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第2話

 その後中村は公言通り食器を自分で片付け、出勤準備をしてから玄関先で靴を履きながら、見送りに出てきた亜弓を見上げた。べつに亜弓が欠勤するというわけではない。周囲に二人の関係を悟られぬよう、出勤時間をずらすのが常となっていた。 「じゃあ、僕の夕方の予定はゆうべ言った通りだから」 「はい。気をつけて」  亜弓は着替えの入ったバッグを中村に渡した。中村は今日の夕方から二泊三日で、他県の学会に参加することになっている。  段差がついて身長が逆転した亜弓を、中村はそっと抱き寄せた。 「寂しくなったら携帯に電話しておいで。忙しい時は出られないかもしれないけど」 「…ぷ。たった二晩のことじゃないですか。平気ですよ」  こういうときはいつでも憎まれ口を返す亜弓が、いなくたって寂しくない、とは言わなかった。いないのが『二晩だから』寂しくないのだと。そこを敏感に感じ取って、中村は亜弓の頬にキスをした。 「じゃ、行ってきます。空港に行く前に手が空いたら、薬局に会いに行くよ」 「いーですってば」 「戸締りに気をつけてね」 「行ってらっしゃい」  中村は振り向いて笑いかけ、軽く手を振ってドアを出て行った。  中村がいなくなってからもしばらくそこに立っていた亜弓は、熱の宿った頬に、指先で触れてみた。  遅刻寸前で亜弓が中村総合病院のロビーを走って薬局に着くと、中で仕事を始めていた橋本(はしもと)が呆れたように声をかけた。 「おはようございます、柴崎さん。病院内を走らなくてもいいよう、もう少しお早くご出勤くださいませ~」 「すいませ-ん…」  頭を下げて中に入り、ロッカーから白衣を取り出しているところへ他から声がかかった。 「あー、おはよーございます。柴崎さん、今朝は遅かったですねぇ」  そう言ったのは同僚の石田(いしだ)(あつし)。亜弓よりも四つ年下、この間まで亜弓と同居していた佐野(さの)秀明(ひであき)と同い年の二十六歳で、かなり親しく話せる仲である。 「お前まで説教かよー。さっき橋本さんからきつく言われたばっかなのに」  辟易と肩を竦めた亜弓に、石田は造りの繊細な顔を綻ばせて、癖のように首を傾げて微笑んだ。うなじを覆う細いまっすぐな黒髪が重力に従って流れる。 「橋本さん、容赦ないですもんねー。俺は嫌いじゃないですけど、あーゆー根の強いしっかりした人」 「俺も嫌いじゃないけどさ。歳もそんな違わないし。でも俺みたいなのはさ、あのタイプはちょっと圧倒されちゃうのよ。友愛よりは敬愛だね。俺って根が軟弱だから」 「そーですかー? 柴崎さんも根は…」 「強情だって? いーよいーよ、言ってろよ」 「言うてへんやないですか」  そんな風にじゃれ合っている二人を見て、兄弟のようだと評したのは誰だったか。  実際、職場で一番親しくしている年下の石田を、亜弓は弟のように思っていた。亜弓からしてみると、石田は妙に親近感をもてるのだ。  同類、と言っていいのかどうかは分からないが、三十路の男にしては頼りない、童顔で女性的な容姿をしている亜弓と、やはり二十代も後半には到底見えない線の細い女顔の石田とは、背格好も似たようなその痩身を並べると、同じような雰囲気を醸している。中村の気持ちを受け入れるまではどうしても自分の外見を好きになれなかった亜弓は、そういう部分で石田に仲間意識のようなものを抱いてしまうのだった。  関西訛りのイントネーションで、のんびりとした口調の石田。ぼんやりとした表情が少し冷たくも映る亜弓に比べ、いつもにこにこと愛想のいい優しげなお兄さんタイプの石田は子どもに人気がある。  その石田が、小児科からの処方箋を持ってきた少女につかまって困惑しているところへ亜弓が通りかかったのは、昼食を終えた昼過ぎのことだった。 「はい、じゃあこれ抗生物質ね。飲んで具合よーなってきても、薬なくなるまで飲むのやめたらあかんよ」  少女は白い袋を受け取りながら、不服そうに口を突き出す。 「ゆか、薬キラーイ。なんでよくなってもやめちゃダメなの? こーせーぶっしつって何?」 「え? えー…と、それは」  石田はしどろもどろになって頭を掻いた。 「抗生物質は化膿止めなんやけどー、血中濃度を一定に保たなあかんくてー、途中で服用をやめると耐性菌を作ってしまうからー…」  少女の眉間にはみるみる深いしわが刻まれていく。  子ども相手にそんな説明をしてもわかるはずがない。亜弓はため息をついて、仕方なく石田の隣に立った。 「つまりね。この薬は由香ちゃんの体の仲のバイ菌をやっつけてくれるんだけど、そのバイ菌がみんな死んじゃう前に薬飲むのやめちゃったら、薬よりも強いバイ菌ができちゃって、また具合が悪くなっても薬が効かなくなっちゃうんだ。わかる?」 「そーなったらどーなるの?」 「もう痛いの治んないんだよ。それでもいいの?」  少女は泣きそうになった。 「ヤダぁ」 「うん、そうだね、いやだよね。じゃあ、ちゃんと薬飲める?」 「…飲む」 「偉いね」  亜弓が少女の頭を撫でてやると、少女は上目で亜弓を窺い、手を振って去っていった。 「柴崎さんすごいですねー。意外な特技やわ」  やや後方に退いていた石田が感嘆の声を上げる。 「特技って」 「子ども好きなんですねぇ」 「嫌いじゃないけど」 「柴崎さん、ええパパになりそやわー」 「…パパ」  その言葉はズンと胃に重く、亜弓はカウンターに手をついた。  子どもからも父親という立場からも、遠いところに亜弓はいた。そこから元いた場所に、戻れないことも戻りたくないことも亜弓は知っている。けれど頭ではわかっていることも、心で納得しきるのは難しいことだ。  しかし落ち込んでもいられない。総合病院の薬局は忙しいのだ。背後から橋本が、パソコンに向かったまま声をかける。 「柴崎さん、番号札二十八番の患者さんが薬取りに来られないんですよー。声かけてきてもらえません?」 「あ、はい」  言われたままに、亜弓は薬局から出ようとノブに手をかけた。  ――その時、開きかけたドアに何かがぶつかった衝撃があり、ドアから出ると、さっきの患者と同じくらいの少女が床に転んでいた。 「うわ、ごめん大丈夫?」  おそらく走り回っていたのだろうその子は、ゆっくりと起き上がり、黙ってすりむいた自分の膝を見つめ、それからわっと泣き出した。少女は小児病棟のスリッパを履き、入院患者用の寝巻きを着ていた。 「あ~、ごめんごめん。痛くないよ、すぐ治るから泣かないでくれよー」  言いながら慌てて、亜弓はその子を両手に抱き上げた。 「あーあー柴崎さん、女の子泣かして」  冷やかすように言ったのは石田だった。ふとその視線が少女の顔に止まる。 「うっさいばか、人聞きの悪いこと言うんじゃねえよっ」 「あれ…でも柴崎さん、その子」 「え、知ってるのか?」 「はあ…外科の中村先生が担当してはる子やないですか?」 「中村先生の?」  訊き返して、どうして石田がそんなことを知っているのだろうと思った。恋人である自分ですらそんなことは知らなかったのに。  しかしそんな考えは頭の隅をよぎっただけですぐに消えてしまった。 「…傷のわりに出血が多くないか、これ」  気づいた亜弓が眉をしかめる。 「あー、一応ナースステーションに電話入れときます。放送で先生呼び出してくれへんかな」  そう言って石田が受話器を持ち上げ、少女が泣き止みかけたとき、入院病棟の方から白衣姿の中村が角を曲がって飛び出してきた。 「あ、先生」 「柴崎くんっ」  中村の後からは、看護師が一人、小走りについてきていた。中村は亜弓の腕に抱かれた少女を見、その擦りむいた膝を見、蒼白した。 「――転んだのか」 「あ、はい。俺がドアを開けた時にぶつかったみたいで。すいません、俺の不注意です」  中村は亜弓から少女を受け取ると、片手で抱き、もう片手で前髪に隠れたその額を探り、突然後ろの看護師に向かって声を張った。 「処置室を空けさせろ、止血剤準備! 輸血もだ。先にこの子を連れて行ってくれ。急いで!」 「でも先生、飛行機のお時間が」 「学会は明日の午後からだ、明日の朝一に変更すれば間に合う。いいから早く」  中村の厳しい指示に、ロビーは一瞬静まり返り、それからざわめきが走った。訳もわからず立ち竦む亜弓は、背を向けた中村に問い掛けた。 「あの…俺、何か…?」  まずいことでもしたのだろうか。あの少女が転んで擦り傷を作ったことが、そんなに大問題なのだろうか。  すると中村は振り返り、亜弓の前まで歩み寄りながら腕を振り上げ、振り下ろした。  ――バシッ!  乾いた、ひどい音がロビーに響いた。

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