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第9話 罠に落ちる
大学近くの公園のブランコに揺られていた。どれだけそうしていたかはわからない。けれど、太陽は西に傾いていて、もう夜へ移行しようとしている。また夜に包まれようとしている。
あんなことがあったっていうのに、涙は流れてくれなかった。感情が消え去ってしまったみたいで、何を考えることだってできなかった。これからどうしようか、ぼんやりと頭に浮かんでは消えていた。この先のことなんて、ひとつも考えられなかった。
とりあえず、帰るのは嫌だった。あの部屋には、俺が独りだと感じさせる何かがある。孤独を強調する何かが横たわっている。ひとり暮らしなんだから他の気配を感じる方が不気味で怖いが、そうじゃない。この世界から切り離されて、真空に独り放り出されたような感覚になるんだ。それが辛かった。苦しかった。帰りたいなんて、一度も思ったことがない。だから、それなら、もう少しくらいここにいてもいいのかもしれない。
鞄からスマホを取り出そうとして、気付く。それは、よく見るようなルーズリーフの切れ端だった。雑に破かれているのではなく、ハサミできっちりと切られているらしい。書かれているのは、見覚えのあるあの青い文字。
『大学が終わったら会いたいです。もし良ければここに来てください。伝えたいことがあります。いつまでだって僕は待ち続けますから、いつか来てください』
その文字の下にはどこか住所が書かれていた。
この辺りには俺を好きだと言ってくれる女子はもういないだろう。抱いては捨てて、誘っては裏切っての繰り返しだったから。それに友人だってこんな手紙を仕込む理由はないだろうし――あぁ、違った。あいつらはもう友人でも何でもなくなったんだ、そうだった。首を絞められているような感覚が強くなる。
名前は書かれていなかったが、どうせあいつだろう。仕方ない。今だけはお前の挑発に乗ってやるよ。罠に嵌りに行ってやるよ。
このときの俺は、正常な判断を下せないくらいの精神状態だったのだろう。よく考えたらわかることだ。その手紙の意味。あいつが本当にただ何かを伝えたいだけではないということ。もう一度あの夜のように抱かれるだろうということ。そんなことには簡単に気付くはずだったんだ。
しかしまあ、これでも良かったのかもしれない。罠だと気付いていても、もう一度悪夢を見ることになろうとも、俺は誰かの体温を感じていたかったんだ。それがあの今村であっても、何でも良かった。ただ、ひとりじゃないと感じられる場所へ行きたかっただけだ。
指定された住所に近付くにつれて、元から重かった身体が更に鉛のようになっていく。それなのに足は動くことをやめない。目的地があいつの隣だとわかっていても、止まることはなかった。それだけ俺は傷ついていたのだと思う。
「……あ、あれ、小林くん? 本当に来てくれるとは、思ってなかった」
緊張しているのか興奮しているのか、今村は少しうわずった嬉しそうな声を俺に向ける。顔は見えないが、気味の悪い笑顔を向けていることだろう。しかし俺の背負う影に気付いたのか、ハッとして黙った。それは、何となく、冷たくて重たい沈黙だった。
「も、もしかして元気ない……のかな? ごめんね、僕のせい、だよね」
――そうだよ、お前のせいだよ。言いたくても声が出ない。口が言葉の形を作ることもない。喉の奥から血の味がする。走った訳でもないのに。
平衡感覚が失われていく。目眩がする。前に倒れそうになる。しかし、身体に大きな衝撃を受けるでもなく、ぽす、と受け止められた感覚を得る。今村は心配そうに俺の顔を覗き込みながら、熱を測るように額に手を当てる。
「風邪、じゃないみたいだね。逆に小林くん冷たすぎるよ。こんなに寒いのに……って、上着は?」
今村から伝わってくる温度が嫌で嫌でたまらないのに、それなのにいつまでも包まれていたいと思ってしまった。寒くて冷たくて暗いのに、温かな一筋の光が見えた。それが怖くて、辛くて、苦しくて。
「……の……だ」
「え?」
「全部……おまえのせいだ……ぜんぶぜんぶ、おまえの……」
栓の外れてしまった感情は、とめどなく溢れ出てきた。ぽすぽすと今村の胸を叩き続ける。全く力が入らない。こんなことに意味なんてないとわかっているのに。脳と心が乖離してしまっている。苦しい。
信頼していた友人たちと以前の自分は、もう取り戻すことはできない。手の中にあるのは忌み嫌った冷たい過去と、こいつからもらった捨ててしまいたくなるような温もりだけ。
ぎゅっ、と強く強く抱き締められる。息ができないのは窮屈だからか、それとも涙のせいか。
「本当にごめんね。全部僕のせいなんだよ、全部」
優しく頭を撫でられる。幼い頃に戻ったみたいだ、なんて思ってみるが、幼い頃にこんな経験をした覚えはなかった。きっとこいつは恵まれた家庭で育って、家族の愛なんていうものも知っているのだろう。
俺だって、知りたかったよ。愛情ってやつを。
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