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第41話

 彩花堂の閉店時間は十七時から十八時の間。紘人が片付けを済ませて京介のマンションに来るのは十九時前後になる。京介はちらりと時計を見て、ひとつ深呼吸をした。 (……よし、)  このマンションを買ってから自らキッチンに立ったのはほぼ初めてのことかもしれない。さすがにポットのお湯を入れるとかそれくらいはするけれど、調理目的でキッチンを使っていたのは英介と海咲くらい。彼らが来ない限り使われていなかった(ここ最近は紘人が使っているが)炊飯器や鍋が、本来の持ち主によって稼働している。  料理自体、やってやれないわけではない。レシピ通りにやればそれなりの物はできるし、実際、国試前や研修医の頃は友人達と持ち回りでごはん作りをしていたものだ。その仲間がそれぞれの道へ進んで会うこともなくなれば、食に興味がない京介が料理をしなくなるのは容易に想像がつくことで。 「……食えるモノにはなってるよな、一応……」  京介は何度目かも分からない味見をした。多分、大丈夫。ベースの味付けは市販のだしの素だから、とびきり美味しくはできなくても大きく外しはしないはず。妙な緊張を抱えたままソファーに座っていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。 「!」  はじかれたように立ち上がって、京介はドアモニターの前へと向かった。映し出されたのは、来訪を待ちわびていたまさにその人。 『ただいま、京介さん』 「ん、今開けるね」  オートロックを解錠して、紘人が部屋に上がってくるのを待つ。なんとか平静を装いつつドア前で待っていると、部屋のチャイムが鳴る。京介は、なるべくいつも通り、と言い聞かせて玄関の扉を開ける。 「おかえり」 「ただいま。今日は新作の求肥と節分の鬼と……、ん?」  紘人は部屋に入るやいなや、周りを見渡して首をかしげた。早速気付かれた雰囲気に、京介は思わず目をそらす。 「あー、えっと。お世話になりっぱなしだから、夕食くらい作っておこうかな、って」 「えっ……?」 「いっ、一応、常識的な味にはなってるはず!紘人さんが作るモノには遠く及ばない、けど……」 「……」  紘人がひゅっと息を飲む音が聞こえた。余計な真似をしてしまっただろうか。京介が恐る恐る見上げると、紘人は頬を林檎色に染めて固まっていた。 「ごはん、作ってくれたの?」 「……うん」 「京介さんが、俺に……?」 「そう、だよ……?」 「……やば、」  紘人の口から気の抜けたような声がこぼれた。かと思ったら、一瞬で視界が暗くなる。抱き締められている、と知ったのは、耳元に別の鼓動を感じたときだった。 「紘人、さん……?」 「どうしよう、めっちゃ嬉しい。信じられない」 「……どうせ、いつも不摂生してますよ」 「あっ、そういう意味じゃなくて!」  十センチの身長差。ふわりと髪の毛に口付けられる。思わず顔を上げると、そのまま額にもキスをされた。 「ずっと好きだった人と付き合うことになった、ってだけですごいのにさ。その人がごはんを作って待っててくれるなんて、新婚みたいだな、って思って」 「おっ、大げさだよ、それは!」 「そう?京介さんって無自覚で可愛いし、本当なら今すぐ食べちゃいたい」  そこまで言って、紘人ははっとした顔をした。すぐに後ろへ距離を取って、焦ったように首を振る。 「あ、えっと、大丈夫!気にしないで!せっかく作ってくれたごはんが先だしね、うん!」 「……」  食べちゃいたい、が何を意味するかなんて聞かずとも分かる。そんなの、こっちもあの日から食べられるのを待っているというのに。  京介は笑って、紘人の手を取った。 「ごはん食べて、お風呂に入ってからなら、いいよ」 「それって、」 「こないだ、抱かれてもいいって言ったじゃん。紘人さんの気が変わる前に、抱いてよ」  紘人の目がまるく見開かれた。大きく数回まばたきしたと思ったら、一瞬にして耳まで真っ赤に染まる。 「だっ、大胆だね?」 「紘人さんほどじゃないと思うけど」 「……もう、体調は大丈夫なの?」 「うん。散々休んだし、余裕」 「そっか……」  紘人は決心したようにひとつ息を吐いて、笑った。嬉しさが隠しきれない表情の中に、かすかに灯る獣じみた欲。 「ありがとう。作ってくれたごはんも、京介さんのことも、味わい尽くすから」 「……うん、」  熱っぽい視線が絡み合う。緊張で目蓋が震えるのが、自分でも嫌というほど分かる。それをごまかすようにきびすを返し、キッチンへと引っ込んだ。

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