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第1話
昨日と変わらない今日だ。カレンダーのマス目を左から右へひとつ進んだだけの、時計の針が、地球の自転が、決まった数を回っただけの、昨日と変わらない今日。
仕事と恋愛の愚痴に適当な相槌を打ち、胡散臭い金と性の話は聞こえないふりを決め込む。顔馴染みのホステスが客を連れていつもの酒を飲みながらブランド品をねだった席で、彼女と同棲しているホストが「きみだけだよ」とやはり客に囁くような滑稽な偶然が起きる、いつもの夜だった。
バー「ブルーム」。歓楽街の一角、立ち並ぶ雑居ビルの中の、どこにでもある名前の、どこにでもあるバーのひとつだ。そんなどこにでもあるバーのカウンターの中で、レシピどおりのカクテルと愛想笑いを作るのが、自分の生業だった。
「あ、もうすぐ四十九日じゃない?」
グラスに赤い唇を寄せた客が、ふと長い睫毛を瞬いてこちらを見上げる。
「誰の?」
「猫ちゃんの」
「ああ……そうかも」
「そうかもって。ルミナくん、あんなに悲しんでたのに」
「今も悲しいよ。でも、もういなくなっちゃったしね」
「うちの猫が死んだ時なんて、パパが大変だった。お墓建てて、仏壇買って、業者の勧めるもの何でも買っちゃって」
「はは、可愛がってたんだ」
呆れたように肩を竦める彼女に笑い返して、ルミナは空になったチェイサー用のグラスに水を注いだ。アイという名が本名か源氏名かは知らない。名刺の肩書きは秘書だが、いわゆる愛人稼業の女だ。彼女がパパと呼ぶ社長を待つ時間を、いつもストレートのタリスカーを飲んで潰している。
さっきまでいたカップルが帰り、今はカウンターのアイと、壁際のふたりがけテーブルにひと組客がいるだけだ。その、壁際の客のうちひとりが、ふらりとトイレのドアの奥に消えていく。小ぎれいなサラリーマンとピンク色の頭のごく若い男のふたり連れは、時折聞こえてきた会話から、初対面でこれからホテルに行くようだと想像がつく。アイのような女も、彼らのような待ち合わせも、この辺りの店では珍しくもなかった。
「次の子飼わないの?」
「まだそんな気分になれないよ」
「それ、ルミナくんのこと慰めたい子たちが聞いたら、また戦争になっちゃうね」
「アイさんにだから言ってるの」
愛猫の不細工面を思い出し、知らずため息が出る。
なあムーン、人間は身勝手で汚い生き物だよな。欲望のためには何だってする。お前が俺にした仕打ちなんて、せいぜい、時々枕元にゲロを吐いたのと、熱帯魚を殺したことくらいだったのに。
「ルミナくん?」
カウンターを出て、テーブルに近づく。慌てた仕草で煙草に火をつける男がついさっき手を伸ばしていたのは、自身のビールではなく、ピンク頭の男の溶けかけのフローズン・ロゼだ。さて、どちらも不用心で迂闊なものだと思う。
「お客さん」
スーツの肩に手を置き、耳元で囁く。たったそれだけで煙草を取り落とし、目を泳がせる、小心な男だ。
「今、何入れました?」
「なんのこと」
引き攣りはじめた頬を黙って見つめれば、わずかな沈黙にさえ耐えられないようで、男はあっさりと所業を認めた。
「……ただの睡眠薬」
「ほんとに?」
「……そう聞いてる」
「ふうん。で、どうする?」
「見てたんだろ。入れただけで、何もしてない。こんなことで、警察でも呼ぶつもりかよ」
虚勢を張る男の声があんまりカラカラで、ビールでもひと口飲んだらと揶揄いたくなるが。
「警察なんかよりこわーい人、かな」
途端に顔色を変えるので、とうとう吹き出してしまった。
「知らなかった? でも、知らなかったで済まないことってあるでしょ?」
言い訳か反論か、何かを口にしようとした男の唇は、ただぱくぱくと開閉するばかりだ。
「あの子には上手く言っといてあげるよ。うちだって面倒はごめんだからさ。金だけ置いて帰んな。いい子にしてくれないと、俺の手が出ちゃうかも。ね?」
男は弾かれたように鞄を開け、中を漁ると、ろくに数えもせずに財布から札を掴みだしてテーブルに叩きつける。ルミナは彼の腕を掴んで入り口までエスコートし、開けたドアの向こうへスーツの背中をそっと押しやった。
「気をつけてお帰りください」
転がるように階段を駆け下りる足音は、すぐに遠のいて聞こえなくなる。
「ルミナくんこわーい」
振り向いた先で笑うアイに、ルミナもまた笑い返した。
「怖いのは俺じゃなくてオーナーだから」
「そういうことにしといてあげる。じゃ、私も金だけ置いて帰ろっかな」
氷の残ったグラスを置いて、アイが立ち上がる。酒代のほかに決まってチップを寄越す上客でもある。彼女から頬へ贈られたキスに、同じようにキスを返し、今度は恭しくドアの向こうへ送り出した。
「またどうぞ」
小便にしては長い気がして、吐いてでもいるかもしれないとトイレのドアをノックしようとした矢先だ。内側からドアが開き、正面衝突寸前で彼がはっとしたように顔を上げる。
間近で見ればより鮮やかな、そしてずいぶん傷んだピンク色の髪を揺らし、黒目をまん丸くする。どこか動物じみた仕草が、少しばかりおかしい。
「お連れさま、お帰りになりましたよ」
「えー、うそお。俺、金ないけど」
数度目を瞬いてから発せられた彼の第一声は、なんとも明るく、脳天気なものだった。
堪らず失笑したルミナを気にしたふうもなく、彼もまたにっと笑う。それから少し小首を傾げてじっと次の言葉を待つのが、やはり動物じみていると――言いつけを待つペットのようだと思う。
「会計は済んでるから。こっちおいで、新しいの作ってあげる」
ピンク色の頭をこくりと縦に振った彼は、カウンターの中に回ったルミナの正面に座ると、また、じっとこちらを見上げてくるのだった。
「さっきの男、酒に薬入れてたよ」
返事はたいして驚いたふうもない、軽いまばたきひとつだ。
「あれ、葉っぱやってるでしょ」
「んー、たぶん」
「取り引きとかじゃないよね?」
「あ、違う違う」
「うち、そっちは厳しいからさ」
「そっか。いい人そうだったんだけどなぁ」
「いい人は薬盛らないけどね。何飲む?」
「だね。甘いのがいいな――カルーアミルク」
グラスをひとつ取り出し、氷は三つから四つ、大きさによって変わる。カラン、カラン、ルミナがグラスに氷を落とす音に耳を傾けていた彼が、やおら頬杖をつき、口を開いた。
「言ってくれればよかったのに。俺、そういうの慣れてるし」
「目的じゃなくて手段に勃つんだろ、ああいうタイプは。俺が肩に手置いただけでびびってたけど」
「ウケる」
カルーアを四分の一、牛乳を四分の三注ぎ……酒代にはじゅうぶんすぎる金を受け取っているから、カルーアはやや濃いめにして、混ぜる。完成したカクテルをコースターの上に載せ、つと前へ出すと、彼はホットミルクでも飲むように両手でグラスを持って、口元に運んだ。
こんな街でこんな商売をしていれば、時にははっとするほどきれいな男も見る。そういう、かえって見慣れた美貌に比べれば、ずっと慎ましやかで俗っぽい。目を引くのは、せいぜいそのピンク色の髪くらいだ。よほどブリーチを重ねているらしく、毛先のほうはほとんどプラチナに近いほど傷み、根元はいくぶん黒い。少しアルコールが入っただけで赤らむのだろう薄い耳朶をいくつものピアスが痛々しく貫き、やはり薄い唇には、キスマークというには生々しすぎる赤黒い鬱血が残っている。小さな小鼻が、細い鼻筋から眉間のラインが、伏せるとやけに際立つ切れ長の目が、黙っているとやけに冷ややかに映る。そこへかすかに浮き上がったそばかすだけが奇妙に彼を幼く見せていて、幸の薄そうな顔だなと、不躾に眺めながら値踏みしている。
「うち、初めてだよね。見ない顔だけど」
「うん」
ところが、一瞬の無表情をやめれば、たちまち愛嬌が溢れだす。不思議な男だった。
「ウリ?」
「まーね」
「もう少し気をつけな。店ぐるみでやってるところもあるから、引っかかったら終わり」
「そうなんだ」
「何も知らねーの?」
脳天気な返事でルミナを呆れさせると、まるでホットミルクでもそうするようにこくこくと喉を鳴らしてカルーアミルクを半分ほど飲んだ彼は、快げに、そして悪戯っぽく切れ長の目を細めた。両側の口角をきゅっと上げ、唇の隙間から歯を覗かせる。
「実は、記憶喪失なんだ」
「へーえ」
「わかるのは自分の名前だけ。エムっていうの」
「エム? イニシャル?」
「ううん」
それ以上答える気はないのだろう。脛に傷を持たない人間を探すほうが難しい。
「あーそ」
「お兄さんは? たぶん、俺よりお兄さんだよね」
「エム、いくつ?」
「もうすぐ二十一」
「おい記憶喪失」
あはは、と、エムは今度、悪びれもせずに明るく笑った。
適当なグラスをたぐり寄せ、氷をひとつ、そこへ焼酎とジンジャーエールを適当に注ぐ。自分の飲む酒など、こんなものでじゅうぶんだ。冷たく心地良い炭酸で、喉を潤す。
「ルミナ。二十五だよ」
「やっぱりお兄さんだ。ルミナっていい名前だね」
「なんでそう思うの?」
「光って意味でしょ?」
「……意外と賢いね」
「意外とね。俺が唯一知ってるラテン語。ルミナくんかっこいいし、王子様みたいにきらきらしてるから、ぴったりだよ」
舌足らずで甘えるような喋り方が彼の本性でないとわかるが、そうする理由が彼にはあるのだろうし、よく似合ってもいる。失笑したルミナを気にしたふうもなく、彼もまたにっと笑う。薄い耳朶を痛々しく貫くピアスをじゃらじゃらと引っ掻くエムにつられて、自分のピアスになんとなく指で触れ、離す。エムはしばらくグルーミングのようにピアスをいじくっていたが、やがて大仰に嘆息した。
「あーあ」
カウンターに両肘でもたれて、ゆらり、ピンク色の頭を揺らす。
「でもルミナくんのせいで、今夜泊まるとこ、なくなっちゃったなぁ」
快げに目を細めて、ただじっと、こちらを待っている。
不純なようで、無垢なようでもある。そうする理由が彼にはあるのだろうし、似合ってもいる。自分がどう見えるのか、きっとよくわかっている。それに少しの嫌悪を感じるし、ひどく憐れにも思う。
「あーそ。じゃあ、うちおいで」
口角の両側をきゅっと上げた唇の隙間から、白い歯と赤い舌が覗く。
「……優しいんだ」
「最初から優しいだろ?」
昨日と変わらない今日だ。カレンダーのマス目を左から右へひとつ進んだだけの、時計の針が地球の自転が決まった数を回っただけの、厄介な客を追い出し厄介な客を拾っただけの、昨日と変わらない今日。
エムとの出会いは、そんな夜のことだった。
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