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第5話
店を閉め、明け方の街を帰路についた。大通り沿いのコンビニに寄るためにがらんどうの交差点で信号待ちをしながら、なんとなく監視カメラを振り返る。普段存在さえ忘れるほど当たり前にあるレンズに、この瞬間自分も映っていること、確かに利用されているのだという実感、そして不明瞭に拡大されたエムの横顔が、首筋あたりを不快感となって撫でるようだった。人気のない店内の、ガラガラの棚からろくに見もせずにプリンと野菜ジュースと売れ残りのサンドイッチ、思い出してシェーバーの替え刃と歯ブラシを買う。既に彼の前はどんな人物だったのか思い出せない程度には顔馴染みになった、留学生なのだろうか読み慣れない片仮名を名札に記したバイトと最低限のやり取りをして、暖かい店内からまた凍えるような寒さの外へ出た。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込み七階で降りる。明かり窓からうっすら光の届く玄関に、物音に気づいたのだろう、リビングのドアが開いてエムの影が差す。
「おかえりなさい」
ぼんやりと顔を上げると、そこには一糸纏わぬエムの姿があった。浮いたあばら骨、グロテスクなボディピアス、身体じゅうの歯形、まだらの痣――剥き出しの下肢。そして突然両膝を床について、面食らうルミナをうっそりと見上げてくる。
「……何してんの」
「ルミナくんが言ったんじゃん」
前足のように右手を一歩出して、ぐっと背中を反らせて笑う。昨日、苛立ちに任せて口走った愚かしい命令を、彼が愚かしくも実行しているのだと気づく。
「冗談だよ」
「なんだ」
「服着てくんない」
「はぁい」
エムはへらりと笑うと、すっくと立ち上がり、何事もなかったようにリビングに引き返すのだった。向けられた彼の背中に思わず手が伸びたのは、肩甲骨の下に彫られた複雑な模様、異国の文字のようで決して読めないそれへの興味で、温かい皮膚に触れた瞬間、小さく飛び上がったエムが素っ頓狂な声を上げる。
「冷たいよ」
「あー、ごめん」
脱いだコートを裸のエムに被せると、彼はやはりへらりと笑って、コートの前をかき寄せる。壁際の風呂のスイッチを押し、自動音声を聞きながらソファに腰かけると、すぐ右隣が沈んだ。
「飯食った?」
「うん」
「プリン食べる?」
「食べる」
テーブルに並べた食料のうちプリンの容器とスプーンを押しやり、野菜ジュースにストローを挿す。冷凍庫のストックが少なくなってきたせいで余儀なくされた、仕事帰りにがら空きのコンビニで調達する食糧が、かくもさもしいことを思い出している。
「服着ろって」
「……はぁい」
右隣が浮き、エムが下着とスウェットシャツだけ身につけると、また右隣が沈む。ルミナはマヨネーズの乾いたサンドイッチを齧りながら、プリンのフィルムを開けるエムの、根元の黒いつむじに向かって言った。
「お前のこと、色んなやつが探してる」
返事よりもプリンを一口食べることを優先したエムが、目を上げる。
「ニワって、お前の男」
彼は不思議そうに目を瞬き、それでもまだ考えあぐねるような顔をしていたが、やがて小さく首を傾げた。
「ニワ…………シュンちゃん?」
「知らねーよ」
思いがけず問われて、笑ってしまう。エムは少し身じろぎをし、まず片脚をソファに上げ、結局は両脚を上げて膝を抱えた。
「背中」
「うん?」
「俺の背中。見たでしょ? 鏡文字なんだ」
肩甲骨の下に彫られた複雑な模様を思い浮かべる。
「瞬間の瞬って字」
突然、あっけないほどの理解が訪れた。
「――あー、そ」
エムの背中に彫られたのは「瞬」を鏡合わせに写し取った形で、それが男の名前なのだ。優しい人だったと言ったろうか。部屋に閉じ込めて、身体に消えない名前を彫る残酷な仕打ちが、彼にとってはそう感じられるものだったのか。
「……お前が殺したの?」
エムが背中を丸める。鼻先を膝に埋めて、くぐもった声を上げる。
「起きたら、息してなかった」
けったいな死に様だったと、タチバナの言い草がよみがえる。
「心臓も止まってた。けど、触ったらまだあったかかった。だから、俺が救急車を呼んだら、もしかして助かったのかも」
スウェットから覗く臑毛の薄い素肌の両脚が、ぎゅっとクロスする。
「でも、俺、逃げなきゃって思って――やっと、シュンちゃんから逃げられるって、思って。おかしいよね、好きだったのに」
「好きだったの?」
「……俺のこと、いつも好きって言ってくれたよ」
横目遣いのエムが、曖昧に笑う。答えにならない答えだったが、それがエムにとって真実のすべてなのだとわかる。
口の中に残ったサンドイッチを野菜ジュースで流し込み、毛先にほとんど色のない、傷んだピンク色の髪を撫でる。
「ハヤシさんがさ」
「……3Pするの?」
「しねーよ……北天会ってわかる?」
「わかんない」
「まあ――ヤクザみたいなもん。あの人が、お前のこと探してる」
エムの頭が、おずおずとルミナの肩に乗る。
「警察も。聞き込み来たよ、今日」
身体がゆっくりと寄りかかってくる。
「シュンちゃん、そんなに悪いことしてたの?」
「知らねーの?」
「俺には何も教えてくれなかったから。なんとなく……わかってたけど」
「そう」
「……逮捕されるのかなあ、俺」
「さぁ」
ルミナは痩せた肩を引き寄せて、エムの頭に顎を置いた。ムーンと違ってクッション代わりにもならない感触と、嗅ぎ慣れたシャンプーのにおいがする。生き物の温度がある。こんなに傷つけられて慰みものにされても、当たり前のように生きようとしている。
「逃げるなら、手伝ってやるよ」
「北に?」
「北でも、南でも」
「あったかいとこがいいな」
「じゃ、南だな」
腕の中でエムが笑う振動がある。
「あ、海見たい。海見に行こうよ」
「十二月だぞ。寒ぃよ」
ぱっと顔を上げたエムの頭が、顎にぶつかる。うめいたルミナに、今度は声を上げて笑う。
「江ノ島? 伊豆? もっと遠く?」
「……なんでテンション高いの」
「デートだもん」
「デートじゃねえよ」
エムが快げに目を細める。両側の口角をきゅっと上げ、唇の隙間から歯を覗かせる。
「じゃあ、逃避行?」
込み上げるのは、憐憫であり嫌悪でもあり、もっとままならなくてもっともどかしい、煩わしいばかりの感覚でもある。
「お風呂が沸きました」と、沈黙を破るように自動音声が流れた。
バスターミナルで適当な行き先を決めて、高速バスに乗り込んだ。それなりに快適な座席のせいでそのうちすっかり眠り込んで、降り立った終点からさらに海を目指す逃避行だった。堤防添いのバス停でバスを降り、海岸への入り口を探して少し歩く。時折コートの裾がめくれ上がり、目を開けるのもやっとの突風が吹くような、風の強い海岸だった。
砂に埋もれかけた石段を降り、波打ち際まで出た。引いていく波を追いかけ、それが勢いよく押し寄せれば逃げる。飛沫がかかるたびにエムは愉快そうに笑い、砂に足を取られてはよろめきまた笑う。
「エム、近づきすぎ」
おぼえたての遊びに興じるようなエムの行為を窘めるが、躾の悪いペットでもあるまいに、彼はそれをやめないでいる。
「ルミナくん――――いつ?」
「なに?」
「海。最後に海来たの、いつ?」
波音に消えたせりふをエムが両手を口の横に立てて繰り返すので、同じように大声で返す。
「おぼえてないわ」
「俺ね、海っていえばハワイだった」
「金持ちかよ」
「うん。夏休みと冬休みには海外行くような家だったんだ」
「へえ」
「父親が大企業に勤めてた。夫婦仲はきっと冷えきってたけど、ひとりっ子だったから、俺は両親に甘やかされてたよ」
潮風でくちゃくちゃになったピンク色の髪、真っ赤にかじかんで見えるピアスだらけの耳、そこだけ彼を幼く見せる薄いそばかす。笑うと途端に溢れだす愛嬌が果たして少年の面影なのかは、自分にはわからない。
「高校生の時にね、父親が逮捕されたんだ。横領事件で、すっごいニュースになった。毎日テレビで流れて、家の周りはマスコミだらけで。会社のお金、愛人に貢いでたんだって。テレビで知ったんだけど」
今は冷たい彼の横顔は、荒れる沖を眺めている。
「でね、死んじゃったんだよね、父親。ガレージで首吊って。その時の遺書まで報道されてさ、その前からうちはめちゃくちゃだったけど、ほんとうにおしまいって感じだった。母親も愛人のところから戻らなくなって、俺は友達とか先輩のところ転々として……気づいたら、こんなふうになってた」
「……あーそ」
相槌はたぶん、ひときわ高く押し寄せた波と、飛び上がったエムの悲鳴じみた歓声に巻き込まれて、彼には届かなかっただろう。エムの腕を引っ張って、波打ち際から遠ざける。
「何してんの」
「ごめん」
へらりと笑いながら見上げてくるエムの、掴んだ左腕の袖を捲り上げる。
「お前みたいなやつってさ」
現れた青白い腕の内側を撫でる。
「ここ、ぼろぼろのやつ多いけど」
そこには青い血管が数本うっすらと透けるだけで、身体じゅうあんなに傷跡だらけだというのに、彼が自らを傷つけた痕はひとつもない。
「きれいだよな」
エムはきょとんと見開いた目を数度瞬いて、口元だけで小さく笑った。彼の袖を元に戻し、どちらのものともわからない冷たい手をコートのポケットにねじ込む。絡んでくる指を握り返して、ルミナはぼそりと足元に呟いた。
「うちは片親だったよ。でも母親以外にも何人も母親代わりのおばさんがいてさ、母親の彼氏も、クズみたいな男もいたにはいたけど、いい人のほうが多かった」
息子に月光成 なんて名付けるような母だったが、愛情深い女だった。
「自分みたいになるなって言って、俺を大学まで入れたよ。親の心子知らずで、俺は遊んでばっかで……痛い目見た。先輩に目ぇつけられて、飲み会だって呼び出されて、酒と薬飲まされて――――輪姦 された」
ぎゅっと、エムの指が強く絡む。いや、自分の手に力が入ったのかもしれない。どんなに押し込んでも、どれだけ時間が経っても、いとも簡単に強烈によみがえる記憶だ。
「官僚だか政治家だかの息子だったから、示談でおしまい。同じようなこと何度もやってんだろ、向こうは手慣れたもんだったよ。退院してすぐ、大学の喫煙所で見かけてさ。何事もなかったようにへらへらしてんの見たら、抑えらんなかった。そいつの口に煙草突っ込んで殴っただけで、警察呼ばれて、あれよあれよと俺は退学処分。そっからは簡単、俺も気づいたらこんなふう」
母親は怒りながら泣いた。一度レールを踏み外せば、元の生活には戻れなかった。惨めさを抱いたまま、生かされている日々だ。いつまでも囚われたまま、終われないでいる。
くちゃくちゃの髪が頬をかすめる。ルミナを正面から抱きしめたエムが、肩口に額を擦りつけて、くぐもった声を上げる。
「俺、ルミナくんといたい」
呼吸にうごめくブルゾンの背中を抱き返す。ルミナは冷えきったピアスの連なるエムの耳に、唇をつけた。
「俺は、お前だから助けたわけじゃないよ」
鉢植えも熱帯魚も保護猫も――エムも。どれもかわいそうで、どれも特別じゃなかった。あの夜にカウンターでカルーアミルクを飲んだのが彼でなくとも、きっと同じように連れ帰った。何かを、誰かを特別に大切にするための、そういうのを信じるための回路はもう切れてしまった。身体の電池は入ったまま、心まで届かなくなった。いつもそこには、空を切るばかりのぽっかりと穴の開いた錯覚があった。
「お前だって、俺じゃなきゃいけないわけじゃないだろ」
寂しいからと見知らぬ他人と寝る。生きるために売った傷だらけの身体で、今、この瞬間ここにいるのがルミナだというだけで、必死にしがみついてくる。
「俺だけって言ってよ。そうしたら、俺、ルミナくんしかいなくなる」
そんなエムが厭わしい。かわいそうでしょうがない。厭わしくて、かわいそうで、もっとままならなくてもっともどかしい、煩わしいばかりの感覚が込み上げる。
「俺、ルミナくんがいい」
ルミナの背中をきつく抱きしめて、肩口に、首筋に、顔をすり寄せる。ルミナもまたエムの背中をきつく抱きしめて、彼の頬に頬を擦りつける。
「……まともじゃねーよな」
自分たちはお互いに、まともでないのだ。
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