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第4話

 ――それは、ついさっきのことだった。  結局中村は、今日の飛行機を明日の朝に変更して、今夜は自宅より空港に近い病院に泊まることになった。そのことは看護師から聞いたのだ。  そこで亜弓は自分の仕事が片付いた後、宿直室へ向かった。気まずいまま出張に出てしまって、会えない時間を過ごすのはいやだったのだ。少女の病名を知り、ナーバスになっていた中村の気持ちを察したところで、きちんと謝っておきたかった。  そうして宿直室のドアを開け、亜弓は見たくはなかった光景を見てしまったのだった。  中村は眠っていた。最近寝不足だといって、疲れがたまっているらしいことを亜弓は知っていた。机に突っ伏したまま眠っている中村、その隣に人がいた。  石田だった。  石田は中村の肩に白衣を着せ掛けようとしていた。ドアを入ってきた亜弓に気づき、屈んでいた体を起こすと、いつもの穏やかな笑みを消したひどく怜悧な表情で、驚きに固まっている亜弓を見据えて言った。 「何か?」  その声の含む剣呑に圧倒されて、亜弓は逃げ帰ってきたのだ。そうして思った。  やはり石田は、中村のことを特別な想いで『見ていた』のだと。  その時中村は目を醒まさなかった。ではあれからどうなったのだろう。目を醒まし、傍にいる石田に気づいて、中村はどうしたのだろう。二人は今頃、どうしているのだろう。  考えるだけで、身を焼くような思いに気が狂いそうだった。  中村は石田を抱くのだろうか。かつて自分を抱いたあの部屋で。…それでもいい。最後に自分のところへ戻ってきてくれるなら。  そんなことを考えて、あまりの女々しさに自己嫌悪に陥るのだった。  秀明は、石田を語る亜弓の話を黙って聞いていた。一通り話し終えると、亜弓は苦しげにため息をつく。 「だから……不安なんだ、俺」 「ん~…。その石田ってのが中村さんを好きかもしれないらしいことはわかったけどさ。だからってなんで亜弓がそんなに不安になる必要があるの。中村さんの恋人は亜弓だろ?」 「でも、向こうの方がいいかもしれない」 「なんでさ」 「……ルックス、いいし」 「それについちゃ亜弓も相当なもんだと思うけどね」 「若いし」 「あんただって三十路にゃ見えないよ」 「…守ってやりたくなるような雰囲気だ」 「そーしてるとあんただって十分儚げだよっ」  いい加減うんざりと、秀明は声を荒げてグラスを置いた。 「ほんとにやめなよそーゆーの! 亜弓は中村さんが好きで、彼はその亜弓と付き合ってるんだろ。向こうの気持ち信じなくてどーすんのさ、疑ってたら自滅するだけだよ!?」 「わかってる! わかってる、だけど」  亜弓は秀明を遮って叫び、グラスを呷った。そして突然小さくうめいてグラスを置くと、口元を押さえた。 「…何? 亜弓、口ん中切れてるんじゃないの? 炭酸がしみた?」 「ん……なんかそーみたい」  亜弓の口を開かせて、その中を覗き込んで具合を見ながら、秀明は苦笑した。 「亜弓、殴られ慣れてないんじゃない?」  口の中はかなり派手に切れていた。 「手を振り上げられたら、歯は食いしばるもんだよ」 「……」  暗に自分は殴られ慣れているということを示す秀明に、亜弓は眉を寄せた。  実際、売りをして生計を立てていた頃の秀明は、ごく日常的に暴力の中に身を置いていた。嗜虐趣味の客の求めにも、金をもらう以上は原則として従わなければならなかった。亜弓は、その世界から秀明に足を洗わせることになった原因の一端を担ってもいた。  しかし亜弓自身、決して殴られ慣れていないわけではなかった。  決して明るいとは言えない幼児体験の中、亜弓は常に実父からの虐待に晒されていた。それは肉体的なものでもあり、精神的なものでもあり、性的なものでもあった。  普段は意識下に押し込めているその記憶も、何かのきっかけで不意に表面に浮上してきては、亜弓に暗い影を落とし、その精神を今なお蝕み続けている。  時々亜弓は何かに囚われてしまったように、視線を虚空に彷徨わせることがある。そんなとき秀明は、気づけば必ず大きな声で亜弓に呼びかけ、こちら側に引き戻してやるようにしている。  母親を事故で亡くした後、本来ならば自分を庇護してくれるはずの存在である実父からの虐待とは、一体どんなものであったのか。  同様の体験を持ち、亜弓の周りで唯一その事実を知る秀明にも、彼の抱えるトラウマの深さは測りかねる。  自分がゲイであることを早いうちから自覚し、それを正当化するための手段のように男娼の生活を送っていた秀明に対し、亜弓はそれを認める術さえ知らず、ホモレイプに遭っていた自分そのものを否定するかのように、ヘテロを装ってきた。同性とのセックスを耐えがたい屈辱と考えるあまりに、本当に必要としていた中村をさえ当初拒んでいた亜弓の純粋さは、やはり自分には理解するには遠すぎる存在なのだろうと秀明は思う。 「……亜弓」  小さく呼んで、秀明は亜弓の髪を梳いた。柔らかく細い髪は、さらさらと指の間を流れる。そのまま秀明は亜弓の肩に手を置き、引き寄せた。亜弓は従順に秀明に寄り添い、その胸に耳を寄せた。 「亜弓は、なんでこんなに自信がないんだかね。あんたほどの男はそういないのに。自分に自信がない、愛されてる自信がない」  亜弓の目に、新しい涙が浮かんだ。 「だって……秀明、中村さんも、本当の俺を知ったら絶対いやになる。今好きだって言ってくれても、そうなったらどうかわからない」 「やっぱり、まだ言ってないの?」  亜弓は頷いた。  相思相愛になる前、中村は自分のことを一切語ろうとしない亜弓の話を聞きたがった。しかしその後、話すのはその気になった時でいいと言ってくれた。その気持ちは嬉しかったが、やはり話す気になれることはなかったのだ。 「どうしよう――どうしたらいい、秀明? なんで俺、こんななんだろう。まともに語れる過去もない。愛されたことが間違いだった。俺には何もないというのに」 「……亜弓?」  らしからぬ口調でらしからぬことを言う亜弓を、不審げに胸から引き剥がす。亜弓は捨てられた子どものような瞳を潤ませて秀明を見つめた。ふ、と笑う。 「…なんでもない。ワイン注ごうか? チーズでも持ってくる」  椅子を立って、冷蔵庫の前に行ってしまった。その後姿を眺めながら、秀明は考えた。  亜弓に、何かしてやりたいと思う。唯一亜弓の過去を知る者として、そしてそれに少しでも共感できる者として、何か。  中村の代わりに自分が傍にいてやれればいいとも思う。亜弓の過去を知っていて、なおその前を去らないのだとわかれば、彼も少しは安心するのではないか。  けれどそれではいけないことも秀明は知っている。過去の傷を後生大事に抱えたまま、それを舐め合っていても進歩はない。だからこそ秀明は身を引いたのだ。  秀明は自分のグラスにワインを注ぎ足した。  それから亜弓が中村の名を口にすることはなかった。

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