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ハッピーバレンタイン編 9 ハッピーバレンタイン

 実紘がいない部屋は静かで、やたらと広く感じられた。  ポツリと呟く独り言も恥ずかしいくらいに響いてしまって。  ずっと一人暮らしをしていたはずなのに、一人で過ごすのはどんなだったっけ? と戸惑ってしまったんだ。  こんなに静かで、どうにも居心地の悪いものだったっけ? って。  鼻歌が聞こえた。 「えーっと……」  鼻歌の合間にそう呟くのが聞こえた。 「!」  そうだ。実紘が昨日、一日早く帰ってきたんだった。 「ぁ、おはよ」  飛び起きると、ベッドの端、俺の足元の辺りに腰を下ろしてる実紘がいた。振り返るとニコッと笑ってる。  ルームウエアを着ているけれど、うなじの辺りから赤い引っ掻き傷のようなものがわずかに見える。 「すっごい寝てたね」  俺が昨日、付けてしまった爪痕だ。  求める気持ちが止まらなくて、止めて欲しくなくて、何度も何度もせがんで奥までいっぱい実紘で満たされるまでしがみついて離れなかった俺の爪痕。  しばらくは休みなんだから、付けてよって、言われて遠慮するのが、できなかったんだ。  ほら、いつもなら肌に痕跡なんて付けてはダメだから。  彼が誰かのものである印なんて、あっては仕事に支障をきたすから。  我慢するのだけれど。  昨日は付けていいと言われて自制ができなかった。  実紘は俺の、って印を付けたくてたまらなかったんだ。 「ごめっ、実紘こそっ時差ボケでっ」 「んー、全然、大丈夫なんだよね。これも子どもん時の影響かもね。生活リズムとかガン無視の環境で育ったからかなぁ。図太いんだろうね。どんな場所でも寝られるし。っていうかそうじゃないと寝れないとこにいたからさ。ね、それよりさ。我慢できなくて一個食べちゃった」 「ぁ……チョコ?」 「そ。ごめん」 「いや、全然」  甘い香りが漂っていた。 「これ、めちゃくちゃ美味しいね」 「そう?」 「うん。こんな美味いチョコレート初めて食べた」 「大袈裟」 「いや、本当に」  柔らかい声色、柔らかい表情。寝室の空気も、実紘に釣られて柔らかくなっていく気がする。 「不思議だよね。あの人さ、物欲がすごくて、チョコレート、バレンタインになると買ってきたんだ。すっごいたくさん。コンビニとかで見かけると、なんか買っちゃうんだろうね。ほら、おやつ、って渡されてさ」 「……」 「あの頃って味覚がおかしかったからかなぁ。甘いはずのチョコレートは、なんか辛くて喉奥がヒリヒリしてさ。けど、食べるのチョコレートしかないし、腹減るし。だからそれを食べては、できるだけ汚れてないコップ見つけて水飲んで」  実紘の幼少期は壮絶だったから。  けれど、そんな頃の自分をたまにゆっくりと穏やかに話してくれることがある。ぽつりぽつりと。それは丁寧に服を畳んでゆっくりと引き出しにしまっているような仕草に似ていた。 「なんかさ」 「?」 「俺、幸せだよね」 「……」 「チョコレート、ありがと」 「どういたしまして」  ニコッと笑って。 「一緒に食べようよ」 「今?」 「うん。ダメ?」  また一つ、胸のうちにくしゃくしゃになって転がっていた思い出とか気持ちを手で優しく広げて、そっとしまえたみたいに、穏やかに笑ってる。 「ううん。いいよ。けど、じゃあ、コーヒー淹れよう」 「あ、マジで? いいかも」 「それからサンドイッチは? 卵とベーコンの。食材なら買ってきてあるから」 「! 食う!」 「うん」 「って、それもがっつり朝食じゃん」 「朝だからね」  そっとベッドを抜け出すと実紘もベッドから腰を上げて、一緒に寝室を出て行く。 「あ、そうだ、写真集のほう、写真ほぼ決まった」 「そうなんだ」 「黒髪のミツナも入れたくて、編集の人にわがまま言ったりした」 「そうなの? 悠壱は黒にした俺、気に入ってる?」  ペタペタと二人分の足音が廊下に響いて。エアコンの効いていないリビングダイニングはキンと冷え切っていた。今日は良く晴れそうだ。カーテンを開けると清々しいほどの青空が広がっている。 「気に入ってるも何も、どんな実紘も好きだけど」 「!」 「? どうした?」 「えへへ」  嬉しそうだ。 「ね、悠壱」 「?」 「大好きだよ」  あ。 「腹減ったぁ」  今の顔、よかった。 「うん。待って、すぐ作るから」 「あ、ねぇ、今日、ちょっと出かけようよ」 「うん」 「デート」 「うん」 「車で」 「……う、ん」 「あはは、めっちゃ答え詰まってるし」 「仕方ない。実紘の運転、怖いんだから」 「あははは」  すごく優しい笑顔だった。  けれど、これはカメラ間に合わないし、写真には収めない。  この実紘は、ね。  ―― こんな表情豊かな人なんですねぇ。知らなかった。佐野さんの前でならもっともおおおっと表情豊かなんだろうなぁ。  そう、写真集には収めきれそうもないんだ。  実紘の笑った顔も、お腹が空いたとぼやく顔も、朝、俺が目を覚ましたことに嬉しそうにする顔も。全部、とても素敵で、見惚れるほど綺麗で、ミツナの、実紘の魅力がすごくわかる写真になるだろうけれど。 「ね、悠壱、もう一個だけ、チョコ食べてもいい?」 「どうぞ」 「悠壱が買ってくれたチョコ独り占め」 「実紘のために買ったんだから、そもそも独り占めだけど?」 「あは」  この実紘は、俺が。 「うまぁ」  独り占め、したいんだ。

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