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花街の人魚

 金物(かなもの)を打ち鳴らす騒音で、アンリは強制的に目覚めさせられた。 「おそよう。御寝坊(おねぼう)さん。とっくにお昼を過ぎたわよ」  銅鑼(どら)もどきで起こされるのも慣れっこなので今更驚きもしないが、別に寝起きが悪いわけでもないのだから、もう少し穏便に起こしてほしいものだと挨拶がわりに愚痴る。 「それでなくとも、昨日最後の客がしつこくて疲れてるってのに」  起き上がったベッドに胡坐(あぐら)をかき、大口を開けて欠伸をする。接客中とは別人のような態度だが、こちらが本来の、猫をかぶっていない、包み隠さないアンリである。 「人気者は大変だこと」  ちっとも感情が伴っていない声で言うので、アンリはちょっとばかり意趣返しをしたい気分になった。 「そう。俺は売れっ子の稼ぎ頭のはずなのに、どういうわけかお給金は一向にあがらないんだよなあ」 「おっと、鍋を火にかけていたのを忘れてたわ。さっさと着替えて下りてきなさいね」  金銭の話をすると瞬く間に居なくなる、まったく狡い店主である。舌打ちながらも起き上がり、いの一番に姿見をチェックした。二度目の舌打ちが出るが、今度は本気の苛立ちがこもっている。 「あんのくそ客。痕つけんなつってんのに。大事な商売道具に傷が残ったらどうしてくれる」  首にくっきりついた手形を摩りながら、温厚な人柄の裏に重度のサディストという一面を隠し持つ男の顔を思い浮かべた。  人にはそうそう言えない性的趣向だからこそ、アンリのような都合の良い相手で発散するのだろうが、金を払うからと言って何でもしていいわけではないのだ。そのあたりの規約はきっちり守ってほしいものである。 「今日は首隠さないとなあ」  ため息を吐きながら、洗顔と着替えを済ませる。襟付きとチョーカーとで悩んだ挙句、チョーカーをつけることにした。これでどうにか首の痕を誤魔化せるだろう。  階段を下りると、食堂から昼食の匂いと同僚たちの歓談が聞こえていた。 「あっ、アンリ。おはよーっ」 「おはよう、アンリ。おっ、そのチョーカーいいじゃん。誰からのプレゼント?」  アーチを抜けて食堂に入ったアンリに、同僚たちが口々に話かけてくる。軽く手を振って答え、なんとなく決まっているいつもの席に着いた。 「いいだろ。セドリック卿からもらったんだ」  ゴシックデザインに宝石をあしらった豪華な逸品で、アンリもお気に入りだ。 「いいなあ。セドリック卿ってあの優しそうなおじいちゃんでしょ? エッチはしなくていい、お出かけにも連れてってくれる、おまけにマメにプレゼントまでしてくれるんだもん。若いころはさぞモテただろうねえ」 「まあ、女は泣かせてきたろうな。そんな紳士が、奥さん以外には目もくれないってんだから」 「アンリを指名したのも、奥さんの若いころに似てるからなんだっけ?」 「そうそう」 「確かにアンリって女顔だもんな」 「人の事言えるヤツここにはいねえだろ」  没落した貴族の子息、失業し多額の借金を返済するために売られた息子。境遇は様々ながら寄る辺ない少年たちが集まって一時の愛を売る。  ここは花街屈指の男娼館、禁忌の寓話(ファブル・ドゥ・タブー)。ここに集う少年たちは皆、男娼だ。目鼻立ちは整っており、容姿は端麗、文句なしの美少年ぞろい。  夜は皆、妖艶に男を誘い手練手管で精も金も搾り取るが、明るいうちはどこでもいる普通の少年たちである。くだらない話題で盛り上がって、腹を抱えて笑いあう。  だが、どうやら同僚同士の仲がいい店は結構珍しいらしい。  大抵の娼館はもっと売り上げを競って殺伐としていたり、いじめや蹴落としあいが頻発しているのだとか。売上が良くないと仕置きを受けたり、食事がお預けになったりもするそうだから、やむを得ないことなのかもしれないが。  その点、アンリたちは恵まれているのだろう。いい店主に拾ってもらえたことを幸運に思う。 「ちょっとちょっと、あんたたち。ペラペラお喋りしてないで少しは手伝ったらどう?」  そのいい店主が、呆れ顔でキッチンから顔を覗かせた。すると先ほどまで大笑いしていたはずの少年たちが途端にあっちが痛い、こっちがだるいと、不調を訴えだす。 「はあ、ほんと。こんな恩知らずのクソガキども。拾うんじゃなかったわ」  ため息を吐きながらキッチンに戻っていく。  自身もかつては男娼で、筆舌に尽くしがたい苦労をしてきたそうだ。だが意地と根性でトップにのし上がり、店への借金を全額返済して引退した。  その後は彼の引退を惜しんだパトロンたちから多額の資金援助を得て、店を興した。それがこの娼館だ。  自身の凄絶な生い立ちから、アンリたちを商品ではなく一人の人間として扱ってくれ、客側にも厳しい規約を順守させ、違反した者は容赦なく出禁にしてくれる。  客たちは気に入りの男娼に会えなくなることを恐れて迷惑行為はめったにしない。結果、男娼たちの身の安全が保障されるのである。  男娼たちから売り上げの八割をぶんどっていく金の亡者ではあるものの、それ以外では本当にいい主人といえるだろう。 (ブリックス卿の事も、言えば対処してくれるだろうけど……)  半生を男娼として、今は店の経営者として男娼たちの為に日々あれこれ工夫してくれている店主にこれ以上心労はかけたくない。  ブリックス卿はアンリを優先的に買うため店にも多額の援助をしているそうだし、失いたくない顧客だろう。 (ちょっと我慢すればいい話だしな……)  そう結論付けて、チョーカー越しに首筋を撫でたアンリは、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

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