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第10話
数回のコールの後、電話はつながった。
『もしもし?』
「中村さん!?」
『ああ、うん。どうしたの、こんな時間に。きみタイミングいいね、僕が病院の中にいたらつながらなかったよ』
「中村さん、今どこにいるんですか」
『今? 今ねー。病院の東の通りを右にまっすぐ入ったとこにあるファミレス。夜食タイムなんだ。どうしたの?』
夜食といいながら、注文はコーヒーだけだ。
「ああ、あの、亜弓が」
『亜弓? が何?』
「今、部屋を飛び出してっちゃって」
一瞬中村は絶句した。
「すいません、もっと穏便に話すつもりだったんですけど」
『いやいいよ、きみは謝らなくて。…ったくあの子は、何だってこう僕から逃げたがるんだ』
年上の恋人をあの子呼ばわりした中村は、今度こそ疲れきったという風に息をついた。
「でも中村さん、俺ちょっといやな予感がするんですよね」
『いやな予感?』
「半端じゃなく縁起でもない予感っす」
『……』
秀明が何を言わんとしているかがわかって、中村はテーブルの上に頭を抱えた。
『…亜弓は、なんでそこまで追い詰められてるんだ。僕に嫌われるって、本気でそう思ってるのか? だからって…自殺なんて…』
具体的な言葉にされて、秀明は息を飲んだ。
「わかんないです。けど、そんな気がしないわけじゃないです。亜弓、前に言ってました。自分には何もない、中村さんに愛されたのが間違いだって」
『そんなことを…?』
「とにかく、なんかもうよくわかんないんですけど、早く探さないと、」
『…佐野くん。佐野くん!』
「は、はい!?」
秀明の言葉を遮った中村は、自分の背後にある店の窓から前の道路をじっと見つめていた。
『…きみはほんとにタイミングがいいよ。見つけた。目の前に亜弓がいる』
「本当ですか!?」
『タクシーに乗ってる。信号待ちだ』
言いながら、中村はレジに伝票と千円札を投げて店を出る。
「どこに向かってます?」
『病院だな』
「病院…」
『ますます危ない』
中村はひどく冷静に言った。
『毒劇物の宝庫だぞ。きみは来なくていい。僕に任せてほしい。今はもう僕が何とかしなきゃ意味がない。そうだろう?』
「は、はい…」
気圧されるように秀明は頷いた。また後で連絡する、といって切れた携帯を、秀明は黙って握り締めた。
タクシーを降りて、亜弓は病院の建物を見上げた。そうして、我ながら狭い人間だと呆れてしまう。
自宅へも、中村の部屋へも、実家へも戻れない。秀明の部屋にもいられない。それで浮かぶのが、他に職場しかないなんて。
学生時代の友人は、就職したと同時に疎遠になってしまった。最初に働いていた商店街の薬局にいた同僚のあの女の子。恋人だったけれど、始まりも破局もなんだか曖昧で覚えていない。何度か泊めてもらった部屋は覚えているが、今更のこのこいけた立場ではない。二十八の時にこの病院に移ったが、それから三年、家を行き来するほどの友人もいない。
一体何をやっていたのだろう。短くはない三十一年もの間。
「テトロドトキシン…は、フグ毒。鎮静剤としても利用」
何やらわけのわからないことを呟きながら、亜弓は職員専用昇降口に回って、財布からIDカードを取り出した。当然ながら外来の一般出入り口は閉まっている。
「青酸カリ…シアン化カリウム。独特のアーモンド臭。猛毒」
昇降口から薬局はすぐそこだ。
「でも、苦しんで死ぬのはやだな…」
薬局の鍵を開け、中に入る。消毒液の匂いに満ちた、どこか頭の奥がすっとするような空間。そこが自分の居場所だと思ってきたけれど。それにすら今は疑いを覚える。
「……寒い」
体の奥に火をつけられたような、内側から灼かれるような、あの感覚が遠い。
亜弓はたくさんの錠剤が収納された棚の前に立ち、手を伸ばした。指先に触れた銀色のPTPシートの束を、掴む。引き寄せる。
過去一度だけ、それを飲んだことがある。中村に初めて抱かれたとき、彼から渡されたコーヒーの中に溶かされていた、効きの早い強い睡眠薬。紙コップ一杯に一錠で、挿れられるまで目覚めなかった。それが、PTPシートで片手に掴みきれないほど。
これだけあれば。
亜弓はひどく安心した。笑みさえのぼる。
これでやっと意味のない時間が終わる。幼い頃にはめられた枷を外せる。
そう思い、薬の束を胸に抱いて振り返った亜弓を阻む者がいた。不機嫌に眉を寄せ、腕を組み、入り口の柱に寄りかかって。少しだけ、息を上げて。
「そんな強い薬たくさん抱えてどうするつもり? 常習性があるよ、眠れないならそんな強いのはやめて、睡眠導入剤くらいにしておきなさい。なんなら処方してあげるから」
わからなかった。なぜ中村がそこにいるのか。夜勤だとは聞いていたが、外来棟には、とくに薬局には用がないはずなのに。
「どうするつもりなんだって訊いてるんだよ。薬を元に戻しなさい」
首を振った亜弓に、中村は眉間の皺を深めた。
「薬剤師のきみにわからないわけがないよね、致死量だよ」
小さく息をつき、中村は組んでいた腕を解いて亜弓に差し伸べた。
「おいで」
中村の表情が読めない。感情が読めない。
いや、かつて亜弓に他人のそんなものが読めたためしがあっただろうか。
実の親に正しく愛されなかった少年は、いつも他人の顔色を窺いながら身の振りを決める臆病者だった。それでも他人の気持ちを計り知ることはできず、少年にとって他者との関わりが苦痛なものになっていったというのに。
失えない唯一の人の存在は、亜弓には大変な安らぎであると同時に、それ以上の重荷でもあったのだ。
「さあ」
差し出される両手に近づけない。あの手が自分を拒んだら。
たった一日を挟んで豹変した父のように。
「……っ」
亜弓は頭を振った。手の中の物をいっそう強く握り締める。
それを見た中村の中で、何かが切れた。
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