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第6話

 入れ違いに石段を下りてきた初老の男に、エムが声をかける。エムがお勧めのラーメン屋を聞きだす間、ルミナは男の許しを得て、彼の握ったリードがぴんと張るほどはしゃぐ雑種犬を撫でた。  海岸沿いのうらぶれたラーメン屋は外観に反して繁盛しており、なるほど訛りも強い地元の男が勧めるだけはある味だった。一時間に一本のバスをたっぷり待ってから駅前へ戻り、こんなところにもある見慣れた看板のビジネスホテルの部屋を取った。こぢんまりとしたフロントデスクにはクリスマスツリーが飾られ、チェックインの手続きの間、横合いのエムがオーナメントを指先で触っては嬉しそうにしていたのがおかしかった。  背後でドアが閉まる間もなく、エムが首にかじりついてくる。 「ん」  唇が強かにぶつかる。 「おい」  彼の身体を抱き留め損ね、たたらを踏みながらベッドに尻餅をつく。 「ルミナくん」  ルミナを呼びながら何度もキスをしかけるエムの唇には、まだ醤油ラーメンの風味が残っている気がする。吸った舌にもやはり、しょっぱいような甘いような旨味がある。 「お前ってさ」 「ん」 「口、小さいよな」  言い終えるより前に、また唇を塞がれた。  エムがブルゾンを脱ぎ捨て、パーカーを乱暴に頭から引き抜くと、ルミナのコートを剥がしにかかる。 「乗っかってたら脱げねーよ」 「だって」  ルミナが服を脱ぐのさえ待たず、裾から頭を突っ込んで、胸に、腹に、唇を這わせる。太股に押し当てられた彼の股座は、既に硬い。 「なに勝手に使ってんの」  切なげに擦りつけられるそれを揶揄うと、エムは嬉しそうに首を傾げ、さらに腰をくねらせる。 「ね、しよぉ」  パンツのボタンが外され、ファスナーを下ろされる。 「男の子のにおい、するね」 「バカ」  下着を嗅いで微笑むエムも、発情した男の顔をしている。布越しに彼の唇を感じるのは二度目で、それはすぐに、生温かい口腔の感触に変わる。ピアスを押しつけるように側面を舐め、その小さな口の中でじゅっと音を立てる。うごめくピンク色の頭を撫でて、耳に連なるピアスをあやせば、それに応えてまた顎を動かす。慣れた舌に、唆すように寄越される上目遣いに、ゆっくりと昂ぶる。頭を掴んで喉の奥まで咥えさせれば、苦しげに鼻で喘いで涎を漏らす。やがて口を離したエムは、反り返ったルミナをじっと見て囁いた。 「おっきくなった」 「どこと話してんだよ」  返事の代わりか、ちゅっと先端にキスをすると、エムはそのぬらぬらと光る唇をルミナの顔に寄せるのだった。 「んむ……」  唾液と体液の混じったキスを繰り返しながら、お互いに脱ぎかけの服をすっかり脱ぐ。ベッドに押し倒したルミナに跨がりながら、エムが目を細める。 「ルミナくん、きれいだね」  はー、はー、と、逸る息遣いに胸を震わせながら、こちらを見下ろしてくる。 「怖い?」 「怖いって言ったら、やめんの?」 「ルミナくんの言うこと聞くよ」  触れてもないのに反ったエムの先端から、ルミナの腹に先走りが垂れている。こんなに興奮しているくせに、まだ、従順でいようとする。 「……いいよ、したいようにしな」  腰を浮かしたエムが、ルミナに手を添えて、それを尻の谷間に滑らせる。取るものも取りあえず逃げてきたのだろう彼の小さなボディバッグの中に、ゴムとジェルが入っているのがあまりに滑稽で憐れだと思う。後ろ手に扱かれ、ゴムを被せられ、たらりと冷たいジェルが垂らされる。尻の谷間の奥へ導かれるごとにぐずぐずと音を立て、温かい肉が吸いついてくる。  ぎゅっと眉根を寄せて目を瞑っていたエムが、その切れ長の目をうっすらと開き、すすり泣くような声を上げた。 「ルミナくんの……だぁ……」 「……今はお前んだよ」  軽く突き上げてやると、エムは甘く喘いで、一心不乱に跳ね始めた。  彼の柔らかい尻たぶが、赤く膨らんだペニスが、たぷたぷと音を立ててルミナの皮膚で弾ける。 「――――んっ、んっ、うんっ」  食いしばった歯の隙間から喘ぎ、ギシギシとベッドを揺らす。その規則的なリズムに、いつか自分の息遣いが重なる。 「ねっ、ルミナくんっ、きもちいっ?」 「んっ……」  ぞくりと走った感覚に、堪らず吐息が漏れる。  頬を、首筋を、胸を、真っ赤に染め上げて、エムはあられもなく喚き続ける。 「あ、きもちぃ、ここ、おく、あたる」  胸を反らせ、天井を仰ぎながら奔放に弾む。やがて、ぶるぶると震えてルミナの胸に精液を飛ばすと、くったりと仰け反って倒れていくので、追いかけるように身体を起こす。 「エム」 「ごめ……いっちゃったぁ……」  荒い息の間から言う彼を、ベッドに押し倒す。 「まだ起きてろよ」 「うん……もっとちょぉだい……」  開いた太股の間、濁ったジェルにまみれた肉のめくれた穴は、縦に割れてほとんど性器の形をしている。 「はやく」  求めるようにぱくぱくと動くそこに先端を押し当てれば、すぐに、吸い込むようにまとわりついてくる。ルミナは彼の細い足首を掴み、肩に担ぐと、ぐっと押し入った。 「――――あんっ、む」  高い悲鳴を唇で塞いで、奥を責める。絡まる舌を吸い、左耳のまるでヴィンテージの切符のような傷にキスをし、頬、首、肩、そして痛々しくピアスに貫かれた胸を噛む。ルミナの頭を抱いて、エムは甘くむせび泣くように息をする。どこもかしこも他人によって傷つけられ、作り変えられた身体は、しかし彼の生そのものだとわかる。そのひたむきさが憐れで、妬ましく、愛おしい。 「あっ、あっ、あんっ、ルミナくん、ルミナくん……っ」  角度を変えて穿つごとに、嬌声の色が変わる。ルミナの背中にしがみつき、何度も名前を呼ぶ。温かい内臓で、ぎゅうぎゅうに締めつけてくる。 「やっ、またっ、いっちゃ……っ」 「いいよ」 「やだ」 「いいよ、いけよ」  エムの腹の中を擦り、奥を繰り返し責める。他人のエクスタシーを支配する一瞬に感じる悦びが、おぞましかった。自分を陵辱した人間と同じ欲望を、自分も抱えているのだと思い知らされるようだった。しかし今、自分はもっと原始的で、理性のかけらもない情動のままに腰を振っている。  はーっ、はーっ、はーっ、どちらのものともわからない嵐のような息遣いと、皮膚のぶつかる音が部屋じゅうに満ちる。再び達したエムの身体を、ルミナもまた絶頂を追いかけて揺さぶる。  背中を駆け抜けた強い衝動が、脳天で弾ける。  抱き合ったまま、お互い声もなく余韻に耐える。  エムの熱い手のひらが、ルミナの頬を撫でる。 「ルミナくん、だいすき」  どこか舌足らずに、そんな睦言を吐く。  目尻に滲んだエムの涙を吸う。彼はくすぐったそうに、んひ、と笑った。  狭いユニットバスのバスタブに湯を張りながら、おぼえたてのようにまた交わった。  交代で髪を乾かして、やたらに毛の柔らかい歯ブラシと粉っぽい歯磨き粉で歯を磨き、シーツのよれたベッドに潜り込む。  壁掛けのテレビからは、興味もない深夜のバラエティ番組が流れている。 「エム」 「……なに?」  ルミナの腕枕に頭を預けたエムは、とろんと目蓋を落とし、今にも眠ってしまいそうだ。 「俺は、ハヤシさんを裏切れない」 「うん」 「目が覚めてもお前がここにいたら、お前のこと連れて帰るよ」 「うん。一緒に帰る」 「いいの」 「いいよぉ」  洗いたてのエムの髪が、肩口に擦りつけられる。ひどく傷んで手ぐしもろくに通らないが、それを撫でるのが心地よいと感じている。 「……俺、黒服やってたって言ったろ」 「うん」 「店の女がさ、合コンで知り合った男に薬飲まされて、やられて、道ばたに捨てられたの」  玉の輿に乗るために田舎から出てきたのだとあっけらかんと言うような、馬鹿で憎めない女だった。貧乏人に用はないとばかりにルミナを歯牙にもかけない態度がかえって気楽で、閉店後のカウンターでよく一緒に飲んだ。ある朝、ゴミ捨てに裏口へ出たルミナの目の前に、彼女が倒れていた。朦朧としたまま、無意識に店まで戻ってきたのだ。何度も転んだのだろう、両脚は傷だらけの血みどろだった。 「俺を強姦したのと、同じやつだった。のうのうと卒業して、いいとこに勤めて、相変わらずそんなことやってたらしい」  最低の再会だった――いや、再会を願い出たのは自分だった。店の女を傷物にした男は、ほとんど全部の歯が折れるまで殴られた。血の混じった痰と一緒に床に吐き出された歯のいくらかは、かつて自分の折った歯に代わって作られた偽物だったろう。男の顔を靴の裏で踏みにじって、ハヤシは「歯なんてまた生える」と強烈なジョークを放った。セラミックでは一銭にもならないとルミナが言うと、大声で笑ったハヤシが「今度は金歯にしろよ」と言ったのをおぼえている。それからほどなくして、愛人契約をもちかけられた。 「恩人なんだ。あの人、俺の」 「うん」  恐ろしい男だとはわかっていた。彼から離れることはできた。それでも、差し出された手を取った。生きようが死のうが構わなかったから、傾いたほうに転がるだけの人生だった。  金と顧客情報を持ち逃げした「ブルーム」の前店長は、命だけは助かったと聞いたが、噂が真実なら今もきっと死んだほうがましな状態だろう。M&Aで揉めたIT企業の社長は旅先の宿で女と心中して小さなニュース記事になり、彼の運転手は彼にかわいがられてこそいるが、ある時小指に巻かれた包帯に自分は気づかないふりをした。 「ルミナくん、優しいね」 「……優しいわけないだろ」 「優しいよ」  エムは黙っているとやけに冷ややかに映る面の、切れ長の目を快げに細めて、口角の両側をきゅっと上げる。その唇を、頬を、目蓋を、指で擦る。砂に書いた落書きのように、簡単に消せればいいのにと思う。 「笑うな」  きょとんと目を見開いたエムは、戸惑ったように口元をひくつかせたが、やがてまた同じ笑顔を作る。それからおずおずと口を開き、震える声で言うのだ。 「だって……笑ってなきゃ、好きになってもらえない」 「俺は最初から、お前の笑った顔好きじゃねーよ」  かすかに届いていたエムの吐息が途切れる。 「もっとほかの顔見せて。さっきみたいに」  まだ少し赤い目が、大きく揺らぐ。ルミナの肩にしがみついて、ぐりぐりと、胸に顔を押しつけてくる。 「なに」 「……なんでもない……大好き」  くぐもった声が上がる。 「あー、そ」  腕と腕、脚と脚が絡む。つま先が触れる。息遣いをぼんやり感じながら、どちらのものともつかない鼓動をカウントしながら、ふたり抱き合ったままいつか眠りに落ちた。  翌朝、鈍行電車で数駅戻り、そこから新幹線に乗った。  二列シートの指定席を買い、がら空きの車内で、エムはぽつりぽつりと死んだ男の話をした。クラブで声をかけられ、寝て、気が合って、一緒に暮らした。どこにでもある話だった。男は自らを彫り師と名乗り、エムのタトゥーは男が手ずから入れたものだった。部屋にはいつも煙草とハーブの甘ったるいにおいが充満しており、男は三日三晩起き続けていたと思えばまる一日眠りこけるような生活で、目が覚めた時にエムの姿がないとひどく逆上した。束縛はやがて、常軌を逸した。どこにでもある話だったが、どれも聞いて楽しい話ではなかった。ルミナの気のない相槌に、エムもそのうち話をやめた。 「……あ、ルミナくん見て、海」 「散々見たろ」  エムはくすくすと笑い、ルミナの肩に頭を預けた。  終点の東京駅で降り、言いつけどおり丸の内口側へ出た。  通路の途中、柱巻きの看板に寄りかかるように立っていたのは、タチバナだった。 「よ」  軽く手を挙げ、ゆっくりと歩み寄ってくる。雰囲気こそ気易いが、狩りをする獣のような歩き方だと思う。タチバナはルミナの肩に手を置いて、にっと笑った。 「ハヤシから聞いてる」 「そうですか」 「お前、俺の言ったこと聞いてた?」 「聞いてはいましたよ」 「あっそ」 「すみません」  うわべばかりの謝罪を叱るようにルミナの背中を叩き、傍らのエムを見下ろす。 「フジシマエムさんですね」  スーツの隠しポケットから取り出した手帳を開いて見せるタチバナに、エムが小さく顎を引く。そこに映る顔写真がずいぶん盛って撮れたのだと、酔っ払って言った彼を不意に思い出してしまう。 「少しお話を聞かせていただけますか」  ルミナはコートの端を握るエムの手に、手を重ねて言った。 「行っといで」 「……うん」  返事と裏腹に、不安げにこちらを見上げるばかりで動こうとしないから、思わず笑ってしまう。 「待ってる」  エムが何かを言うより先に、彼の唇を唇で塞ぐ。  見開いた切れ長の目を、次に恥ずかしそうに細めて、エムが目元にじんわりと血色を滲ませる。  タチバナは呆れ顔で肩を竦めたが、口に出しては何も言わなかった。  ふたり、いやどこからか現れたタチバナの同僚も合わせた数人を見送り、ロータリーに向かう。ハザードランプを焚いて停まる黒塗りの車の、後部座席のウィンドウが降りる。中から顔を出したハヤシが、サングラスを下げて笑った。 「おかえり」  内側から開いた後部座席に乗り込むと、車が静かに動きだす。ルミナはパンツの尻ポケットから小さな鍵を取り出し、ハヤシに手渡す。 「これ、エムが」 「いい子だね、ルミナ」  ハヤシの手が、ルミナの頬を撫でる。 「何の鍵かは知らないそうです。ただ持ってるように言われてたって」 「ふうん」  無個性なプラスチックのタグがついた、どこにでもあるような形の鍵だ。ハヤシはタグの金具に指を通し、いたずらにくるくると回していたが、やおらそれをスーツの胸ポケットに滑り込ませた。 「で? どこ行ってたの?」 「海、見てきました」 「どうだった?」 「寒かったです」 「そりゃそうだろ、十二月だぜ」  くくく、と、彼が喉を震わせて笑う。  ハヤシの腕が背中に回り、肩を引き寄せられる。ルミナは目を瞑って、ウールのコートに染みついた煙草のにおいを吸い込んだ。 「俺はさあ、3Pでもいいんだけど」  ルミナの髪を指で梳きながら、ハヤシが天気の話でもするように無感動に言う。 「お前が嫌なら、いいよ、お前の好きにして」  驚いて顔を上げると、薄い色のサングラスの向こうの目と目が合い、にやりと笑われる。 「お前が思ってるより、俺はお前がかわいいの」 「……そう、なんですか」 「そうなんだよ。猫とは訳が違うだろ。ま、そんな時が来たらの話。先のことなんか誰もわかんねーからな」  煙草を咥えたハヤシが、明後日を向いてそれに火をつけ、盛大に煙を吹き上げる。上等な煙草の芳香が、車内に立ち込める。 「あ、店は辞めんなよ?」 「じゃあ、給料上げてください」 「そういうとこは、ほんと、かわいくねぇ」  唇に挿し込まれた煙草を渋々吹かし、ルミナもまた、天井に向けて煙を吹き上げた。

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