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若き座長

「ブラーヴァ、アイリーン!」「ブラヴォー、リュドヴィック!」「ブラーヴィ!」「ブラーヴィ!」  劇場内に割れんばかりの拍手が響き、礼をする出演者たちが幕の向こうに隠れてしまうまで、彼らを称える声は鳴りやむことがなかった。  かつては孤児、店主に拾われてからは男娼として(ほかの店よりゆるゆるではあるものの)籠の鳥として生きてきたアンリは、生まれてはじめてオペラに触れた。  今まで食わず嫌いをしていたことが恥ずかしく思えるほど、素晴らしい時間だった。 (す、すごかった……)  観客たちが好き好きに感想を言い合いながらぞろぞろと帰って行く事にも気づかず、また、隣でセドリック卿が微笑まし気に見つめていることにも気付かず、アンリは仕事中だという事も忘れ、未だひと時の夢の中にいるようなふわふわとした心地に酔いしれていた。  歌だけで構築された劇だというのに、歌手の歌い方とオーケストラの演奏で喜怒哀楽が表現され、総毛立つような興奮と、身体が打ち震えるほどの感動をもたらした。  間断なく感情が揺り動かされたのは初めてで、その反動でアンリは半ば放心状態にあるのだった。  ややして我に返ったアンリが真っ先に抱いた感想。それは。 (あんな風に、思いきり歌えたら気持ちいいだろうな……)  セドリック卿の話によると、両親の早すぎる死を乗り越え一度はバラバラになりかけた団員たちを再び結束させた、若き座長が取り仕切る小規模の歌劇団なのだそうだ。  その道に精通しているセドリック卿の目からは、若く瑞々しい生命力にあふれた若木のような劇に見えたのだという。同じ世代のアンリが強く感銘を受けるのもそれが理由だろうと。  確かにアンリは観客としてではなく、劇の中に心だけ引き込まれて歌手たちとともに居た気分だった。ともに泣いて、ともに苦しみ、最後の最後に幸福を手にする瞬間まで、アンリの心は確かに舞台の上、いや、彼らが演じる世界の中にあった。  これまで自分を現実主義者だと考えていたから、意外な一面に戸惑ったりもするのだが、決して嫌な気分ではなかった。 「そんなに感動したなら、もっと早く誘えばよかったね」  まだちょっぴり身体に浮遊感が残っているアンリに、セドリック卿が言う。それから思い出したように服を摩った。 「どうしたの?」 「ああ、いや、僕としたことが、オペラグラスを座席に忘れてきてしまったようだ」 「ええ、大変だ。待ってて。取ってきてあげるから」  劇が始まる前に確かに手にしていたそれは、奥さんからの贈り物だというセドリック卿の宝物だ。紛失したり盗まれたりするわけにはいかなかった。  遠慮するセドリック卿を強引に押し止め、アンリは今下りてきたばかりの階段を駆け上った。  廊下を早歩きしながら、自分がもっとしっかりしていればと、ぼんやりしていた自分を叱咤する。しかし過ぎたことを悔やんでも仕方がない。とにかく急いで取りにいかなくては。  こんなふうに焦っていると、劇中の一幕が思い出された。舞台上をあっちへこっちへ駆け回りながら歌う歌手。その声が耳の奥に蘇り、なぞるように口ずさんでしまった。  幸い、客たちは皆帰って行き廊下に人気はなく、アンリの歌声を聞きとがめる者などいない。  そう。いないはずだった。しかし……。 「君……!」  ふいに前方から息せき切って現れた青年が、アンリを呼び止めた。立ちはだかるように目の前で止まったのでアンリも足を止めるしかなく、仕方なく立ち止まる。 「今の歌声は、君か……?」 「あ……」  見上げた先には見覚えのある美丈夫が立っていた。あえてすす汚れをつけた白いイカ胸シャツにサスペンダー、つぎはぎだらけのズボンを穿いたこの男は、劇にも出演していたバリトン歌手。そして歌劇団の座長でもある男だ。確かリュドヴィックと呼ばれていなかったか。 「答えてくれ。今の歌は君の声か?」  どうやら声は聞こえていてもアンリが歌う瞬間を目撃してはいないらしい。  それにしてもこの慌てぶりはいったい全体どういう心境によるものだろう。まさか、劇中の歌を勝手に口ずさんではいけないという決まりでもあるのだろうか。 「い、いや。人違いじゃないですか?」  だとするとまずい。アンリが失態を演じれば連れて来てくれたセドリック卿に恥をかかせることになる。  知らなかったという言い訳は通用しない以上、しらばっくれるしかなかった。 「いや、君だろう」  しかし今現在この通路にはアンリとリュドヴィックの二人きり。さすがに無理があったようだ。ならば次の手をとなけなしの知恵を絞るアンリの(おとがい)に指が添えられる。  そのまま上向かされ、まじまじと凝視されたかと思うと、次の瞬間には腕の中に閉じ込められていた。 「やっぱりそうだ。少し声が低くなったが私には分かる。ああ、会いたかった」  間違いない。また会えるなんてと何やら興奮しているが、一方でアンリの心は急速に醒めていった。 (なんだ、こいつもそういう輩か)  なんだか一気に現実に引き戻された気分で非常に不快だが、演者といえども人間なのだから責めるつもりはない。人間なのだから性的欲求はある。当然のことだ。  初対面なのに、まるで過去にも会ったかのように馴れ馴れしく声をかけてくる。ナンパの常とう手段だ。それはこの男も、さっきまで腹にも心にも響く音色で高らかに歌っていたこの男も、アンリをそういう目で見ている証拠だ。 「ありがとう」  納得しきれない部分には蓋をして、アンリはにっこりと微笑んだ。そしてさりげなく腕を突っ張り、男の腕から逃れる。 「君も覚えてくれていたのか? それは……」  さすがはプロ。演技が上手い。そして、ちょっとの予定外になど動じない。アンリはそんな男を冷めた目で見上げながら、唇に手を当てた。 「もっと思い出話がしたかったら、花街の禁忌の寓話ってお店でアンリを指名してね、ダーリン。……それじゃ」

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