしてくださいね」 「……はぁ」  京介が曖昧に返事をすると、おかみさんはにこりと笑って店の奥へと下がっていった。店先に残されたのは、京介と紘人の二人だけ。おかみさんの言葉どおりだとすると、紘人はここの息子――、おそらく三代目店主らしい。 (既視感はおかみさん、か……)  人のよさそうなおかみさんの血をしっかり引いたらしく、紘人もまた穏やかな雰囲気をかもし出していた。垂れ目がちで優しげな瞳、きゅっと口角の上がった唇に、耳に心地好い波長の低めの声。髪型は帽子で隠れて分からないけれど、生え際を見る限り短く揃えられていて明るい茶色に染められているのだろうと推察できる。柔らかい雰囲気とは裏腹に引き締まった身体には、紺色の作務衣がよく似合っていた。ぼんやりと何をするでもなく見つめていると、彼は少し戸惑ったような顔をして頭を下げる。 「先ほどはすみません。彩花堂三代目の五条紘人(ごじょうひろと)といいます。母の言い方だと常連さんですか?えーっと、お名前はなんて……」 「近江谷。近江谷京介。度々寄らせてもらっています、ので」  いつもまんじゅうだけ買ってショーケースは見ていないんだけど、という言葉はなんとか飲み込んだ。それを知ってか知らずか、紘人の表情がぱっと明るくなる。 「ありがたいなぁ。どうしても和菓子って若い人には敷居が高いもののような気がしちゃって」 「そう、ですか?」 「とっつきにくい、って言われちゃうことも多いんですよ。だから伝統の形と別ベクトルのものを作ってみてはいるんですけど、それがお目に留まったのも嬉しくてね」 「……このお化け?」 「うん、それ」  紘人はそう言うと、ショーケースの中から一つ目お化けの練り切りを一個取り出した。またお菓子と目が合う。手のひらサイズの小さな練り切りを、紘人の大きな手が器用に包んでいく。 「こんな感じだったら子供受けもいいかなって」 「子供受けを狙っているんですか?」 「子供が好きなのもあるけど、和菓子を広い世代に食べてほしいですからね。近江谷さんは、和菓子好きなんですか?」 「はい。あんこは良いですから。血糖値の上がり方も緩やかになるし、砂糖よりも栄養価が高い。腹持ちも良いから食事代わりにもなりますしね」 「えぇ……?作る側が言うのもアレですけど、お菓子は食事じゃないですよ」  苦笑しながら紘人が言う。研究室でも散々言われているフレーズが、なぜかすっと沁みるような心地がした。初対面だからだろうか。京介は少し戸惑いを覚え、それを隠すように一旦ショーケースの前から離れていつものまんじゅう詰め合わせを手に取った。スタンダードサイズと比べて小ぶりで、個数が多い方の詰め合わせ。無言のまま戻って、紘人の方に差し出す。 「これ、お願いします」 「ありがとうございます。千円ですね」 「はい」  本当はショーケースの中身にも挑戦してみようかと思ったのに、ついいつも通り会計の流れに持っていってしまった。まあ、彩花堂ならいつでも来れるから、次でもいいか。京介は財布を取り出しながら、次に時間ができるのはいつだろう、と不規則な仕事のことへ思いを馳せる。ぼんやりしているうちに、紘人は手際よくまんじゅうの箱を袋詰めしてレジ打ちを済ませていた。そうして、はっと思い出したように、さっき包んでいたお化けの練り切りを手に取る。 「近江谷さん、よかったらこれもどうぞ」 「!」  物欲しそうな目でもしていたのだろうか。少し気恥ずかしくなって、京介は再び財布を取り出す。 「いくらですか?」 「お代はいいですよ。お近づきのしるし、ってことで」  柔らかい笑顔を浮かべて、紘人は練り切りも袋の中へ入れてしまった。そうして、京介が止める間もなく袋を握らせてくる。 「また新しい上生菓子を考えておきますから、今後ともどうぞよろしくお願いします」 「……こちらこそ。また、来るので」 「ふふっ、嬉しいな。ありがとうございました」  軽く頭を下げて手を振る紘人に、京介も会釈で返す。いつもと違う温かさが、ぽっと胸に灯っているような心地がした。それをあんこの匂いと一緒に吸い込んで、京介は彩花堂の扉を開ける。空はほんのりとオレンジ色に染まり始めていて、未だ熱を持った湿度の高い空気が頬を撫でていった。セミの声と車の音が、京介を一気に現実へと引き戻す。 「……夏だなぁ、」  誰に言うわけでもなく呟いた言葉は、雑踏の中へと溶けて消える。夏の間に、新作の上生菓子はいくつ見られるのだろう。想像もできないくせに頭の片隅で考えながら、京介は自宅への道を早足で進んでいった。

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