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第1話
「中村さーん。朝ですよー」
通りのいい穏やかな亜弓の声とともに、東側の窓のカーテンが音を立てて開かれる。晴れた空の白い光が差し込んで、目を閉じたまま中村は眉をしかめて寝返りを打った。
「んー……」
「起きてください、遅刻しますよ」
「もーちょい…」
「んもー。なんでそんな寝起き悪いかな」
亜弓は両手を腰に、鼻からため息を噴いてベッドに跨った。中村のくるまっている布団の端を掴み、容赦なく剥ぎ取ると、中村は何とも情けない声を上げる。
「何するんだよーっ、寒いっ!!」
「起きてダイニングに行ってください、暖房ついてますから。早く朝食とって出かけてくださいよ。俺食器上げなきゃなんないんですから」
自分の体に馬乗りになっている無慈悲な亜弓に、中村はじっとりと恨めしげな視線を向け、いきなり亜弓の腕を取ったかと思うと強く引き寄せてその体を組み敷いた。
「ちょっ!?」
「僕が起きるまで亜弓がちゃんと横に寝ててくれたら、僕の寝覚めだっていいんだよ!」
「二人して遅刻してどーすんですか。もういいから離してくださいよ」
「かわいくない、亜弓。ついこないだまで、『中村さん、中村さん』って心細げに」
「あ、あれは病気が気弱にさせただけです!」
「…ま、いいけどね。気弱になった時に呼ぶのが僕の名前なら」
言いながら、中村は亜弓に深々と口づけた。
総合病院の一人息子である外科医の中村 一臣 ・二十九歳と、そこで薬剤師として働く恋人の柴崎 亜弓 ・三十歳。二週間ほど前から、二人は中村の部屋に一緒に住むようになっていた。
というのも、一月の終わりに亜弓がインフルエンザでダウンしたので、それを心配した中村が一人暮らしの亜弓を自分の部屋に連れてきたのだ。看病の甲斐あって亜弓は四日ほどで快復したが、それからもさりげなく中村は亜弓を引き止め続け、亜弓もなんとなく中村の部屋に厄介になっている。
だがそれにしても、高熱を発して苦しい時に、傍に寄り添ってくれた低い体温は本当にありがたく、心強いものだった。外科医としての忙しい彼の仕事も顧みず、ひどくわがままな甘えをいくつも口にしたような気がして、亜弓はまた恥ずかしさを蘇らせた。
「……ん」
喘ぎを喉にくぐもらせ、離れていくくちびるを舌で追ってしまった亜弓に、もう一度中村は触れるだけのキスをする。時間をかけた濃厚なキスは、亜弓の腰からすっかり力を失わせ、瞳を潤ませてしまっていた。
「…朝っぱらから、こんな」
「ダメ? したくなっちゃう?」
「ばか……なりません」
「ふふ。ほら、亜弓こそしゃんと立ちなさい」
「ムカつく~…」
ベッドから引き立たされ、やっとで亜弓はダイニングに戻った。
トースターからは、既に焼きあがった食パンが飛び出している。ガウンを羽織った中村は亜弓がそれを自分の前に出してくれるのを待つことはしないで、自分で冷蔵庫からマーガリンを取り出して塗り始めた。
「…亜弓。わざわざ僕より早起きして、朝食作ってくれたりしなくてもいいよ」
「え……」
中村は力なく眉を落としていた。
「食事の準備や掃除や洗濯や、そんなことをさせるために傍にいてもらってるわけじゃないんだからね。食器の片付けも、ちゃんとしてから出かけるよ。今まで一人でやってたことなんだ、できないわけじゃない」
その口調に何かを感じて、亜弓ははっと口元を押さえた。
ばかにしていると思われたのかもしれない。何でも身の回りの世話をしてやらなければならないと、そう侮辱されたように感じたのかもしれない。
「ご…ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「うん、わかってるよ」
「俺、ここに置いてもらうんだったら何かできることはしなきゃって思って」
「わかってる。でも、そんな風に遠慮することはない。僕が引き止めてるんだから」
顔色を変えて弁解する亜弓に苦笑して、中村は傍らの恋人の肩を抱き寄せて額に口づけた。
「ごめん…帰したくないんだ、僕が。ずっと傍にいてほしい。僕のエゴのせいで肩身の狭い思いなんてしちゃダメだよ」
「そんなこと…思ったことないです」
亜弓は、どう言っていいものかわからなくなって中村の背中に腕を回した。
中村は自分に、何もせずに座っていろと言っているのだろうか。そうなのだとしたら、どう言えばわかってもらえるのだろう、と亜弓は思う。中村の単なる客人ではありたくないのだということを。
もちろんそのことは中村もわかっていて、所在無く寄り添う亜弓にやわらかく微笑んだ。
「亜弓、今度煮物一緒に作ろう」
「煮物?」
反問しながら、亜弓は渡されたトーストとコーヒーを持ってテーブルへ移動した。いつものように、テーブルの角を直角に挟んで隣に座る。
「うん。僕、洋食は得意なんだけど和食はいまいちうまくできなくてねー。亜弓の作る、ちょっと甘めのやつが好きなんだ。でも亜弓が作るようなおふくろの味ってのが再現できないんだよね。煮物なんて、醤油入れて砂糖入れてみりん入れて、ってだけなのに」
「あ。醤油を先に入れちゃいます?」
「え? ああ、かも」
「わかった、具に甘味がつかないんでしょ。砂糖の量増やしても汁が甘くなるばっかりで」
「そうそう! なんでわかったの?」
「醤油は砂糖より後。昔から『さしすせそ』って言うでしょ」
「そういえば、そんなの言うね。砂糖、塩、酢、せ…せうゆ、醤油か。そ? ソース?」
「違う、味噌。味噌はあんまり早く入れて煮立たせちゃうと、風味が飛ぶんです。とにかく、塩味と甘味だったら、甘味を先につけるもんなんですよ。そうしなきゃ味がしみない」
「へー。なんで?」
「塩化ナトリウム分子の方が、ショ糖分子よりも分子量が小さいでしょ。先に組織の間をナトリウム分子が占めちゃうと、ショ糖分子が入る隙間がなくなるんですよ」
「あー、なるほどねー」
さっきまでの臆面もない甘い雰囲気はどこへやら、色気のない理系談義に花を咲かせる二人である。
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