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第1話

 高校生活にも慣れてきた5月のある日、それは起こった。  けつまずいた勢いでつま先が石を蹴っていた。軽く当たっただけなのに、丸い石は見事な放物線を描いて飛んで行く。初夏の光の中をきらきらと輝いて。スローモーションでもかけたらミュージックビデオにでも使えそうだ、なんて考えてる暇はない。その先には、両手をポケットに突っ込んで、不機嫌そうに身体を揺らして歩く背中がある。教室の片隅で平和に生きている俺とは違う、着慣れた制服の背中から立ち上る威圧感。雰囲気が怖い! 早く行って、当たっちゃうよ! 俺の祈りも虚しく石は広い背中に吸い込まれて……ドフッ! 「う……ゲホッ!」  ブレザー越しにも分かる筋肉質の男が背中を丸めてむせている。あ……、これはやばいのでは?  間もなく校門が閉まる時間だ。同級生も他の先輩達も何事かと横目で見ながら足早に過ぎていく、ああ無情! 謝らなきゃ、でも安全確保! 距離を置いたまま声を上げる。 「あの! 背中に……石が……」ごめんなさい、と言う前にゆっくりと先輩が振り向いた。 「ゲホッ、ゲホッ……、何言ってんだ?」  長い前髪の下で苦し気に眉をひそめ、俺をにらみつけている。弾丸で撃たれたように心臓が跳ねた。やばい、確実にやられる! 短い人生でした、いやまだ終わってないし、終わらせたくない!  校門までは一本道、押してダメなら引くしかない。逃げるが勝ちだと踵を返し、今来た道を一目散に戻り出した。背中に向かって投げつけられた「おい、どこへ行く! 遅刻するぞ!」という声には気づかないふりをして。  その日から、大上先輩と俺日辻の追いかけっこが始まった。  遙か遠くからでも先輩の気配を感じると上がる心拍数。声が聞こえた瞬間に沸騰する血液。この1ヶ月で俺は、全校生徒400人のなかから一瞬で先輩を見つける能力を身につけた。  制服を着ていても、体操服になっていても、校内を歩いていても校庭を走っていても、全校集会の帰りでも、とにかく絶っ対に見間違えない自信がある。そして、見つけた瞬間にダッシュして逃げる! おかげで50メートル走のタイムは随分と縮まった。  逃げ回っているだけでは芸がない。もちろん予防策もぬかりなく取っている。  校門を通過する時に鉢合わせしないように先輩の行動パターンを慎重に観察・分析し、僅かな隙を突いて登下校。常に周りに気を配り、広い肩幅が左右に揺れながら歩くのや(朝はいつも眠たそうに歩いていて注意力散漫、しかし油断はできない)、周りの先輩に合わせて少し猫背になりながら横並びで歩いているのや(大上先輩は大抵窓側を歩き、時々話を聞かずに植物を見ている)、駅前の商店街で買い食いして帰る(肉屋のコロッケとローカルコンビニで売ってるリンゴジュースが好きらしい)ところに出くわさないようにしていた。  とはいえ同じ校内にいるのだから、うっかり出会ってしまわないように上級生が来る場所は避けていた。そう、例えば購買とか。  今日は4時間目が早く終わった。調子に乗った俺は数量限定のチーズカツサンドを狙って購買に並んだ。いつもは上級生がフライング買い出しで買い占めるから滅多にお目にかかることはないらしい。サクッと買ってさっさと教室に帰ればいいだろう、とたかをくくっていた。 しかし列は長くなかなか番が回ってこない。早くしないと、俺調べではいつもコロッケパンとミートパイとフルーツサンドを買う先輩が来てしまう!  ハラハラする俺の祈りも虚しく、前のやつはあっちこっちのポケットからぐずぐずと小銭をかき集めている。  ふと見ると、廊下の向こうに頭一つ飛び出たシルエット。あれはまちがいなく大上先輩。俺の番まであと1人。目の前にはカツサンド(残り1つ)、カチ、カチ、カチとカウントダウンが聞こえる。隠れる、それとも逃げる? 見つかりたくないけど必ず見つかるなら、いっそ早く見つかってしまえばこのドキドキも楽になるのに! いや、俺は先輩に見つけて欲しいわけではない! 断じてない! それにカツサンドを諦めるわけにはいかない! 片手で顔を隠しながら前に進むと、向こうから声がした。 「あー! お前こんなところに……」 「はい、次の人何にする?」  購買の売り子の声と先輩の声が重なる。 「チーズカツサンドとカレーパンとクリームパン下さい! 吉田、持ってきて!」  一息に注文してトレイにお金を置き、後ろにいた吉田に頼んで逃げ出した。 「おい、逃げんな!」と先輩の声がしたけど逃げるに決まってるだろ!  教室に逃げ帰ってしばらくすると、吉田が帰ってきた。俺のチーズカツは手間賃として吉田のキュウリサンド(なぜ野菜しか入ってないサンドイッチが存在するのだ?)と交換された上に、さんざん質問された。 「大上先輩嫌いなの? あの人いつも日辻に用があるっぽいじゃん」  好き嫌いの問題ではない。俺はあの人にひん剥かれて、お尻をペチペチされてもおかしくないことをしたのだ。だから逃げるのも、あっちが追いかけてくるのも当然なのだ。  あの日あったことを説明すると、お手とお替わりの区別がつかない犬を見るような目をされた。 「お前さ、それは早く謝った方がいいんじゃね?」 「分かってる! 謝りたいんだけど、あの人を見るとすっげえドキドキして、近寄られると鳥肌立つし、気持ちがいっぱいになってうわーって逃げちゃうんだよ。こんなの初めてで意味分かんないんだけど、あの顔や声を思い出すだけで体がむずむずするんだ、俺、病気かな?」  バクバクする心臓を押さえてふたたび真っ赤になった俺を見る目が痛ましげなのはなぜだろう。しかも半笑い。 「……病気、じゃねえな。まぁ、頑張れ」  お情けで半分だけくれたチーズカツサンドを食べながら「……頑張るよ」とだけ答えた。 応援してくれたのは吉田だけじゃない。大上先輩の友人達にも俺たちの追いかけっこが知られるようになると、廊下を歩けば「日辻、大上がもうすぐ東のトイレからこっちに来るぞ」、走って逃げていれば「こけんなよ~」と言われるようになっていた。  そんな応援のお陰か、遂に一度も捕まることのないまま学校は夏休みに入った。つまり、1か月はあの人の姿を探してドキドキすることもない!平穏、バンザイ!

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