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第8話

 中村と石田の交際は、十年以上も前の話だった。  中村が大学一回生、石田が中学三年生の頃、石田の高校受験の際に中村が家庭教師をしていたのだそうだ。もちろん幼い恋人との間に肉体関係はなく、プラトニックな恋愛だった。  当時、石田には九つも歳の離れた病気の弟がいた。その弟が、関西の地元の小さな内科医から大きな病院へ移るようにと紹介状をもらい、仕事のある父親を残して石田の母と兄弟が関東の祖父母のところへ引っ越して、三年。紹介された大きな病院というのが、中村総合病院のことだった。  中一の時に転校し、関東で高校に進学することを考えていた石田の家庭教師を中村がすることになったのは単なる偶然だったが、二人はそれなりに幸せにやっていた。  その二人が破局を迎えたのは、石田の高校受験の少し前。石田の弟が死んだのだ。病名は急性リンパ性白血病。そう、菜摘と同じ病気である。治ると思っていただけに、石田の家族のショックは大きかった。  別れを切り出したのは石田の方だった。そうして石田は、母親と共に父親の元へ帰ってゆき、そのまま連絡は途絶えた。その石田が自分の家の病院に薬剤師として就職してきた時は、報復でも受けるのではないかと身構えた、と中村は言う。だが亜弓の見る範囲でも、石田はおっとりとした性格の、優秀な薬剤師であった。 「とにかく、淳が僕を好きだなんてことはありえないよ。安心しなさい」  中村は断言するが、亜弓の胸は騒ぐ一方だった。  菜摘を転ばせた時の、突然の殴打の理由。何のことはない、中村の中に、石田の弟の死がトラウマとして残っているからだ。そしてきっと、石田への気持ちも。  亜弓の足元が、すっぽりとなくなってしまった。  残ったのは、西山に蹂躙された自分の躰。  翌朝中村は、いつものように一足早く病院へ向かった。  その時を境に、亜弓は行方を絶ったのだった。 「石田くん!」  亜弓が失踪して一週間、中村は薬局の前にいた。 「あ、中村先生。すいません、ほなちょっと抜けさしてもらいます」 「はーい」  橋本の返事を背に受けて、石田は薬局を出た。二人は人目につかないロビーの観葉植物の陰になっているソファを選んだ。 「今朝亜弓から連絡があったって?」 「はあ。連絡ちゅーても、まだ体調良うならへんからもうしばらく休むて言って、切ってしもたんですけど」 「居場所は」 「訊いたんですけど。…訊かんかった方がよかったかもしれませんよ。今どこにいはるんですかって訊いたら、えらい慌てた風に切ってしまいはった。家出したことが俺にばれたと思って、もう連絡してけぇへんかも…」 「どこから電話してきたかは?」 「わかりません、薬局にかかってきたし。俺の携帯にかかってきたとしても、携帯からかけてきてたらどこにいるかまでは」  困ったように石田はため息をつく。 「…捜索願出すか」  対して中村は、この世の終わりが迫ったような表情でとんでもないことを言う。 「警察沙汰にする気ですか!?」 「だって仕方ないだろう、このまま亜弓がいなくなったらどうしてくれるんだ!」 「先生、ちょっと落ち着いてくださいよ。先生がそないなことになっとったらあきません、まだ柴崎さんからの連絡は来てるんですから」  中村は、膝に肘をついた手の中に額を埋めた。その姿からは、この一週間分の彼の疲労が窺える。  中村は亜弓の部屋の合鍵をもらっている。その部屋に亜弓はいない。一時亜弓が身を寄せていた中村自身の部屋にも、もちろんいない。唯一の共通の友人である佐野秀明に電話しても、そこにはいないという。ならば実家に帰っているのだろうかと電話をかけてみれば、ずいぶん歳の行った感じの母親からは、逆に亜弓は元気かと訊かれる始末だ。八方塞がりである。  そして思う。自分は亜弓のことを何も知らないのだ、と。  亜弓には亜弓の生活がある。自分の知らない友人もいることだろう。そのうちの一人のところにでもいるのかもしれない。だが自分には、そのうちの一人さえ見当もつかない。中村にとっては二人でいる時間が二人の世界の全てで、自分の知らない亜弓を、文字通り知らないのだった。  もちろん、知りたくなかったわけでは決してない。知ろうともしていた。だが話したがらない亜弓に無理強いもしたくなかった。だから亜弓から話してきてくれるのを待つことにした。けれど結局、何一つ話してもらえてはいない。  彼への想いは日々深まる一方なのに、状況的にはつき合い始めた当初から何も変わってはいないのだ。その事実に、中村は強か打ちのめされていた。 「……淳」  耳慣れない懐かしい呼び声に、石田の目がわずかに見開かれた。 「いなくなる前、亜弓はお前が僕のことを好きだって言った」  中村は俯いたまま、視線だけを石田に向けて上げた。 「すごくいい奴がいて、そいつが僕を好きだから、そいつとつき合う気はないかって」  それを聞いて、石田は喉で笑う。 「アホぬかせ」  『淳』という呼び名がスイッチになったように、急に態度が砕けた。 「誰が二度とお前なんかとつき合いたがるかっちゅーねん。冗談は顔だけにしとけよ」  石田は白衣のポケットに両手を突っ込み、足を組んで背もたれに怠惰に寄りかかった。 「柴崎さんも言うとったな、俺がお前を見とるて。それを妙な具合に勘繰ったらしいけど、んなわけあるかい。俺が見とったんは柴崎さん! お前はそのおまけ! 俺がお前を見とったんは、なんであの人がお前なんぞを好きになったんかって疑問に思ったんと、お前のその変わらん身勝手さと横柄さに呆れとっただけや」  中村は石田の罵詈を黙って聞いた。 「…前にも言うたけどな。お前とおると疲れんねん。お前には他人の気持ちなんぞ何にもわかれへん。不器用すぎや。突き放さんように、干渉しすぎんようにてお前は気ィつことるんかもしれんけどな、相手からしてみれば、干渉されとるか拒絶されとるかて両極端なんや。お前を好きになればなるほど、そういう態度で不安になんねん。俺はまだお前としょっちゅう諍いもしよったけど、あの人は何も言われへんねやろ。なんでか知らんけど、えらいお前に執着しとる。お前に拒絶されるんが怖くて、よう反論でけへんねや」 「それは……僕も感じてる。亜弓はいつも僕に遠慮してる。しなくていいことにまで気を使って、神経をすり減らしてる」 「わかっててなんでフォローしてやらへんの。そこや、お前のどうしようもないとこは」  呆れてため息をついて、石田は声のトーンを落とした。 「…一臣。わかるやろ、お前とおるとしんどなんねん。それに耐え続けて、最後に限界が来た時、それはもう金属疲労や。修復でけへん。二度とお前を愛そうとは思えんようになる。絶望するんや。俺にはお前を変えられへん、お前を救えへん、お前には俺じゃあかんのやってな」 「……」 「柴崎さん――あの人は重い人やで」 「…重い?」 「一人でおったかて、それだけで重い人や。必死で自分を支えとる。誰かに半分持ってもらおなんて考えは毛頭あらへん。その上、俺はお前みたいなめんどくさいんをあの人に背負わしたないんや、ほんまは」 「……」 「あの人を壊したら許さへんで」  石田の瞳の奥の鋭い光に、中村は目を閉じた。  確かに、自分は他人の気持ちに疎いかもしれない。だがそれでも、一つだけ敏感になるものがある。それは、自分の恋人を愛する者たちの存在だ。 「僕は、亜弓を傷つけるだけなのかもしれない」  中村はくちびるを噛んだ。 「それでも、亜弓を誰にもやりたくない。お前にも、佐野くんにも」 「正真正銘の阿呆かおのれは!?」  苦しく絞り出したところで凄まじい罵声を浴びせられて、中村は思わず顔を上げた。 「やるのやらんのって、あの人は物か!? どーゆー感覚してんねん、お前にとっての恋人っちゅーんは所有物の一つのことか!? お高くとまるんも大概にせえよこんドアホウ!!」 「…あ、淳」  柳眉を逆立てるという表現が最も適切であろう石田の怒号が止めたロビーの時間が再始動するまでには、数秒を要した。とくに、普段のおっとりとした石田をよく知る薬局内の者たちは、目を丸くして固まっている。次期院長に向かっていい度胸だと思われているに違いない。ロビー中の視線を集めて、石田は肩を縮めた。 「柴崎さんの…居場所のことやけど」  声も心持ち小さくなる。 「あの人は、過去になんか持っとるよ。今はそれを知っとる人のとこにおるんやないやろか」  そう言った石田を、中村は静かに見つめた。 「――淳。なぜ亜弓の過去に何かがあると思う? お前は何を見た?」  石田は黙って視線を逸らせた。

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