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第4話 日常の中
一日休めば少しは良くなるだろう。そう思っていたが、そんなことはなかった。
確かに身体はいくらか軽くなったし、大学に向かうのはもちろん、ちょっと走るくらいならできそうだなとも思った。体育の講義なんて取っていないから、身体の動く動かないはそこまで大きなことではないが。まあ、痛むところは痛むとは言え、それくらいで。我慢したらいいや、くらいなもので。しかし問題はそっちではなかった。
――心の方だ。
何をしていても上の空で、いつの間にかあのことを思い出してしまう。涙が滲んで来そうな、腹が立つような色を腹の底に抱えながら、足を進める。大学に向かう時間までには改善したかったが、何をどうしたって喉の奥に何かがつっかえているような感覚はとれなかった。どれだけ眠ったところで脳がすっきりすることもなかった。
教室に着くと、いつもの笑顔で友人が俺に手を振ってくれる。取っておいた近くの席に俺を手招きしてくれる。それが何となく、緩く首を絞められているみたいに思えて辛かった。
だってもう俺は以前とは違うから。昨日俺は――。
いや、違う。俺が汚されたと考えるから悪いんだ。そうだ。ストーカーは犯罪だし、それにあのときあいつがやったことだって犯罪だろう。俺は何一つ悪くなんてないんだよ。どうしてあんなに沈んでいたんだ。考えたらわかることじゃないか。
俺は無罪だ。そう、信じたい。
「よっ。体調悪いって休んだ割に元気そうじゃん」
大学に入ってからできた友人は、いつだって俺に付き合ってくれた。いつから仲が良いのかなんて考えても思い出せない。どの講義を受けるのか聞けば教えてくれるし、俺が提案すれば同じ科目を取ってくれた。どんな感情も一緒に感じて、どんなイベントも一緒に参加して、どんな場所にも一緒に行って。いつだって俺の一番近くにいてくれる、人生で最高の親友たちだ。
「一日休めば元気百倍ってな」
笑って答えてみれば、何となく感覚を取り戻す。
あぁ、そうだ。昨日の俺に足りていなかったのはこれだ。友人たちとのなんてことない馬鹿みたいな会話、それだったんだ。夜の海にひとり放り出されたら誰だってあんな風になる。荒波に飲まれて息ができなくもなる。
「小林マンかよ。お前、流石にそれは馬鹿すぎるって」
「マジで完全復活じゃん。元気なさそうな返信に心配した分返せよ」
「返すもんなんてなんもねえっての」
親友ふたりに茶化されて、心から笑う。
そうだよな。俺はこの日常に浸かって生きているんだ。あいつなんて、この人生で言えばモブ中のモブ。主人公の俺には全く関係ない。それに、そう、あれも夢だ。気にすることなんてない。こいつらがいれば何でもいい。こいつらといればどんなことだってどうにでもなる。大きな問題もチリほど小さくなる。そうだろう?
そう考え始めると急に怒りが湧いてきた。ただ自分の日常を生きていただけなのに、どうしてあんなストーカー野郎にそれを壊されなくてはならなかったのか。
ふと、辺りを見回す。ただ、何となく。しかしそこそこ大きな教室の隅っこの方に、今村が座っているのを見つけてしまった。
講義開始の直前に来る俺とは反対で、本当にひとコマ前の講義を受けているのか不思議なくらい、あいつは準備が早い。でも明るく賑やかな俺たちとは反対で、あいつは暗い隅っこにひとり。あいつにないものは俺が何でも持っている。あいつがどれだけ欲しがっても、羨んでも手に入れることができないものを、俺はもう持っているんだ。俺の方があいつより、上にいるんだよ。
それなのに、どれだけ言い聞かせても、イライラは俺から出て行ってくれない。
不意に今村と目が合った。おどおどしながら、俺から目を離したりこちらを見たりしている。ここぞとばかりに俺は、嫌悪を含む微笑を向けてあいつの視線を掴んだ。これは脅しだ。「覚えておけよ、クソ野郎」という脅し。
ただ今村に伝わったかはわからない――というかほとんど伝わってはいないらしかった。あろうことか、ぽっと頬を赤く染めて、少し笑みながら目を逸らしたのだ。あれはたぶん、許しを得たと勘違いしている顔だろう。最悪だ。腹に抱えたままの不快感は大きく成長するばかり。
この講義はさほど難しくはない。今回も教授の話さえしっかり聞いておけば頭に入ると思っていた。それなのにさっきのことを思い出しては、あの夜のことが脳をかすめる。全く集中できない。内容が何も入って来ない。この講義は興味があって好きだったのに……もはやどうでもよくなってすらいる。
本当に腹が立つ。
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