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第2話

 電車の動いていない時間に帰宅する仕事だから、店からそう遠くない住み処はありがたい。 「バーテンダーって儲かるんだ」  部屋を見回したエムが放ったのは、単なる疑問だったのかそれとも揶揄だったのだろうか。 「俺が儲かってるように見えんの?」 「じゃあ、すっごい事故物件とか」  古いマンションではあるが、この辺りでこのセキュリティと広さの部屋を借りようと思えば、自分の給料などほとんどが家賃に消える。 「俺が払ってるんじゃないの、ここ」  ルミナの種明かしに、へえ、と驚いたふうもなく頷いた彼が、ごそごそとブルゾンを脱ぐ。同じようにジャケットを脱いでソファへ放り、風呂のスイッチを押すと、「お湯張りを開始します」と流れだした自動音声に、エムの少し舌足らずなせりふが重なった。 「猫飼ってるの?」 「少し前に死んだ」  壁際のキャットタワーは、今もそのままになっている。爪とぎにはよく使っていたが、老猫だったからか、あまり登って遊ぶことはなかった。 「名前は?」 「ムーン」 「ふうん。かわいい」 「俺がつけたんじゃないけどね。エム、腹減ってる? 何でもあるよ、全部冷凍だけど」 「んー、あとで」  吐息混じりの低い声が、首筋にかかる。シャツの裾を冷たい手がくぐり、骨張った指の感触が背中を這う。首を捻って振り返ると、頬を撫でられ、唇を塞がれた。 「――ん、なに」 「なにって。しようよ」 「あー、いいよ、しなくて」  不思議そうに目を瞬いたエムが、首を傾げて笑う。 「さっきトイレで準備したから、すぐできるよ?」  小便にしては長く籠もっていると思ったら、そういうわけか。 「人の店で――俺んじゃないけど。そういうことしないでくれる?」  苦笑したルミナの唇をまたエムの唇が塞ぐから、首を振って逃れ、身体を弄る手を押さえて剥がす。 「いいって、いらね」 「――なんで? しないの?」 「そう言ったでしょ――おい、やめろ」  跪いてルミナのベルトを外したエムが、慣れた仕草でつまみに歯を立てて器用にファスナーを下ろす。伏せるとやけに際立つ切れ長の目の、薄い目蓋の下から黒目がじっと見上げてくる。 「ほかにお礼もできないし」  愚鈍ぶった返答と、下着越しにそこをたどる舌の弾力。根元の黒いピンク色の頭が眼下でうごめき、唾液が染みる感触があるのに、ルミナは苛立って前髪をかき上げた。 「……めんどくせーんだよ、相手すんのも」 「いいよぉ、マグロで」 「聞けよ。礼だって言うなら、何もしてくれないほうが楽でいい」  うっそりと笑うエムの頭を、掴んで遠ざける。傷んだ髪を軋むほど強く引っ張ってやると、少し顔をしかめて、眉間にかすかな苦痛の色を浮かべる。さらに引っ張れば、口の中で小さく呻いて、また顔をしかめる。 「なあ、俺は聞き分けのいい子が好きなの」  見開いた目から、食いしばった歯の覗く唇から、笑みが消える。笑みを失えば途端に冷たくなる彼の面に、ぞくりと背筋が奮え、頭の奥に暗い悦びが灯った。 「俺が、しなくていいって言ってんの。わかる?」 「……うん」  従順で苦しげな返事に、はっと我に返り、突き飛ばすように彼の頭を放す。一瞬の激昂が去れば、自己嫌悪と、唾液の染みた下着の不快さだけが残る。床に座り込んだエムが動物のグルーミングじみた動作でピンク色の髪をかき混ぜるのを見下ろしながら、ルミナは下ろされたファスナーを再び上げ、彼の頭に手を伸ばした。 「いい子」  傷んだピンク色の髪を撫でてやると、エムの目が快げに細められる。 「……ね。なんで泊めてくれるの?」 「お前がかわいそうだから」  大した理由はないし、彼が特別なわけでもない。売れ残りの鉢植えを買うのも、増えすぎた熱帯魚をもらうのも、保護猫を引き取るのも、宿なしの男を連れ帰るのも、自分にとってはすべて同じなのだ。  エムがまた軽く目を見開き、それからまた、うっそりと細める。丸めたり細めたり忙しいものだ。 「それだけ?」 「それだけ」 「……優しいんだ」 「そうだよ」  きっと大切な部分が欠けているのだと思う。見返りを求めるほど執着できないだけなのだと、気づかされるたび少し落胆する。心臓の上に触れれば鼓動こそあるが、それは脳幹の正常な働きを示す以上の意味はなく、いつもそこには、空を切るばかりのぽっかりと穴の開いた錯覚がある。 「腹減ったな。ピザがいい? パスタがいい?」 「何でもあるんじゃないの?」  エムの揶揄を背中で聞きながら、ルミナは冷凍庫の扉を開けた。ガコ。  冷凍パスタとレトルトのスープで明け方の食事を済ませ、交代で風呂に入った。ルミナが風呂から上がると、エムはソファの上で膝を抱えて、スピーカーから流れるヒット曲をぼんやりとした顔で聞くでもなく聞いているようだった。180センチと少しの自分よりはやや背が低いが特段小柄でもない彼の体格には、貸した部屋着が大きすぎることもない。彼の隣へ腰かけ、タブレットの中の雑誌のページをめくっていたが、なんとはなしに生乾きのピンク色の髪に手が伸びる。ひどく傷んだ毛先が軋み、まともに手ぐしも通らない。 「男のところ、転々としてんの?」  鼻先を膝に埋めたエムが、薄い目蓋の下から眠そうな目で見上げてくる。 「うん。宿と飯、そこで賄えるから」 「へえ」 「セックス好きだし。趣味と実益」 「あーそ」  あっけらかんと言う彼と、それに吐き気を催す自分では、どちらがよりまともでないのだろうか。 「俺は嫌い。めんどくさい」  言い放ったルミナに、エムは少し笑ったようだった。  痛々しくピアスに貫かれた薄い耳朶を、青白い首筋を、横目で眺める。この街に掃いて捨てるほどいる若者のようでいて、別世界から迷い込んでしまったようでもある、不思議な男だ。 「記憶喪失設定は、ちょっとドラマティックすぎだよな」 「それくらいが好きでしょ? みんな」 「じゃあ、もうちょっとそれっぽく振る舞えよ」  頬で笑ったエムが、ピアスだらけの耳を掻くように撫でる。 「ほんとはさぁ」  再び鼻先を膝に埋めて、軽く頭を振ってみせる。 「……人を殺した」  抱えた膝の中で、くぐもった声を出す。 「逃亡中なんだ」  彼の横目遣いと、目が合う。 「もっと北に行ったほうがいいんじゃねーの」  今度、エムは声を出してあははと笑った。お互い下手な冗談だと、彼に肩を竦めてみせて、スピーカーをオフにする。リビングの照明を落としてソファから立ち上がると、うーん、と伸びをしながら背もたれへ倒れたエムが、ルミナを見上げて言った。 「ね、毛布とか貸してほしい」 「なんで? こっち来なよ」  首を傾げるルミナと鏡合わせに、エムも首を傾げる。 「セックスする?」 「しねえよ」  両側の口角をきゅっと上げた彼が、スプリングを軋ませてソファから降りた。  街には二十四時間どこかで明かりが灯り、暗闇は決して訪れないが、この季節の明け方の寝室はまだ夜の色をしている。エムのシルエットに続いて、ベッドに潜り込む。買い与えられたキングサイズのベッドは男ふたりが並んで寝ても窮屈すぎることはなかったが、さっきからあれほど眠そうな顔をしていたくせに、傍らの彼はまた口を開く。 「……もしかして、ムーンって俺に似てた?」 「すっごい不細工だったぜ」 「えー?」  不服なのか、それとも面白がっているのか、抗議にしてはどこか機嫌のよい声が上がる。一ヶ月と少し前に死んだ愛猫のことを考えると、やはりいまだに悲しみがある。ルミナはムーンの不細工面を思い浮かべながら、天井に向かって呟いた。 「保護猫でさ。尻尾が根元で切られてて、片耳も少しちぎれてた。かわいそうに、全部人間にやられたんだ」 「ちょっと俺に似てる」 「どこが」  いい加減な相槌に失笑しながら寝返りを打つと、暗がりの中から、エムがじっとこちらを見ている。 「俺も、ちぎれてるんだ」  掛け布団の中をもぞもぞと動いた彼の手に手を掴まれ、導かれる。 「ここ」  彼の耳朶を探れば、痛々しくピアスが連なるうち、一カ所だけがヴィンテージの切符のようにいびつに欠けているのが感触でわかる。 「人間なんて、最低だよな」 「……そうでもないよ」  囁くような彼の返事は、その傷跡が人間からの仕打ちであるのを否定するものではなかった。 「ルミナくん」 「ん?」 「ひっついていい?」  言いながら彼のつま先が、ルミナのつま先をつつく。 「大人しく寝るならな」 「うん」  くすくすと笑う彼の体温が近づき、やがて、ぴったりと寄りそう。 「ありがと」 「なにが?」 「凍死しないで済んだなぁって」 「凍死できるほど寒くなかったろ、今日」 「俺ね、ひっついて寝るの、好きなんだ」 「行きずりの男と?」  ルミナの軽口に、エムは答えなかった。肩口に彼の額がすりつけられる。 「ルミナくんは……誰もいない森で倒れた木は、音がすると思う?」  かすかな衣擦れと、欠伸混じりの深い呼吸の音がする。 「俺、誰かといないと、自分が生きてるかわかんなくなって。それがけっこう怖くて」 「あーそ」  耳元で打ち明けられた彼の言葉が、真実なのか作り物なのかは知らない。ただ、少しの嫌悪を感じるし、ひどく憐れにも思う。 「俺は、哲学の話は嫌いだけど」  手枕をやめて、彼の身体を抱き寄せる。肩も背中も痩せぎすで、傷んだ毛並みは撫で心地も悪いけれど、こんなふうにするのは久しぶりだった。 「猫とさ。こうやって寝てたわ」  ルミナが言うと、エムはたぶん胸の中で笑ったのだろう。 「……うん」  欠伸混じりの深い呼吸の音がする。  ずいぶん長い時間それを聞いていたかもしれないし、それはほとんど夢だったかもしれない。おやすみと交わすこともなく、いつか眠りに落ちていた。  五分おきのアラームを何回か無視して、渋々目を覚ますいつもの朝だった。  良い夢も悪い夢も見ないくらいに、ぐっすり眠ったのは久しぶりだ。とはいえ寝起きの不快さに変わりはなく、それを堪えながら重たい目蓋をこじ開けると、視界に入ったのは独り寝には広いばかりのベッドの端ではなく、幸の薄そうな冷たい顔だった。 「おはよ」  快げに目を細めると途端に愛嬌が溢れだす、エムの顔だ。 「……はよ」  思い出すというほど遠い出来事ではないが、それでもたぶん、少し驚いたと思う。いつからこうしているのか、人の寝顔など眺めても何にもならないだろうと喉から出かかった非難が自意識過剰のせいだとは、すぐにエムに教えられることになる。 「ルミナくんが寝てるうちに、出て行こうと思ってた。ほんとに」 「……うん?」 「でも、外れなくってさ」  目の前に引き上げられたのは、彼の手首を握りしめた自分の手だ。気づいた瞬間、右手に感覚が生まれる。いつからこうしているのか、すっかり強張って痛いくらいだった。  彼の手を放し、身体を起こす。眼下からは、くすくすと失笑の漏れる気配がする。 「あー……エム」  後ろ頭の寝癖をかき回しながら、ガラガラの声で彼の名前を呼ぶ。 「お前、うちにいる?」  寝転んだままのエムは、剥がれた掛け布団をかき寄せて、気持ちよさそうに微笑んだ。 「うん」

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