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第1話
その人は、無類の動物好き。
いかにも愛くるしく撫で回したくなるようなもふもふな毛が無くとも、獣と称される獰猛な動物であろうとも、生きていれば何でも守備範囲。
彼に「犬派か猫派か」というありきたりな質問を投げかけた者は、冷めた視線と呆れ混じりの鼻息を浴びるのだという。
理由は簡単。〝どっちも命あって尊いんだから決められない〟。
つまりは生きとし生けるものすべてが愛おしく映るので、その質問自体がナンセンスであり愚問。そういう事だ。
しかし無機質な見た目の昆虫の類はやや苦手らしく、なかなか触れられないという。とはいえ慈悲深い彼は、「たとえ自身の身が脅かされても殺生出来ない」と初対面の俺に向かってそう言い、そして体現した。
聞き流していたそれらや、彼にまつわる噂に信憑性をもたらす出来事が無ければ、きっと俺は未だに〝あの動物好きはモテたくてホラ吹いてんだ〟と嘲笑したままだった。
あれは去年の夏、長身イケメン社員と名高い二年先輩の有馬結弦 とペアになった初日の事だ。
「──痒い〜!」
外回り中、束の間の休憩をと後輩権限により冷たい缶コーヒーを奢ってもらい、プルタブを開けた瞬間……有馬先輩がボリボリと左の手の甲を掻きながら叫んだ。
「でも先輩のおかげで一匹の蚊が生き延びましたよ」
俺はしれっと返し、缶コーヒー片手に涼感残る車内へと逃げた。
連日どこかで最高気温を更新しているような真夏日に、照りつける太陽の下、立ちっぱなしで有馬先輩の蚊講座を聞いていたら具合が悪くなる。
何しろつい五分ほど前、俺はこの目と耳でしかと見聞きした。いかに有馬先輩が〝イケメンだけどちょっと残念な人〟かを──。
「だよな! アイツら病気を媒介する厄介なヤツらだけど、俺らがパチンッとやっちまったら一発であの世行きなんだぜ。戦うにしては人間が有利すぎるんだよ」
「……はい」
飲み口に唇をつけたところで勢い良く運転席に乗り込んできた先輩は、鞄からムヒを取り出してプクッと膨れた箇所に塗りたくった。
エンジンをかけたのはその後で、冷たい風に乗ってメンソールの匂いが車内に充満する。社用車は、燃費抜群でコンパクトな軽自動車だからあっという間だ。
新人の俺の紹介も兼ねて受付の女性と四十分は愛想笑いをしていたから、早く喉を潤したいのだが……なおも先輩の談は続く。
「蚊ってのはな、口針で皮膚を切り裂くんだ。でも俺らは痛みを感じねぇ。それはなぜだと思う?」
「口針が無痛性穿刺だからと、刺す時に多量の麻酔みたいな唾液を人間に送り込むからです」
「そうだ! その唾液は人間の肥満細胞に働いてヒスタミンを放出する。それが痒みをもたらすんだよ」
「メスだけが吸血、それも卵を産むため」
「その通り! 蚊は血だけ食ってると思われがちだが、実は花の蜜とか草の汁が主食なんだよな」
よく知ってんなぁ! と感心されたその時、俺はこう思った。
──あぁ、この人はマジだ。ちょっとどころじゃなく、かなりの変人。
俺がこんなに蚊について知っているわけないだろ。
すべては、吸血中の蚊を左手の甲にペットのごとく乗せた有馬先輩が、奇妙に膨れてゆくシマシマの腹を眺めつつ即席講座を開いたせいだ。
飛び立つ蚊に向かって「B型の血はうまかったかー?」と語りかけていたところを見て、有馬先輩との初ペア外回りにドキドキしていた俺の緊張感はゼロになった。
「有馬先輩がついさっき熱弁してましたからね。ところでコーヒー頂いていいですか」
「おぉ、飲め飲め! 俺らの体重の六十%は水分だからな。水分補給は大事だぜ!」
「はい。頂きます」
頷いてやっと口に含んだコーヒーは、求めていたものより温かった。メンソールの匂いと混じって味も微妙で、ついでに窓を貫通する強い陽射しで体力ゲージはどんどん減っていく。
だが、有馬先輩がムヒくさい左手で缶コーヒーを持ち、美味そうに喉仏を上下させている様を見ると、不思議とその変人具合も許容出来た。
しかしながら、初めてまともに会話をする後輩に向かって、何分も蚊についてを語るなど正気の沙汰ではない。
その日俺は、どこかぎこちない自己紹介に始まり、大人たるもの必要最低限の会話を交えて仕事を学ぶもの……という社会生活においての固定観念を覆された。
まず俺への第一声が「何か動物飼ってる?」は、社会人としてどうかと思うんだ。
とはいえ、そんな有馬先輩に多少なりとも興味を持ってしまった俺も、人のことは言えないんだけれど。
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