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第3話

「柴崎さん!」  再び辺りは静まり、駆け寄ってきた石田の声で、亜弓は我に返った。中村の掌が振り下ろされた左の頬が、痺れて感覚を失っている。 「中村さん……?」  指先で、触れる。そこは今朝とは違う熱を持っていた。  茫然自失で中村を見上げると、中村は苦々しげに亜弓を一瞥して、看護師が少女を連れて消えた方へ走って行った。 「柴崎さん、大丈夫ですか? ひどいな先生、いきなり殴るやなんて」 「……」 「柴崎さん?」 「え。あ」 「どないしたんですか、ボーっとしはって。気にせんといた方がいいですよ、べつに柴崎さんが悪いことしたわけでもなし。あの子が転んだんかて、わざと転ばしたわけやないんですから」 「うん……ごめん、大丈夫だ。それよりなんだっけ、二十八番の患者さんだっけ」  そう言って亜弓は石田から離れようとした。と、その白衣の袖口を引かれて、振り返る。石田は神妙な面持ちをしていた。 「あの子は、確か急性リンパ性白血病やったと思います」 「え……」 「前に先生が、誰かとそんな話してたように思います。ほら中村先生、癌系には強いから。せやから、かすり傷一つであんな大騒ぎされるんですよ」  石田は中村の消えた角を見やる。 「そうやなかったら、あんな理不尽な怒り方する人やないでしょう?」 「――」  笑った石田の瞳に、自分が何を見たのか、亜弓にはわからなかった。いや、わかりたくなかった。  今、中村の姿を視線で追った石田の中に、どんな気持ちがあるのか。中村と他人との会話を覚えていた、亜弓の知らない中村の担当患者まで覚えていた、石田の中に。  急にそら寒くなって、亜弓は腕を抱えた。ぞっとしない。バカな杞憂であってほしい。石田が中村を、特別な目で『見ている』などと。 「…そうだな」  不自然にならないように笑い返して、亜弓はズキズキと痛み出した頬を無視した。  その夜、亜弓は自分の部屋で、秀明と会っていた。  佐野秀明は、以前男娼で生計を立てていた頃、栄養失調寸前で倒れていたところを亜弓に拾われた男だ。今はその顔の造りの良さを活かして、完全予約制の高級バーでバーテンダーのバイトをしている。  その秀明が亜弓の部屋を訪れた時、秀明はそこに中村の姿がないことに驚いた。亜弓の嫉妬深い恋人は、他の男と亜弓が二人きりで会うのを嫌うのだ。ましてその相手が亜弓に恋しているともなると、なおさら。  そして次に秀明は、亜弓の顔を見て驚いた。亜弓の左頬は赤い腫れを残し、くちびるの端は紫色の痣になっている。その頬に触れようとして、ためらって手を引いた。 「何、殴られたの?」 「うん…」  部屋の中へ秀明を迎え入れながら、亜弓は力なく笑った。電話口で理由も告げずに呼ばれた理由を、なんとなく秀明は察した。 「またか~。ねえ、中村さんって実はサドなんじゃないの? 俺だったら亜弓のこんな綺麗な顔、殴ろうなんて気になんないもん」 「ぷ。何言ってんだお前」  二人分のグラスと冷えたスパークリングワインをテーブルにおいて、亜弓はその栓を抜いた。暗緑色の細い瓶の底から泡が立ち上ってくる。  中村とあんなことになってしまった後、亜弓はどうしても、中村の部屋に一人で帰ろうという気にはなれなかった。自分の住むアパートも1DKがそこそこの亜弓にとって、亜弓に一室提供してもまだ部屋数の余る中村のマンションは、一人でいるには広すぎた。  そこで久方ぶりに自室へ戻ってきたところ、中村と同居していた間も何度かかけてきていたらしい秀明から電話があって、つい寂しさのあまりに部屋に呼んでしまった。そんなことをすれば中村は激怒するだろうが、亜弓にはあまり悪いことをしているという自覚はなかった。  なんといっても、結局秀明が亜弓と中村をくっつけたようなものだったので、亜弓はもう秀明が自分を好きだとは思っていない。それを匂わすようなことを言っても、冗談としか取らない。秀明としては、なかなか微妙な立場だった。  注ぎ分けたシャンパングラスを取り上げ、小さく触れ合わせる。炭酸は口の中で弾けた。 「秀明……」  それは、唐突な涙だった。まるで亜弓自身は泣いていることに気づいていないかのように、眉一つ動かさず、しらっとした表情に涙が縦向きの筋を描き、顎からテーブルに滴っていた。  紫の痣がいっそう痛々しく見えて、秀明は眉を顰めて亜弓を凝視した。 「自信がないんだ、俺……。どうすればいいんだろう、どうしたら中村さんを繋ぎとめておけるんだろう」  亜弓は両肘をつき、拳で目を覆った。  束の間の幸福な時間が、これほど自分を弱くするとは思ってもいなかった。 「何言ってんの」  秀明の口調が険しくなる。 「しっかりしなよ、たかが喧嘩だろ? 手を上げるほどじゃなくても、しょっちゅうやってんじゃないの?」  亜弓は首を振った。 「喧嘩なんて、したことない」 「…マジで? もう付き合って二ヶ月、しかも一緒に暮らしてて一度もないの?」 「ないんだ、一度も」  仲がいいといってしまえばそれまでの事実に、亜弓は口惜しくくちびるを噛んだ。 「…中村さんは、ずっと俺に遠慮してたのかもしれない。俺に気に入らないところがあっても、その不満を言わないようにしてきて……今日我慢がきかなくなったのかもしれない」 「亜弓、よしなよ。悪い方へ考えるのなんて簡単なんだからさ」 「だけど、どうしよう秀明、中村さんが俺を嫌いになったら……あいつの方に行っちゃったら……」 「あいつ?」  何のことかと、聞き咎めた言葉を繰り返す。亜弓は一瞬はっとしたように秀明を見つめ返した。そうして手の甲で涙を拭うと、俯いてグラスに視線を落とした。 「同僚に、石田淳って奴がいるんだ。お前と同い年だよ。そいつ、中村さんのことを好きだと思う」 「…亜弓はすぐ推論でものを言う」  中村のようなことを言う秀明に、く、と亜弓は自嘲の笑みをもらした。 「昼過ぎに中村さんに殴られた時には、確かに推論に過ぎなかった。だけど今ではもう、確信なんだよ」  どういうことだ、と秀明は眉を寄せた。それを説明するために記憶を手繰り、また亜弓は胸を痛める。

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