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第11話

 亜弓の一週間の失踪で、中村もまた疲れていた。そして元から気の長い方ではない。  中村はぐっと目を眇めると、つかつかと中村の前に進み出て、力任せにその痩身を抱き締めた。中村の胸元のあたりで、亜弓の掴む薬のフィルムがくしゃりとつぶれた。 「忘れるなって言っただろ!?」  中村の怒声に、亜弓の肩が震える。 「僕はきみを愛してるんだって言ったはずだ! それはきみの過去に何があったって変わりゃしないよ。僕を疑う? 僕をその程度の愛し方しかできない男だと思った? いい侮辱だ!!」  怒りに任せて亜弓の顎を掴み、噛み付くようなキスをする。息苦しさに喘いだ亜弓が逃げようとして後ずさり、デスクにぶつかったところで中村は亜弓の上半身をその上に押し倒した。 「きみがどんな仕打ちを受けてきた人間だからって、汚いなんて思やしない。キスだってするし、抱かないなんて思えない」 「な、中村さんっ」  言葉を証明するように足を割られ、そこに熱い股間の高ぶりを押し付けられて、亜弓は真っ赤になって顔を背けた。名を呼ばれ、一週間ぶりの亜弓の声を聞き、中村の激昂も少しおさまる。  亜弓のくちびるを舌でなぞり、耳朶へ髪へと口づけた後、中村は彼の胸に頭を落とした。心音を聞きながら目を閉じる。  亜弓の手が震えながら、おずおずと髪を撫でてくれた。 「……亜弓。きみがいなくなって、僕がどんな思いでいたかわかる?」  亜弓が答えないのを承知で、やるせない熱い息を吐く。 「本当に…気が狂いそうだった、僕は……」  胸から頭を上げ、喉を噛んだ。亜弓の喉仏がひくりと引き攣る。 「ねえ亜弓、僕は全部知ってる。昔きみの父親がきみに何をしたか。この間ここで何をされたか。きみが淳と佐野くんに話したことを、僕は全部知ってる。だけど僕は絶対にきみを捨てたりしないし嫌わない。きみが悪いんだよ――きみの話を他人から聞くたび、僕は彼らに苦しいくらい嫉妬して、苦しいくらいきみが愛しくなるのに、きみだけがいなかった。きみに触れたかった。抱き締めて、キスしたかった。ちゃんと、それでも好きだって言ってあげたかったのに。こんなにきみが追い詰められる前に」 「……あ」  口づけた首筋を吸い上げ、紅い跡を残す。少し亜弓が息を弾ませた。 「わかる……? 絶対にこの腕がきみを手放すことはないんだ。少なくとも、自発的にはありえない。だけど」  熱っぽく囁いて、不意に中村はデスクに手をついて体を浮かせた。 「後悔は……するかもしれない。きみが幸せじゃないなら。僕もね、不安なんだよ。無理矢理手に入れたきみに、何をしてあげればいいのかわからない。もしかしたら僕はきみの幸せを奪ってしまったかもしれないんだ。薬剤師として働いて、かわいい女の子と結婚して、お義父さんやお義母さんに孫を抱かせてあげて、家庭を作ること――。それを、僕はきみから取り上げてしまったんじゃないだろうか。もしきみには僕じゃダメなんだってことになったら、僕はどうして償えばいいんだろう…?」  語尾の掠れた声に、亜弓は涙に濡れた瞳を上げた。その瞼の端にも口づける。 「先が見えないのは僕も同じなんだ」  それがつらいのだと、中村は教えた。 「きみを愛してる。本当だよ、心から。だからきみには幸せになってもらいたい。僕が幸せにしたいって――そう思ってたけど。それができないのなら、僕はきみを縛るだけのこの腕を、離さなければならないね……」  言いながら本当に離れた中村が不安で、亜弓は体を起こしてその腕を掴んだ。その手の思いがけない力に中村は目を見開き、それから優しく微笑んだ。  そっと抱き寄せる。そっと寄り添う。  亜弓はためらいがちに言った。 「……石田のところへ行かない?」  中村は苦笑した。 「つまらない誤解だ。亜弓、彼の好きな人は僕じゃないんだよ」 「本当に?」 「本当」  彼が好きなのはきみだ、と言おうかと思ったが、それを言わないことは、石田との約束だった。 「俺」  亜弓は恥ずかしそうに口を開いた。 「俺ね。いろんなこと勘繰ってました。菜摘ちゃんを転ばせたときに殴られて、まずもう俺のことなんかどうでもよくなったのかって思った。つき合うことにしたとき、二度と殴らないって言ってくれてたから。それで、中村さんが昔石田とつき合ってたとか、石田の死んだ弟が菜摘ちゃんと同じ病気だったとか、なんか色々リンクして、今でも中村さんが石田を好きだってことにしたら全部つじつまが合うような気がして」 「たいした想像力だ。それだけでこんなにメチャクチャになっちゃえるもの?」 「すいません、バカで…」  中村は笑った。 「まあ、でも殴ったのはほんとに悪かったよ。僕も彼の弟のことをまるっきり引きずってなかったって言ったら嘘になる。小児白血病の子を死なせたらつき合いが終わる、みたいな…変な自己暗示があったからさ。終わりにしたくないのは僕も同じ」  額を合わせてくちびるに触れながら、中村は考えた。  本当に、今こうして亜弓と笑い合っていられるのは彼らのお陰だ。石田にしろ秀明にしろ、亜弓を好きな気持ちは同じだというのに、自分たちの不仲に付け入って恋人の座を奪おうなどとはしなかった。むしろ中村を信頼し、気にかけている亜弓のことを任せてくれた。なんという潔さ。真似できない。  しかしそんな彼らのためにも、もちろん亜弓のためにも、亜弓を幸せにする義務が自分にはあると思う。そして、医者である自分にしかできないことが、あると思う。 「…亜弓」  静かな深い声に、亜弓は顔を上げた。 「西山栄治が憎い?」 「…え?」  反問に、中村は少し目を伏せる。 「この間の夜、淳は薬局から逃げていく入院患者の後姿を見てたんだ。後で調べたけど、あの日あの時間帯に、長時間部屋を空けていたのは西山しかいなかった」 「……」 「彼が、きみの父親?」 「……」  頑なにくちびるを引き結んだ亜弓の態度が確信させる。中村は無意識に力のこもった亜弓の拳をやんわりと包んだ。 「殺したい?」 「…え!?」  物騒なことを口にした中村を振り仰いだ。しかし亜弓を見つめる彼の目の中に笑いはなくて。 「僕ならできるよ。彼は相当荒んだ生活をしてたみたいだし…肝臓も膵臓も肺も、癌に冒されてボロボロだ。はっきり言っていつ死んでもおかしくない。だから……きみが望むなら、彼を殺すことが僕にはできる」 「ダメですよ!!」  思わず亜弓は声を上げた。  確かに、中村にはできるかもしれない。カルテを改竄するなり誤った投薬をするなり、方法はいくらでもある。けれど。 「それは犯罪です、殺人です。医者のしていいことじゃないです!!」 「それでも。彼がいてきみが苦しんで自殺するくらいなら、僕は彼を殺してきみが生きている方がいい。僕は彼が憎い」  昏い目をして呟く中村を、亜弓は強く胸に抱いた。視界に入る銀色のシートに、自責の念がこみ上げる。 「自殺なんかしません、絶対に。だからそんなこと考えないでください……」 「そ…か」  中村は安心したように亜弓の胸の中で何度か頷くと、突然脱力した。 「え!? 中村さん!?」  目を閉じてぐったりと寄りかかってきた中村は、青ざめた顔で意識を失っていた。

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