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第2話
仕事終わりにスマホを見ると、例の女性からメッセージが届いていた。本名は知らないが、アカウント名はキュウリ。
何故キュウリなのかと聞いた時は、妙に照れた様子で「キュウリ一生嫌いだから、なんか可哀想で」と答えられた。味と食感が無理でも名前が嫌いなわけではないから、せめてそれだけは好きになってあげようと努力しているらしい。
全くもって意味がわからないが、多分心優しい人なんだろうと思い込むことにした。
因みに、俺は親しみを込めてきゅうちゃんと呼んでいる。それ故に、彼女の顔も知らないままでは話すたび漬物のパッケージに映っている少年が浮かぶのはもう仕方ない。
『電話しよー。仕事終わったらかけてー』
彼女はリサイクルショップで働いているそうで、残業ばかりの俺の方が大抵終わるのが遅い。よってこういった提案を持ちかけてくるのは、いつもきゅうちゃんからだった。
車に乗り込み、ついでにイヤホンを繋ぐ。
慣れない頃は一度確認の連絡を入れたが、本人曰くそれでは逆に緊張してしまうらしく、最近は迷わず通話の表示をタップする。
2コールもしないうちに出てくれるこの子には、もしかして友達が居ないんじゃないかと少し心配だ。
「やほやほ、おつかれー」
「お疲れ様。今日も出るの早いね」
「暇だからねー」
寝転びながら話しているのか、時折布の擦れる音が邪魔をする。直前に連絡を入れたところで本当に緊張なんてするのかと疑いたくなるが、それだけ心を開いてくれてくれているのだとわかると悪い気はしない。
「急に電話って、何か楽しい事でもあった?」
「んっへへ〜まあね」
普段から、声が低い割にテンションの高い彼女だが、今日はまた特別気分が上がっているのが電話越しにも伝わってくる。
寝転んでいるくせに、背景にはBGMまで流れて。
…しかもこれ、確か何処かで聴いた曲だ。
「店で買取したギターが、めちゃくちゃいいやつだったんだ。帰りがけにそのまま購入して、さっきメンテ終わったトコ」
「へぇ、そうなの」
俺は音楽の知識なんて欠片もないし、学生時代はモテそうだなんて浅はかな理由で運動部をやり遂げた中途半端な人間だ。
まあ、初恋の彼を忘れられない上に恋人とは両想いでいたいという乙女チックな思考が邪魔をし、未だ彼女の1人も作れた事はないのだが。
「きゅうちゃんギター弾けるんだ」
「昔やってた。忙しくなって売っちゃったんだけどね、久しぶりに持つとやっぱりいいね〜」
布団を持ち上げ、ベッドが軋む。
恐らくメンテナンスを完了させたギターを担いだのだろう。ガチャリと金属が触れ合うような音が、イヤホンの中でこだました。
「流してる曲、聴こえる?」
「若干」
「そっか」
素っ気ない会話のキャッチボールでも、別に嫌な気分はしないしそれは多分向こうも同じ。一刻も早く手に入れたギターの音色を誰かに聴かせたかったのか、流れっぱなしの曲を巻き戻して再スタートさせると、深く息を吸い込んだ。
〜〜♪
普段何でもない話をしているあのきゅうちゃんとは思えない澄んだ声色が、突如左耳を突き抜ける。
運転しているがために、両耳を塞げない事をとても後悔した。まさか電話越しで生歌、生演奏を披露してくれるとは夢にも思わず心臓が跳ね上がる。こんな事なら、帰り道の暇つぶしにしようなどと思わず帰宅してからじっくりと聴かせてもらうべきだった。
ウィンカーを出している間も、車間を詰めてきた後続車に反応して警報音が鳴る間も、きゅうちゃんは歌をやめない。
新しくなる毎に安全装備が追加される自動車を、どれほど憎らしいと思ったことか。これのお陰でオマンマが食えている俺が一番言ってはいけない台詞なのだが。
曲は終盤に差し掛かり、ギターの音色もきゅうちゃんの歌声も徐々に盛り上がりを見せていく。ラスサビに入る前…Cメロと呼ばれるシーンでは、これまでとはまた違った雰囲気のメロディーが奏でられた。
それは俺からしたらとても出せたもんじゃないハイトーンで、地声が低いきゅうちゃんは穏やかだった声色を張り上げ、見事にキメきった。
俺はその声に、とても聞き覚えがあった。
この曲も、いつどこで知ったものなのかこの頃には既に予想がついていた。
絶対にそうだ。間違いない。
歌手の名前は知らない。当時は原曲を調べて聴いたのかもしれないが、それでも不協和音の中で輝くあの光に勝るほどの歌声ではなかった筈だ。
「…ふぅ、なんだかんだフルコーラスやっちゃった。そろそろ家着く頃?」
後奏まで全て完璧に弾き終えて、きゅうちゃんはいつものハスキーボイスに戻る。
音楽的な才能がなくてもわかる。あらゆる声を聞き分ける超能力など持っていなくても、一目で虜にされた、一瞬で全身を震わせられたあの声をそう簡単に聞き漏らすわけがない。
昔の記憶は美化されるものだが、いくら自らの中でハードルを上げてもそれすら超えてしまうような、まさに天賦の才能を持った歌声の主。
「…きゅうちゃん、一つ聞きたいんだけど」
「んー?どうしたどうした」
変な話だ。俺は別にゲイ専用の出会い系に登録した訳ではない。常識的に考えてマッチングした相手が同性の可能性なんてある筈ないのに、確信してしまうなんて。
「性別間違って登録したとか…ある?きゅうちゃんの歌声、絶対に聴いたことがあるんだ」
「え……本当に言ってる?」
否定しないところを見るに、きゅうちゃんが女性でないのは確かなようだ。本来ならここで俺は驚きのあまりスマホをぶん投げそうなものだが、そんなのはどうだっていい。
やっぱりそうなんだ。
きゅうちゃんは、あの人だ。
マッチングアプリというだけあって、きゅうちゃんの他に連絡を取り合った相手は何かにつけて会ってみないかと切り出してきた。
会わなきゃ始まらないと頭で理解はしているものの、見知らぬ女性と簡単にそういう流れになるのは騙されそうで、お金ばかり無くなりそうで。なかなか良い返事を出せず、去っていく人達も追わずにいた結果きゅうちゃんだけが残った。
きゅうちゃんだけが会おうと言ってこなかったから。
きゅうちゃんの秘密を知り、少なくとも俺の中で正体が判明した今、会うのが怖いという考えはもう何処にもありはしない。
むしろ初恋のあの人にもう一度会いたい。一度でいいから顔を見て話してみたい。その思いばかりが表面張力を超えて溢れ出す。
「…きゅうちゃんって今どこに住んでる?」
やりとりを始めて2年間、1度も聞いた事のない質問をぶつけた。出会う覚悟もない癖にそういう話題を出すのは、相手にとっても失礼だと思っていたからだ。
だが7年ぶりに動き始めた歯車は、もう俺の理性だけでは止められないほど勢いよく回り始めている。
君に会って話がしたい。俺の事を好きじゃなくてもいい。
せめて、偶に飯でも行ける関係になりたい。
稀にギターを弾いてもらえる、気が乗れば歌を歌ってもらえる、そういう関係に。
「ずっと変わらず実家に住んでるよ。
…僕が人前で歌を披露したのは1回きりだから、もし本当に僕の歌を聴いた事があるのなら、今度の週末その場所に来て」
俺が彼女…いや、彼をきゅうちゃんと呼び始めたその日から、彼も俺を真似て一人称をきゅうちゃんに変えた。それまでは確か自分と言っていた。
隠し事がなくなった彼は、初めて自らを僕と呼んだ。
それが普段の彼で、俺が恋した彼なのだと知れば、どうしようもなく幸せで、一人きりの家でニヤけた面を目一杯つねった。
拒むことなく、むしろ会おうと言う勇気すら出せずにいる俺を汲んだ、優しさを纏うきゅうちゃんからの誘い。
「うん……わかった。約束だよ、絶対」
姿を見せてもいないのに、窓に映る赤べこさながらの動きに思わず笑いそうになった。
電話を切ると同時に、学生時代の夏の大会直前のような緊張感が俺を襲う。
喉の浅いところに、硬いものが詰まっている感覚がして深く息が吸い込めない。深呼吸でもして落ち着こうと思ってもこのザマだ。
今夜は久々に湯でも張ろうか。
大寒波で日本中が震え上がろうとシャワーで済ませ続けた面倒臭がりを簡単に働かせた胸の高まりは、たとえ湯船に浸かって100まで数えたところで鎮まる事はなかった。
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