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第2話 ひとつの間違い
フロントには誰ひとりいなかった。最近じゃ珍しくない、無人受付のホテルだ。パネルを操作して、適当に部屋を選ぶ。カウンターで待っている知らない赤の他人と会話せずに部屋まで行けるのはありがたい。その事務的な声が雰囲気をぶち壊しかねないし、何よりその夜の遊び相手とどんな夜にするかを話しながら選べるから。
しかしまあ、今日はそれが全くありがたくない。このストーカー野郎、今村とはほとんど今日が初対面みたいなものであって、大学でも会話なんてしたことがない。履修している講義は大体同じだが、いつも視界に映らないような端っこで熱心に授業を受けている、そんな印象。一言で言えば、俺とは住む世界が違いすぎる陰キャだ。
……今日はそんな奴とベッドインだって? ちゃんと考えたらおかしい気もするが、まあ多少のことには目を瞑ることにしよう。正気を保ったままじゃ、こんなストーカーは抱けないからな。とは言え、さっきのビンタと寒さで酒が抜けてしまっている。ここに来る前に一軒くらい居酒屋に行くべきだったかもな。酔っていた方が都合が良かったのに。
今村と手は繋いだまま、反対の手でパネルをタッチする。少々やりにくいし手を離してやりたいが、その気にさせておかないと急に逃げたりするかもしれない。こいつは手を振り払って逃げるなんてことができる奴には見えないが、念の為。
視界の端に映り込んで来る今村が鬱陶しい。おどおどしながら俺の指を目で追ったり、ホテルの内装をキョロキョロ見回したりしているのだ。慣れない場所だから興味が湧くのは仕方ないが、そんなに鳥みたいに動かれては恥ずかしい。
とは言え、なぜだかそこがまたかわいいようにも見えてきてしまった。これから抱く相手だし、せっかくならかわいく見えている方が助かるのだが。
部屋に入るとすぐに荷物をポンとテキトーに投げて、早速今村を押し倒す。
「え、小林くん、早いんじゃ――」
「そんなこと言って、本当は俺と早く遊びたいんでしょ? お前わかりやすいよ」
あやしく笑ってから、こいつには大きすぎるくらいのティーシャツの中に手を滑り込ませる。冷たい手で今村の温かな肌に触れた。愛おしく撫でた。
あぁ、人の肌は温かい。こんなときでもそんなことを考えてしまう。いつだってそうだった。誰かの体温というものは、柔らかくて、温かくて、俺を全部包み込んでくれる。心に落とされた黒を、優しく溶かしてくれる。今日は外気が冷たかったから余計そう感じるのだろうか。それとも――。
「小林、くん……? どうかしたの?」
「ん、別に何でも」
本当なら、人の熱を感じるこの大きな胸に埋まってしまいたい。何もせずに、ただ体温を感じていたい。もう二度と離すまいと抱きついていたい。だけどそれより、俺には良いことがある。心を満たすのはこんなただ温かいだけの時間なんかじゃない。熱くて濃いそれが、俺の癒し。
「さっきさ、ホテル前でいろいろあったじゃん? 俺、また間違えちゃったみたいなんだ」
手の動きは止めない。こいつをその気にさせるまで、こいつが俺に抱かれて良いと思うまで。
「だからあの子たちと遊べなかったんだよね」
ちらと表情を盗み見れば、口を開けたままのマヌケ面で俺の手を見つめているようだった。こいつはもう俺を望んでいる、そういうことだろう。
「で、でも、小林くん。僕は――」
「大丈夫だって。全部俺に任せときな」
少し焦らしてやろう。さわさわと指先で腹をなぞる。そうだな、まずは服を脱がせよう。それから――。
ぐるんと視界が反転した。目が回ったみたいで、脳が正常に動かなくなったみたいな。どん、と背中に柔らかい衝撃を受けて、首が痛んだ。両肩に何かの重さを感じる。
息を吐きながら事態を把握しようと目を動かす。穏やかな照明が鈍く光る天井を背景に、今村が見える。今にも爆発しそうな真っ赤な顔で、息を荒くしている。俺の肩に乗せた手は俺を手放す気はないのだろう、全力で押さえにかかっている。
――まずい。直感でそう思った。
たぶん俺はこれから大変な目にあう。今までで一番の、最悪なことが起きる。だからその前にどうにかして逃げないと。
「お、おい、どういうつもりだ。離せよ」
今村の顔にはぎこちない笑みが浮かべられる。無理矢理何かに耐えるような、しかし心の底からの喜びを表すような。それからすぐに顔が近付いて来て、俺の唇めがけて降ってきた。
「お前、何して――」
どれだけ抵抗しても今村は動かない。どれだけ暴れても、どれだけこいつの身体を殴っても、今村はやめようとしなかった。止まることはなかった。
「んっ」
柔らかい唇が触れて、息がかかる。眼鏡が当たるのが鬱陶しい。心底気持ちが悪い。これほど嫌なキスなんて初めてだ。
「……かわいいよ、恭平 くん」
「や、やめろっ! いやだ、やめてくれ」
俺がついさっきやったみたいに、今村は服の中に手を入れてくる。いやらしく、でも雑な触り方で。その間もこいつはキスをねだってくる。下手くそと罵りたいのに、突き飛ばしたいのに、それもできない。ただただイライラが募っていく。それは自由を奪われているからなのか……俺の中の変化を見つけてしまったからなのか。
「ね、恭平くん。僕の名前を呼んでよ」
一切の抵抗をやめた。名前を呼ばれたからでも、自分の奥に燃えるものを見つけたからでもない。暴れたところで体力の無駄だし、それにどうしたって逃げられるルートなんてないと悟ってしまったからだ。
「……名前なんて、しるかよ」
ぼやけてあまり見えなかったが、今村は眼鏡を外し、シャツを脱いだらしかった。俺の目の焦点はどこにも合っていない。思い通りに行かない世界を見ることを、全身で拒んでいるのだ。
「友紀 」
今村の腕に導かれるまま首に手を回して舌を絡め合ったところで、俺の記憶は途切れた。
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