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オペラの夜に

 その日最初の客は、遅めの昼食時にも話題に上ったセドリック卿だった。  最愛の妻を亡くされて十年。ずっと立ち直れずにいたようだが、じゃんけんに負けて買い出しに行かされていたアンリを偶然街中で見かけたことをきっかけに元気を取り戻した。  どうやらアンリは先立たれた奥さんの若いころとうり二つなのだそうだ。「まるで妻が蘇ったようだ」と最初に指名された夜に泣きながら告げられた時には面食らったが、一途な想いに胸を打たれたのを憶えている。  その日の晩から、定期的にアンリを買ってくれるようになり、奥さんとの思い出を辿るように様々な場所へ連れて行ってくれるようになった。 「やあ、アンリ。久しぶりだね」 「久しぶり。会いに来てくれて嬉しいよ」  男娼相手にもシルクハットを取って丁寧に挨拶をしてくれる、紳士的なロマンスグレーだ。 「すまないね。君の本来の業務から外れていることは重々承知しているんだけども。今日も付き合ってくれるかい?」 「外れてないっていつも言ってるだろ? 今日も俺の時間をお買い上げいただきありがとうございます。今日はどこに連れてってくれるんだ?」  面影を重ねてはいても別人だという認識はあるようで、セドリック卿との時間はいつもこんなやり取りから始まる。  だから、アンリも変に媚びたりせず、昼間と変わらない態度で接するようにしている。その方が彼が緊張せずに済むと気付いたということもあるし、奥さんそっくりな自分が媚びを売るとかえって不快な思いをさせてしまうかもしれないと考えたためだ。  まるで祖父に懐く孫のように、家族の一員のように振舞うアンリに、セドリック卿は今日も満足そうに破顔した。白い口髭に隠された唇が弧を描いている。 「今日はね。オペラを見に行こうと思うんだけど、付き合ってもらえるかな?」  多分これはアンリ越しに奥さんを見ているからなのだろうが、照れくさそうにチケットを見せる姿が初々しくて愛らしい。 「オペラ? 嬉しい。とっても楽しみ! 早く行こっ!」  本心は腹も膨れない歌劇に興味はないが、アンリもプロだ。大袈裟なくらい、しかしわざとらしくはならないように舞い上がって、セドリック卿に腕を絡めた。 (最後まで眠らないようにしねぇとな……)  内心ではそう自分に言い聞かせ、歌劇場へ向かう。箱型馬車に揺られてたどり着いたのは宮殿と見まがうほどの絢爛(けんらん)な建物だった。  セドリック卿の自宅に招かれたという方がまだ納得できる外観に圧倒されるが、正装した多くの客が続々と入ってくるのを見るに、歌劇場で間違いないのだろう。 「びっくりしたかい?」  面白がるように話しかけられ、アンリはようやくぽかんと間抜けに口を開けていたことに気付いた。ちょっぴり恥ずかしいが、相手はセドリック卿だ。馬鹿にしたりはしないから、アンリも素直になれる。 「うん。こんな豪華だなんて思わなかった」  外観だけでなく内装も華美で、天井一杯に描かれた天井画や、神話の神々をかたどった精緻な彫刻が数多く並び、劇が始まる前から客人たちを大いに楽しませてくれる。 「このスーツもすごく嬉しい。こういうの、一着も持ってなかったから」  ここへ来る前に仕立て屋に立ち寄って、あらかじめ用意してくれていたらしいスーツに着替えた。その理由がここへ来てようやく知れる。さすがにこれほど絢爛豪華な場所にいいかげんな服装では来られない。 「とてもよく似合ってる。格好いいよ。アンリ」 「えへへ。ありがとう」  普段は男の相手をしているし、客のほとんどはアンリに女の格好をさせたがる。でも妻に重ねているはずのセドリック卿はアンリに決して女装を強要したりはしなかった。  アンリだって男の子なので「格好いい」とほめてもらえると素直に嬉しい。客からの贈り物は金に換えることもあるのだが、このスーツは一生大事にしようと心に決めた。  セドリック卿からの贈り物はすべて、自分の理想を押し付けるのではなくアンリ自身の事を考えてくれるものだから、アンリとしても大事にしようという気持ちが芽生えるのだ。  セドリック卿の気遣いは贈り物だけに留まらない。こういう場になれないアンリのため、二人きりでゆったりと観劇できるボックス席を予約してくれていた。 「妻もオペラが好きでね。よく二人で見に来たんだ」  懐かしむように言って座席の手すりを摩った。もしかしたら奥さんともこのボックス席に並んで座ったのかもしれない。 「ふうん。そうなんだ」  思い出の場所に入ると、妻の思い出を語り出すのもいつものことだった。アンリをその妻と重ねているはずなのに。  だからアンリは思う。きっと彼は、本当は、アンリに奥さんを重ねているのではない。 (奥さんとの思い出を誰かに聞いてほしいんだろうな)  彼の目には、今でもやはりたった一人の女性しか映っていないのだ。だけど一人で思い出すと孤独感にさいなまれてしまうから、誰かにそばに居てほしいのだろう。 (そのくらいなら、お安い御用だ)  アンリはセドリック卿の手に自分の手をそっと重ねた。はっとして顔を上げたセドリック卿と目が合ったところで、微笑みかける。すると彼もつられたように、安心するように笑ってくれるのだった。

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