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第2話
そんな風に始まった夏休みなのに、俺は始終視界の端を気にしていた。人混みで背の高い影が動けば目を凝らし、揺れながら歩く人がいれば身を固くする。夏休みまでに身についた習慣のせいで、常に先輩の気配を感じようとする身体になってしまっていた。
一週間が過ぎ、補講が始まる前に映画に行く約束をしてた日、吉田が入院した。アイスをしこたま食った後に腹が痛くなり、病院に行ったら盲腸だったらしい。手術が終わって3日したところで連絡をしてみた。
ー生きてる?
ーいてぇ、やばい。みんなに屁が出るの待たれた
ー出た?
ー聞くな、出た
ーおめでとう。祝いに行ってやる
ー超暇だから来て
ーケーキ買ってくか?
ーホールで!
ーアイスケーキな
ー殺す。あ、ちょいまて
そこで返信が止まった。しばらくするとピコンと音がして返信が来た。
ーケーキはいいから花、見舞いだから花買ってきて。駅前通りを学校と反対に行くと「LES FLEURS(レ・フルール)」って店がある
店まで指定される意味が分からないまま、財布をもって家を出た。レ・フルールはすぐに見つかった。薄い黄色の壁に青と緑のタイルをちりばめた明るい雰囲気の店の中には5人ほど客がいた。花屋なんて来たことないから勝手がよくわからない。
ふわふわとかわいらしいブーケはスルーして、吉田のための花を選ぶ。屁が出た祝いにはもうすこし、こう…そう、白と緑と紫でシンプルなこっちだな。選んだ花束を持ってレジに行くと、お店の人はみんな手がふさがっていた。
「おーい、お客さん。レジ手伝ってよ」と奥に向かって呼びかける。特に返事はないけれど、待っていると店の奥の扉が開いた。そこには、目を見開いて俺を見る先輩がいた。
え? なにこれ 、吉田? まじ、意味わかんないんだけど。なんで先輩が?
頭の中が高速に回転する。しかし回し車のハムスター並みに同じところをぐるぐる回っている。蛇に睨まれた蛙でもこうはいかないだろう。花をもって逃げるに逃げられない俺を見ると、先輩は表情も変えずにレジへと案内してくれた。
「らっしゃい、こっちどうぞ」
そうだ、ここは店だから滅多なことはできまい。なんだ、吉田め。謝るチャンスを作ってくれたのか?
黙々と濡れティッシュにアルミホイルで切り口を巻いている背中には攻撃的な様子はない。
「あの、大分前はすいませんでした。今更だけど、ちゃんと言えずに……」
大きな背中がくるっと回って先輩が振り向いた。眉を寄せて首をかしげている。
「は、なにが? 前から思ってたんだけど、お前なんで逃げんの?」
「あの、石……当たって、ゲホってなったの、俺が蹴ったやつで」
「あ? ああ! 石か、あれ石だったんか、お前か!」
「ひぃぃぃぃ、すいませんでした!」
俺達の声が大きすぎて周りのお客が振り向いた。
先輩はコホン、とわざとらしく咳をすると営業用と思われる笑顔を作った。その爽やかな笑顔が怖くて心臓がバクバクする。
「保水してあるけど早めに水切りしてやると花が喜ぶんで」
「あ、病院までだから1時間くらいだ……」
先輩の顔が素に戻る。ひぇ、今度は何か地雷を踏んだ?
しかし先輩は真面目な顔で聞いてきた。
「もしかして、お見舞い?」
頷くと今俺に渡そうとしてた花を黙って横に置き、そのままレジを離れて店の奥に行った。台の前でおとなしく待っていると、棚から何か箱を取ってきて見せてくれた。
「これどう?」
ひまわりっぽいのやバラらしき何かが寿司折みたいになっている。
「明るくってきれいっすね」
「悪いことは言わん、こっちにしとけ」
「え? なんで……」
「あれは仏花」
ぶつか? いやいや、この場所でそれはないな。花の名前か。
「ブッカって花は駄目なんすか?」
「仏花は仏さんに供える花だよ。見舞いなら生きてんだろ? 悪いことはいわねーからこっちにしとけ」
そして、全く意外なことに、予想もしなかったことに、先輩は眉を下げてにっこりと笑った。営業用じゃなくて、マジもんの楽しそうな笑顔。高い頬骨が盛り上がり、なんかの広告じゃないかってくらい素敵な笑顔だった。ふたたび、俺の心臓が跳ねて身体が熱くなる。追いかけられていないし、「待て、コラ日辻!」なんて言われてもいないのに、だ!
「あの、怒って、ないんですか?」
「何で? 人の見舞いに行ったことないんだろ? 怒んねーよ」
「いや、そうじゃなくて学校でいつも追いかけて…」
俺の言葉に先輩は鼻白んだ。
「突然人の顔見て悲鳴を上げて逃げられたら何事かと思うだろ。まぁ、実は途中から、逃げるお前が面白くってわざと怖い顔で追っかけてたんだけどな。ほらよ」
さっきの箱を入れたかわいい紙袋を持った手が台越しに伸びてくる。ガサガサに荒れたごつい指。知らないまま見たら喧嘩慣れした手かと思うほどだけど、今なら分かる。これはお店の手伝いをしてるからだ。
「あ、ありがとうございます。そうか、ブッカ……」
「仏花じゃねーよ、バーカ。早く見舞いいけよ」
「いや、ブッカ教えてくれて!」
「どーいたしまして。またな」
唇の片端をあげて笑った顔が網膜に焼き付く。どんな場所でも見つけてたのに、今初めて会ったみたいな気がした。
にやにやして花を受け取った吉田はさっさと回復し、一斉登校日には元気に出てきた。
「あ、前いんの先輩じゃん。日辻、挨拶して来いよ。あそこで花買ったんだろ?」
「お前の指示で行ったんだけどな」
ふふん、と鼻で笑う吉田に背中を押されて先輩の横に追いついた。眠たそうで左右に揺れている。周りの先輩が勝手に教えてくれた話では、市場で仕入れた花の処理を手伝ってから登校してるらしい。がたいがいいのは、重労働らしい花屋のお手伝いをしているからだって。
隣に追いつくと、声をかけるより先に気が付いた先輩が眉を上げた。
「よ、日辻」
「っす……」
やばい、また逃げ出したくなった。怖いんじゃない、胸の奥がむずかゆい。背骨の中を炭酸が駆け上っていくみたいに、楽しい予感がぴちぴち跳ねる。ほころんでいく蕾ってこんな気分だろうか。
夏休み前とは違う意味で居心地が悪い。
「お先に!」
「あ、オイこら、待て!」
いたたまれなくなって走り出した背中に先輩の声がする。
聞き慣れたセリフに安心して、笑いが込み上げてきた。
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