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ー前編ー 僕の恋

 最初は暇な人だと思っていた。  病室の窓から見下ろす先にいるのは、三十代くらいの男の人。僕の知る限り、彼はいつも同じ時間に来ては病院敷地内のベンチに座ると、小型の端末でずっとゲームをしている。5階にいる僕の位置から中身はよく見えないけれど、首を落として片手を動かし続けるその人は、そうして日がな一日を過ごしていた。  雨が降った日は姿を見ない。どうやら彼のルーティンは晴れか、曇の日となっているらしい。雪の日はどうだろう? 考えるうちに僕は最近、雪を見ていないことに気がついた。  それにしてももったいない。自分と違って自由に外へ出られるというのに、仕事もせずにただゲームをしているだけとは。  そう、僕は入院している。自分の記憶では高校からの帰宅中に意識を失い、目覚めた時にはすでに病室(ここ)にいた。  病室には携帯用のゲーム機と、何冊もの本がある。本の内訳は、背表紙が日に焼けた漫画と小説、それから経済誌や自己啓発本。どれも僕の物じゃないから、きっと母さんが中古で買ってきてくれたんだろう。経済誌などは父さんの物だと思う。  体は至って元気だ。頭を打ったせいで入浴はできないけれど、歩行や食事は問題なく一人で行える。たまにお医者さんが様子を見に来ては、僕の腕に注射をし、薬を処方する。  もう退院してもいい気がするんだけど、まだ入院が必要だと言われている。あまり長くなると、母さんが心配してますます痩せてしまう。ただでさえ、気を失っている間に白髪が増え、やつれていた。目覚めた時、僕を見て泣いていたせいもあるけれど、皺も増えていて誰だかわからないくらいだった。  その母さんにも、しばらく会えていない。必要な荷物は看護師さんが受け取り病室へと運んでくれる。直接渡してくれてもいいのに……今じゃすっかり、看護師さんと仲良しだ。妹はまだ小さいから仕方ないとして、友達も見舞いに来ないし、少し心細い。  病室にテレビはないし、娯楽といえばゲームと本だけ。ないよりはマシだけど、できれば勉強をしたい。これでも来年は受験を控えている身だ。看護師さんを通して母さんに参考書を頼んでいるけれど、それもいつ届くのやら。  そんな毎日だったから、目に入ったその人を眺めることが、いつしか楽しみになっていた。まるで朝顔の観察のように。  ある日、看護師さんに連れられ散歩をした。種田という看護師さんは偶然にも、妹と同じ陽菜という名前だった。妹に会いたい……ボソリと呟くと、種田さんはなぜか寂しそうに微笑んだ。  そうして世間話をしながら、あの男の人のいるベンチまでやって来た。その日も彼はゲームをしていた。  あまり見ないように意識しつつも、ついつい視線を向けてしまう。不躾なそれに気づいたのか、彼はおもむろに顔を上げた。  目が合った瞬間、彼は僕に微笑んだ。綺麗で優しい微笑みだった。  ああ、好きだな……。一瞬で、僕は名も知らない彼を好きになってしまった。  それからしばらく、僕は病室のカーテンを閉めた。だめだ、だめだと自分自身に言い聞かせ、あの男の人を忘れるよう努力した。ただでさえ入院して家族に心配をかけているというのに、これで同性が好きだなんて言ったらまた泣かせてしまう。  ましてや、彼は知らない人。好きになっていいはずがない。  入院でストレスも溜まっていたんだろう。少しだけ泣いて、ベッドの上で丸まった。  ーーーー…  僕はカーテンを開けた。どうして閉めていたんだっけ? 疑問に思いながら外の景色を見下ろすと、男の人がベンチにいた。その隣には20代くらいの女の人もいた。親しげに話しているようだ。内容は当然、聞こえない。 「彼女……いたんだ」  ボソリと呟く誰かの声。見上げると、知らない男の人が窓に映っていた。誰だろう? でも、そんなこと今はどうでもいい。  名前も、仕事も、どこに住んでいるのかも知らないけれど……僕はあの人が好きだ。  彼にしてみれば、知らない子供に好意を寄せられて迷惑だろうし、きっと興味もないだろう。告白しても惨めになるだけだ。  でも、なぜか。足が勝手に動いていた。  ごめんなさい。ごめんなさい。  心の中で繰り返し誰かに謝りながら、最低気温が5度を下回ったその日、僕はコートを羽織ると病室の外へと駆け出した。

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