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第9話

 とはいえ、亜弓もそんなに遠くにいるわけではなかった。石田の予想は見事的中し、亜弓は唯一その過去を話した相手、佐野秀明の部屋にいた。  安普請の古くて狭い部屋で、日付が変わるまで帰ってこない秀明の帰りを待つ気分というのは、亜弓にとって不思議なものだった。夫の帰りを待つ妻のようだと自分を嘲った。  午前三時近くなって、外の階段を上ってくる小さな足音を聞く。それからドアが開かれるまでに、亜弓は蹲っていた部屋の隅から立ち上がって玄関へ行くのだ。 「お帰り」  ドアを開けると毎晩自分を待っている笑顔に、秀明は複雑な表情をした。 「起きて待ってなくてもいいのに」 「でも、居候の身でお前がまだ働いてる時間から寝てるのは心苦しい」  毎晩のように言われる言葉に、苦笑して亜弓は返した。  秀明がぐったりとベッドに横になると、亜弓はその隣に布団を敷き始める。簡易の寝床だ。 「…秀明。今日、お前のいない間に電話が二回あった」 「出たの?」 「出てない。…前、中村さんからかかってきたことあったろ」 「いないって言ってあげたじゃん」 「うん…だからこそ俺が出ちゃまずいだろ」 「まあね」  秀明は枕に肘をつき、その上に頭を乗せて下の亜弓を見下ろした。 「ねえ亜弓。これからどうすんの」 「…え」 「何か考えてんの? 何も考えてない?」 「…何も…」 「いつまでも俺のところにいるつもり? 中村さんのとこに戻る気はないの?」  その言葉に、亜弓ははっと目を怯えさせた。 「ごめん…お前も迷惑だよな…」 「いやべつに全然迷惑じゃないけどさ。その…俺も正常な男だからさ、好きな奴に隣で無防備に寝られて、それなのに手も出せないってのはどうもね」 「……」 「…冗談だよ、そんな顔すんなよ」  秀明はベッドサイドの灰皿を引き寄せて煙草に火をつけた。ふわりとくゆらせた紫煙が、亜弓の気を迷わせたのかもしれない。 「……手、出してもいいよ」  そんなことを言っていた。秀明のベッドに体を寄りかからせながら。 「亜弓」 「もう戻らない。だからいいよ」  咎めるような声を遮った。 「…中村さんが、俺のことを忘れてくれればいい。出会わなかったことにできたらいいのに。せめてあの人より先に、秀明に出会っていればよかった」 「そしたら俺の恋人になった?」  亜弓はためらいがちに頷いた。  秀明は煙草をくわえたまま身を屈めて灰皿に灰を落とした。 「同じことさ」 「…え?」 「俺と先に出会って、俺の恋人になってたとしても、同じことだったさ。あんたは俺に過去を隠そうとして、ばれると思ったら俺の前から逃げるんだ。あんたの人付き合いのスタンスなんて、相手が違ったって変わりゃしない。あんたは相手を信じてない」  手を出してもいいなどと、亜弓が心にもないことを言うものだから、秀明も少し苛立っていたのか。口から出るものに棘がある。 「早く帰んなよ。絶対その方がいいって。ダメになりたくないとか言って、ダメにしようとしてるのは亜弓なんだよ。自覚ある?」 「あるよ…わかってるよ」 「隠すから苦しいんだろ。話してわかってもらって、全部を好きになってもらおうとは思わないの?」 「わかってもらえるわけないだろ!? 絶対嫌われる!」 「亜弓……」  げんなりと息をついて、秀明は煙草を灰皿に押し付けた。 「…今日、午前中のうちに荷物まとめときな」 「秀明っ…」 「中村さん、今頃夜勤だから、今日は午前までなんだってさ。仕事終わったら迎えにきてもらうよう、ここの住所教えといたから」 「えっ!?」  弾かれたように亜弓は秀明を凝視した。秀明は肘に頭を乗せた姿勢のまま、新しい煙草に火をつけて、亜弓の目を見返している。 「どういう…こと……?」 「どういうって。そのままさ。夜、あの人仕事の休憩中に、俺の職場に来たんだ。やっぱり俺のところにいるんじゃないかって、すげぇ…必死の形相で訊かれたからさ、もう騙してるのも気の毒で。あんたにゃ悪いと思ったけど、もう全部話したから。俺はあの人信用してる」 「全部…って…」 「全部。俺の知ってる亜弓の過去全部」 「――うそ」  亜弓の顔から血の気が引いた。焦点が合わない。 「ひ…ひどいよ秀明…そんな……俺にはもう他に行く場所なんか…」 「亜弓のためだよ。中村さんだって、そりゃ驚いてはいたけど、だからどうなんて一言も――亜弓!?」  止める間もなく、亜弓は上着を掴んで部屋を飛び出していた。 「亜弓!!」  ベッドを降りる時に灰皿をひっくり返してしまったので追うのが遅れた。秀明がドアを開けたとき、亜弓は既に階段を降りて、大通りの方へ向かって走り出していた。  靴が履けず舌打ちをしたところで、隣の部屋のドアが開く。 「ちょっと秀ちゃん、勘弁してよ~」  ストラップを肩から落としてキャミソール一枚、というあられもない出で立ちでのそりと顔を出した隣人は、こちらもまた今し方お帰りかという、長い髪を見事にカールさせたお水系のお姉ちゃんである。 「あー、ごめんマキちゃん」 「何、キレーな居候さん出てっちゃったの? 痴話喧嘩?」 「やめてよ。俺はマキちゃんみたいなかわいい女の子が大好きなんだからさ」 「あはは~、出たよ秀ちゃんの口八丁」  肩を竦めた秀明に、隣人は笑いながらドアを閉めた。  とりあえず秀明も追うのは諦めてドアを閉める。 『俺には何もないというのに』  不意に、そんな言葉が頭に蘇った。 『なんで俺、こんななんだろう。まともに語れる過去もない』  亜弓が秀明に漏らした言葉である。  ――何もない?  考えて、突然悪寒に襲われた。 「まさか…」  ばかばかしい、と思いながら呟いてみるが、思いつきは確信に変わるばかりだ。  秀明は慌てて携帯を手に取った。つながるだろうか。院内だったら電源を切っているかもしれない。  頼むからつながってくれ、と願いながら秀明はリダイヤルキーを押した。

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