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第7話
意識を取り戻して、初めに見たのは心配げな女顔だった。
「あ…柴崎さん、気ぃつきました?」
「…石田……?」
気づけばそこは薬局の奥のソファの上で、亜弓は白衣を着せ掛けられ、引き降ろされていたはずのジーパンはホックまで留めてあった。隣には、結局連絡し損ねた石田がいる。一体どんな姿で発見されたのだろうか。情けなさに泣きたくなった。
「あの、起きられへんかったら休んどってください。何か飲み物でも買ってきましょか」
「いや…いい、大丈夫」
上半身を起こそうとして、注がれた残滓が直腸を逆流しそうなぬめりを感じ、尻に力を入れた。あの父は、亜弓相手にゴムを使ってくれたことなどない。
「ちょっ…と、トイレ行ってくる」
「大丈夫ですか」
億劫そうに立ち上がってふらふらと歩いて行こうとする亜弓に、石田が手を貸そうとする。その手を亜弓は婉曲に拒んだ。
時計は二十三時を回っていた。中村は待ちくたびれているだろう。
個室で身の内の処理をして、二度吐いた。手と顔を洗ってトイレを出ると、廊下に石田がタオルを持って所在無く立っていた。何があったのかとは訊かないが、どのような姿で倒れていたにしろ、あの場で何があったのかは火を見るよりも明らかであった。
「…ありがとう」
「ほんま、大丈夫ですか」
「大丈夫だって。こういうのは…」
亜弓は目を伏せた。
「慣れてるんだ」
「慣れてる、て…」
目を瞠った石田に、亜弓は縋った。
「頼む、誰にも言わないでくれ」
「い、言いませんよ、誰にも!」
涙が出てきて、余計に石田を慌てさせた。
「な…中村さん…にも……?」
石田は強く亜弓の肩を掴んだ。
「言いません、絶対!」
「ごめん…俺」
恋敵にそんなことを頼む自分が惨めでならなかった。
「勝手なこと、言ってるよな。だけど、あの人にだけは絶対知られたくないんだ。知られたら全部ダメになる」
そうなったら生きていけない。本気で思った。
そこへ落とされたのは、ひどくつらそうな石田の声だった。
「そんなに…中村先生が大切ですか」
はっとして亜弓は顔を上げた。
「あ、お前にこんなこと言える義理じゃないのはわかってるんだ。お前が中村さんのことを…その…、ずっと見てたのも…知ってるし」
ここしばらくそのことを意識していなかったが、中村を見つめる石田の切なげな瞳を、亜弓は忘れてはいなかった。その瞳が今、驚いたようにゆっくりと見開かれる。
「何にも知らへんわけやないとは思っとったけど…参ったな」
「ごめん……」
「謝らんといてください。俺べつに何をどーこーしようゆう気もないし」
「……」
「帰りましょか」
「…うん」
病院の前で石田と別れ、バスも終わっていたのでタクシーで部屋に帰ると、中村はベッドで一人眠っていた。亜弓は服を着たまま裸の胸に潜り込んだ。
「ん…亜弓? お帰り」
中村は亜弓を抱き、額にキスをくれた。そこは亜弓に安らぎを与える場所だったのに、今は不安ばかりを増幅させる。
ついさっきまで、別の男に犯されていたことを知られたらどうなるのだろう。その相手が実の父で、幼い頃繰り返し性的虐待を受けていたことを知られたら。
(汚い……)
亜弓は自分の身を蔑んだ。亜弓の内側を侵食しているのは、どうしようもない、振り払いようもない穢れだった。こんな躰を、知っていて誰が進んで抱こうなどと思うだろうか。
もはや亜弓には、中村の前に裸身を晒すことさえ憚られるような気がした。
もう抱かれることはできないかもしれない。
不安が胸に迫った。
「中村さん……」
掠れた声で呼びかける。
「あなたを…好きなやつがいるんです。そいつと、つき合う気はないですか」
ややあって、中村が頭を起こした。
「――何のつもりだ、亜弓」
硬い声が返って、心臓が縮む思いで亜弓は目を閉じた。
「いつか…中村さんには俺じゃダメだってことになって捨てられるよりは……」
「なんだそりゃ。いつ僕がきみを捨てるって言った。話にならないよ。他に好きな男でもできたのか」
「…どうしてそうなるんです」
「よくある話だろ。恋人にわざと浮気させて、それを口実に別れようってのが」
「そんなこと考えてないです!」
「じゃあ何なのさ」
「それは……」
口ごもった亜弓の脳裏に、絶対誰にも言わないと誓ってくれた石田の表情が浮かんだ。
「…すごくいい奴なんです。俺が中村さんの恋人だって知ってても態度変えなくて」
「へーえ、そんないい奴の想いが報われないのが不憫だからって? いつからきみはそんな聖人君子様になったんだ。それできみは僕にどうしろと? 言っておくが僕は好きな人間としか寝ない。そいつをきみの代わりにして、きみの名前を呼びながらそいつを抱けば満足か?」
「違います! そんなこと」
「…亜弓、僕の目を見て」
ため息をつきながら、中村は亜弓の両頬を挟んで仰向かせ、ひどく疲れた顔を見せた。亜弓の目に涙は浮かんだ。
「僕を愛してる?」
「…はい」
「僕もきみを愛してる。わかるね?」
「…はい…」
「そしてね。僕らがこうして愛し合っている以上、きみの余計な根回しは偽善でしかないんだよ」
「……っ、わかってます…」
「泣かないで。きみが泣くことじゃない」
中村は亜弓を強く抱き、頬に頬を寄せた。
「…言ってごらん。僕を好きないい奴って誰のことだい。知ってたら僕も思わせ振りな行動しないように気をつけるから」
亜弓ももう耐えられなかった。
「い…石田……」
「石田? 石田淳? 薬局の?」
反問の声が跳ね上がる。
「亜弓、それはありえない」
「なんでですか?」
「だって、淳と僕は」
中村が石田を『淳』と呼んだことに悪い予感を覚えながら、亜弓は中村の懺悔するような声を聞いた。
「昔、つき合ってたんだから」
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