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路地裏の子、仔山羊を拾う。

 アンリは家を持たない。衣服は襤褸(ぼろ)一着で、これを作ってプレゼントしてくれた母も世を(はかな)み、唯一の家族も失った。  髪はぼさぼさに伸びきってみすぼらしく、はだしの足は傷だらけで、それでも生きるためにははるばる裕福な家を訪ねて、食事を恵んでもらわなくちゃいけない。  この世に唯一救いがあるとすれば、上流階級の人々にとって慈善(じぜん)活動が美徳(びとく)であると認識されていることだろう。そのおかげで、とりあえず()かしたじゃがいもとスープくらいは食べさせてもらえる。  見せかけだけでなく熱心に取り組んでいる家にはここにさらにパンが付く。パンはいい。お腹が膨らむから、一日ひもじい思いをしなくてすむのだ。だけどそういう家は競争率が高いから、誰よりも早く勝手口の扉をノックする必要があった。  この日、幸運にも競争に勝利し、久方ぶりに満腹感を味わいながら、アンリは寝座(ねぐら)へと戻った。  数本の大通りが集まる円形の広場の近く。中流者階級の集合住宅(テラスドハウス)と商店が軒を連ねる通りとの間にある細い袋小路がアンリの寝座だ。 「ん……?」  満悦だったアンリの表情は寝座にうごめく小さな影を見つけるなり険しくなった。  日々躍進する産業界の裏っかわでは、ふるいにかけられ職を失う者たちが後を絶たず、孤児の数も増加の一途をたどっている。  彼らは屋根はなくとも、かろうじて安全が保障されている場所を探し求めてさ迷い歩き、時に縄張り争いに発展することもあった。  安住の住処を奪われないためには、子供だって闘わなければいけない。アンリは黒い影から目を逸らすことなく、気配を殺して距離を詰めた。 「そこで何してる!」 「ひいっ!」  何とも情けない悲鳴を上げて、小さな影が言葉通り飛び上がった。  悪霊と遭遇してしまったかのようにぶるぶる震えながら振り向くその子供の服装を見て、アンリは関わってしまったことを悔いた。  真っ白なシャツにベストをシミのないベストを重ね、格子柄のズボンを身に着けている。血色も良く髪も艶を帯びていて、一目で上流階級の子供だと分かった。  同じ浮浪児ならば食ってかかるべきだが、相手が裕福な家庭の子だった場合はむしろ関わらないようにするのが鉄則だ。  憐れまれる対象である一方、孤児は常に猜疑(さいぎ)の目を向けられる。裕福な子など連れてあるいていたら、やれ誘拐かと大騒ぎになって、最終的に痛い思いをするからだ。  だが、後悔はいつだって後からやってくる。気付けば子供は大声で泣きだしてしまっていた。 「ごめん。大声出したりして、同じ浮浪児かと勘違いしたんだ」  大通りの方をちらちら気にしながらも、たいして背丈の変わらない子供を必死にあやす。 「お、おい、泣くなって。頼むよ……後生(ごしょう)だから」  最終的には懇願(こんがん)に変わったが、それでも子供は泣き止まない。兄弟の居ないアンリには泣き止ませ方など分かるはずもない。だがそれでも、懸命に記憶を手繰り寄せる。 (あ……)  そうして脳裏によぎったのは、いや、耳の奥に(よみがえ)ったのは、寒い日や月の上らない真っ暗な夜にアンリを励ます為に歌ってくれた母の歌声だった。  歌なんて、お腹も満たされないし体温を上げるわけでもないし、まして黒雲を吹き飛ばす効果もないというのに、どういうわけか胸が満たされ、救われたのを覚えている。  だからかつてのアンリは、母の歌には魔法の力が宿っていると純真無垢に信じこんでいた。今でもその気持ちは心の片隅に大事にしまってある。今こそそれを取り出すべきなのかもしれない。 (え、ええい。こうなったら……)  一か八かで曲名も知らない母の歌を口ずさんでみる。  本当は少しでも消化を遅くするために極力体力を温存したいから、歌なんて歌いたくないのだけど、そもそも原因を作ったのは自分なので、やむを得ない。  何度となく聞かせてもらったから、途中でつっかえることもない。鮮明に記憶に残る母の声をなぞるように自らの喉を震わせ、アンリは歌い続けた。  気付いたら声を上げてわんわん泣いていた子供が、涙で濡れた瞳を見開いてアンリを見つめていた。その、驚いているような、心を奪われているような眼差しが、なぜかとても心地よく感じた。 「よし。泣き止んだな」  不思議な高揚に包まれるが、調子に乗ってせっかくのパンを消化してしまうわけにはいかない。涙が止まったのを確認するとすっぱり歌うのをやめた。  子供はちょっと残念そうにしたものの、小さな手を叩いて拍手を贈ってくれた。 「どうも。んじゃ、さっさとどっか行きな」  しっしと追っ払うように手を振って子供の横を通り抜けようとするが、何かが襤褸布に引っかかって足が止まる。  いやいや振り向くと、案の定、子供がアンリの服を掴んでいた。 「やめろ。あんたは替えがいっぱいあるだろうが、俺にはこれ一枚だけなんだ。破れたらどうしてくれる」 「……お家、わかんない」  未だ服を握り締めたまま、子供がはじめて口をきいた。予想はしていたものの出来れば耳に入れたくない情報にうんざりする。 「知った事かよ。世の中ってのは世知辛いもんなんだ。助けを求めたら誰でも無条件に手を差し伸べてくれると思ったら大間違いなんだぜ」  これだから恵まれたガキはと、少々八つ当たり気味に吐き捨ててしまってから、はっとなる。せっかく泣き止んだというのに、子供の目にまたじわじわと涙が浮かび始めたのだ。 「お父さん、お母さん……どこ?」 「お、おい、泣くな! 泣くんじゃねえよ!」  せっかく難を逃れたというのに、また泣かれては元も子もない。アンリはわずかに考えた末に、「ああもう!」とやけっぱちに言い放った。 「わかったよ! 一緒に探せばいいんだろ!」  アンリが不承不承に協力を申し出ると、途端に子供は涙を引っ込めて破顔した。その変わり身の早さに、もしや演技じゃあるまいな、と疑ってしまいそうになる。  しかし、言ってしまったからにはあとには引けない。アンリは苛立ちを露わにどすどすとはだしの足を踏み鳴らして、表通りに出る。ご機嫌で追いかけてきた子供がアンリの手を握って来た。 (そういやこいつ、全く躊躇しないな……)  普通、いいとこのお坊ちゃんは自分のような汚い子供に触れるのを嫌がるものなのに、と意外に思いつつも言葉にはせず、子供の親を探す為に嫌悪と疑念の視線を無視しながら、街の中を練り歩いた。

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