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第6話

 何事もなく数日が過ぎた。だがそれは単に、事が起こるための条件が揃わない日が続いただけに過ぎない。  中村と休日が合い、夜まで二人で怠惰に過ごしていたその日、二十時を回った頃になって亜弓の携帯に橋本から電話があった。 「もしもし?」 『あ、柴崎さん、橋本です』 「はあ、どうしたんですか」 『あのう、お休みの日に申し訳ないんですけど、これから職場に出ていただけません?』  亜弓はかき上げた前髪を掴んで、寝室で横になっている裸の中村を見やった。 「あ~…出られないこともないですけど」 『今日、なんだかパソコンの調子がおかしくて。私、入力の仕方くらいしかわからないし。それに今夜はちょっとこれから用事が』  亜弓はため息をかみ殺した。 「わかりました、今から行きます。パソコンの具合見て、使用薬品打ち込んでおけばいいんですね?」 『ああー、ありがとうございます、助かります。一応石田君にも頼んで、遅くなるかもしれないけど行くって言ってました。処方箋は整理して机に置いてありますから、よろしくお願いします』 「はい、じゃあ」  電話を切って寝室に戻ってきた亜弓が、ベッドには入らずクローゼットを開けて服を着込み始めたのに、中村が頭を起こす。 「何、誰からだったの」 「橋本さん。今から職場に出てこいって」 「断ればよかったじゃない。亜弓は僕より仕事の方が大事なの」 「中村さんだって、急患が入ったとかでよく俺との約束すっぽかすじゃないですか」  ジーパンのファスナーを上げて、亜弓はベッドに屈んだ。 「どっちかっていうと中村さんの方が大事ですよ。なるべく早く帰ります。今日は泊まっていくでしょう?」  中村の頬にキスをし、自分の頬にキスし返してもらい、亜弓は部屋を出た。  冷たい夜風に当たって、断ればよかったかな、と思う。中村の腕の中は暖かかった。  病院に着いた時には二十一時近くになっていた。一般診療はとっくに終わっていて、外来棟には人気がない。  夜の病院というのはあまり気持ちの良いものではない。亜弓は小学校の時に夜中の校舎に忍び込んだ肝試しのことを思い出していた。  薬局に入って電気をつけ、パソコンを起動させる。薬品管理のファイルを呼び出すと、何の問題もなくその画面が表示される。何のエラーがあったのだろうかと、呼び出された亜弓は眉を顰めた。三十路の独身女性は機械にも嫌われたのだろうか。だがそれを言うなら亜弓も独身三十路男である。  作業は滞りなく進み、一時間もかからないうちに終了した。今から石田に無駄足を踏ませるのも気の毒だと思い、携帯のメモリーを繰る。  と、そこへカウンターのガラスが小さく叩かれる音がした。石田がもう来てしまったのかと振り返り――  ――固まった。  そこにいた人物を何と呼べばいいか分からず、ただ凝視した。  西山栄治、かつての父がそこにいた。 「柴崎の家に引き取られたことは知ってたが」  彼についての記憶には、二十年のブランクがある。 「そんな苗字は珍しくもなんともねえ」  顔中に皺を増やし、髪を白くさせたその姿は記憶のものとは全く違ったが、笑うといやらしく歪むその口元は、たかが二十年では変わりようがないらしかった。 「だがアユミなんて名前の男はそういない。じゃれてたガキに感謝だな」  不意に西山はカウンターから消えると、ドアを開けて薬局の中へ入ってきた。 「か…患者は薬局内へは立ち入り禁止です。だいたい入院患者の午後九時以降の外出は」 「なに怯えてんだ、亜弓?」  西山がこちらへ進むたび、亜弓は後ろへ後ずさった。しかし二,三歩下がっただけで、狭い室内には後がない。 「あの時一緒にいた男はお前の恋人か? お前もなかなかやり手じゃねえか、あいつはここの跡取なんだって? うまいこと相手選んでやがる。将来安泰だな」 「違う……そんなんじゃ……」  否定の言葉も言い終わらないうちに、腕を掴み取られて亜弓は息を飲んだ。 「昔とちっともかわらねえ、亜弓。かわいいな、美智子とそっくりだ」  幼い頃事故死した母の名を出しながら、西山は亜弓の髪を撫で回し、それを掴んで冷たい床へ亜弓を引き倒した。 「うっ」 「あいつとは毎晩やってんだろ? 一晩くらい俺にもやらせろよ」 「あ……」  先刻までの中村との情事の名残を残す首筋を見て、西山が卑猥に口元を歪めた。 「なぁ?」  西山は亜弓の上にのしかかり、上着を乱暴に剥いだ。亜弓はただ、震えてじっとしていた。ひたすら殺される瞬間を待つように。 「う……うぁ……」  ジーパンを膝まで降ろされて、亜弓はゆるく首を振った。何もできなかった少年時代が鮮やかに記憶に蘇る。  相手は五十代に入って久しく、こちらは三十代初めの青年もいいところである。本気で抵抗して、体力的に勝てないはずがない。  ――なのに、亜弓は屈した。  手は何かをしようとして震えるばかりで、声も出ず、ただ陵辱に耐えた。泣きながら、泣きながら、亜弓は無力な子どもに戻ってしまっていた。     ヤメテ オトウサン  あの頃も声にならなかった言葉が頭を巡る。     ボクハ コンナコト シタクナイ  痛みよりも、苦しみよりも、亜弓の言葉を失わせたのは、今もあの頃も恐怖だった。     タスケテ ダレカ カミサマ  助けてくれるものはいなかった。  誰も。神も。  何も、亜弓を恐怖から救ってはくれなかった。  今もなお、その恐怖は続いている。それが、中村を失う恐怖が、亜弓から過去を語る言葉を失わせている。 「…な…かむら、さ……」  その名を呟き、亜弓はくちびるを噛んだ。  ――こんなにも、中村さんを愛してる。  意識を遠のかせながら、亜弓はそれだけを自分に確認した。

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