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第5話 クリスタル
「このクリスタルを持つ人物に逢ったら、これを渡すように言われています」
傑氏は、懐から古びた封筒を出してくれた。
その封筒の住所には見覚えがあった。僕が向かうと、かつて更地だったその場所に、立派な近代様式の家が建っていた。
チャイムを鳴らして少し待つと、コツ、コツ、と杖の音がして、ガチャリと扉が開いた。
「やあ」
出てきたのは、栗色の髪の一房を金色に染め、耳にいくつものピアスを付けた青年だった。白いTシャツにジーンズ、その上に木綿の油絵の具で汚れた、白いエプロンをしている。口元が涼しげだった。
「きみか。ひと目でわかったよ。どうぞ。靴は脱いで」
招き入れられ廊下を歩いてゆくと、アイランド型キッチンの奥に十二畳はあろうかというリビングダイニングが見えた。南向きの窓から差し込む光に、下塗りされたキャンバスの油絵の具がキラキラと光っていた。
イーゼルの前にある椅子の傍に、使い古されたサッカーボールが転がっていた。
それを見た瞬間、僕は胸が締め付けられるような感動を覚えた。
このボールは彼と一緒に海を渡り、帰ってきたのだ。
「クリスタル、持ってる?」
「あ、はい」
僕がクリスタルを掌に乗せると、彼は懐かしそうにそれを摘まんだ。
「……長い旅をしてきたんだな」
そう小さく呟く。
彼が覚えていてくれたことが、嬉しかった。同時に彼の白い左足の傷跡を思い出していた。
「サッカーボールを返そうと思ってさ。あの時、とっさにクリスタルを渡したけれど、別にボールをくれるとは、きみは言わなかっただろ? 間抜けにもあとで思い出してさ」
コツ、コツ、と不器用にフローリングの床に落ちる杖の音。
その音が、僕を、かつてあのアトリエにいた僕にした。
「きみに感謝を、と思ってね。あの頃、おれの鬱屈を幾ばくか拭ってくれたのは、きみなんだ。宦官の話、覚えてる?」
僕が赤面すると、「今でも時々思い出して笑うんだ」と輝くような笑みを見せた。
「それ、あげます」
「え? いいの?」
「今は、サッカーはやってませんし、クリスタルは持ち主に返した方がいいから」
それなりに人生を生きてきた。つらいことも哀しいこともあった。喜びや楽しさも覚えた。けれど、心の奥底にあるこの想いだけは、何とも混じらず純粋なままだった。
「驚かないで、聞いてほしいんですけど……」
僕はぎゅ、と両手を握りしめた。背は、いつか僕の方が高くなっていた。昔日と今日の融合が生み出したような彼の容姿に、細い腕や、その左足に、想いを馳せた。
「ずっと名も知らぬまま……あなたを、恋しく思っていました」
僕の告白を聞くと、彼は目を瞠った。
「おそらくそうじゃないかと思ったから、おれはきみに何かをあげたかった。だけど、ずるいな」
「ずるい……?」
「おれより先に言うなんて。まだきみの名前も聞いてないのに」
「あ」
僕が狼狽すると、彼は微笑した。
テレピン油の匂い。
筆を走らせるざらついた音。
利き足の踵で取る砕けたリズム。
背筋を伸ばした彼の、ままならない苛立ちを、ぶつけたような自画像。
そのすべてを覚えいている。
「あれは僕の、初めての恋でした」
出逢うことができたなら、言うべき言葉は決めていた。
「今日、逢えて良かったです」
少しキザかなと思った瞬間、「うん」と彼がはにかんだ。
=終=
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