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変化の兆し
「ん〜…。 ダメだね」
「ーーええぇ……」
俺の勤める会社は女性用コスメメーカーだ。文字通り女性用の化粧品を開発、製造、販売している会社である。
三ヶ月前、高卒で入社した会社が突然倒産になり退職金も出ないまま無職になった。大した蓄えもない俺は大慌てで職探しに奔走した。ひと月後、ハロワの慇懃無礼な担当者からこの化粧品メーカーを紹介されて、持ち前の美貌と若さを武器に見事再就職を果たしたのだ。
株式会社 ハスミ。そこの商品企画開発室ってとこが今の俺の戦場。入社して二ヶ月。当然バリバリ仕事している…………訳はなく、未だ雑用ばかりをちまちま熟しているところだ。仕方が無いだろ。俺は美しいが化粧はしない。当たり前だ。男の子だもん。今までだってメイクだナンだに興味すら持っちゃいなかった。こうして仕事になったからと言ってそうすぐに理解も及ばない。何しろ見た事も触った事もない代物ばかりだ。正直リップクリームとグロスの違いすら解らない。BBクリームとCCクリームが何かも知らない。俺の知ってるクリームはアイスクリームとシュークリーム。そんなもんだ。
「園村くん。これ、持ち帰って佐藤さんに1から練り直しって伝えてくれる?」
「い…1から、…ですか?」
「そう。1から、ね」
「せめて、…2、ぐらいからとか……」
「1からだよ。 園村くん」
「……………はあ」
佐藤さんは俺の上司。企画室のチーフだ。40過ぎだがパリッとした綺麗な女性で、怒ると母ちゃんみたいでちょっと怖い。その佐藤さんに、俺は啖呵を切ってここまでやって来た。手ブラで帰る訳にはいかない。
「じゃ、あの。 具体的に何処がどう悪いのか、教えてください」
高卒とはいえ、俺だって5年の社会人経験がある。ダメと言われ、はいそーですか、って簡単に引き下がる訳にはいかない。それくらいは分かってる。
「きみ、この企画書の中身読んだ?」
「はい。勿論ですっ」
おいおい。馬鹿にすんなよ。俺だって社員の端くれだぞ。持ち込んだ企画書の中身くらい一通り目を通すわ。……あんまり意味は解んなかったけど。
「なら、園村くんの率直な意見を聞かせてくれる?」
「は? 俺の、ですか?」
組んだ手の上に顎を乗せて、にこにこ顔の蓮見社長は俺を見た。ちょっと怯む。このオジサンのにこにこ顔は危険だ。俺の警戒アラートがそう言っている。
「ーーー率直に申し上げますと、……」
「うん」
「よ、……よく解りません」
「ーーーん?」
「化粧をした事のない自分には、解らないです」
「園村くん…。 きみ正直だねぇ」
知ったかぶりしてボロが出るよりいいだろうと思って本音を言った。そもそもこの企画自体、俺は髪の毛一本たりとも関わっちゃいないんだ。知らなくても当然だし、男の俺に化粧品の知識が無くても何の恥にもならない。
「きみがしなくても、今まで彼女くらいいたでしょ?それとお母さん。きみの周りの女性は化粧をしていたと思うけど?」
「うちの母は介護職で、普段は殆ど化粧なんかしません。老人介護は大変で、そんな暇無いっていつも言ってました」
「ーーー恋人は? 彼女、いたでしょ」
「ーーーーーー……ません」
「え、何? 聞こえな…」
「彼女なんていた事無いですっ!」
くっそーーー!!言いたくなかったのにっ。
「本当に…?」
「いっ、いけませんかっ」
そうだ。俺は今まで一度も女の子と付き合ったことが無い。
昔っから寄ってくるのは男ばっかり。中学までは共学だったが、高校は工業系の男子校。当然女子はいない。更に入った会社も男だらけ。同僚に一人だけいた30過ぎた女性社員は、いつもボサボサの引っ詰め髪で化粧っ気なんかまるでなかった。
それなのに………
「え? じゃあ瑛士、きみ童貞だったの?」
「うっ、うるさいっ! 悪いかよっ!」
「……なのに処女じゃないのか」
「だっ、黙れっ! この強姦魔っ!! あんたのせいだろっ!」
「あれ?待てよ…。 きみもしかして、僕に処女を捧げてくれたのかい?」
「捧げたつもりなんかないってーのっ!!あんたが勝手にっ、俺のイタイケな尻を弄んだんだろっ!!」
この野郎…、よくもぬけぬけとっ!すっとぼけやがって。
「それにしちゃ随分と、感じやすいお尻だよねぇ。 へぇ〜、あれで処女かぁ。いや、参ったねぇ」
「勝手に参ってんじゃねーっ」
「ねぇ小田くん、どう思う?」
「はっ!?」
そ、そうだった…。この部屋にはもう一人、小田さんというお綺麗な秘書のお姉さんがいたんだっ!
「この子童貞非処女なんだって。 中々唆るよねぇ」
「や……やめろっ、秘書さんに何て事を言ってんだ!」
「そうですね…。 やはりここは、社長が責任持って、童貞も貰って差し上げたら如何です?」
「ーーー……は?」
ちょっと秘書のお姉さんっ!お綺麗な顔してとんでもない事を仰りますねっ!
「あ、いいね。うん、そうしようか」
「ごご、ご冗談でしょ!?」
「もちろん冗談だよ〜。 それとも瑛士、きみ僕のお尻解してみたいかい?」
「無理っ!!」
だよねぇ、等と笑ってやがる。幾ら俺が童貞でも、穴なら何でもいい訳じゃないんだ。ましてやオッサンの尻でなんて考えただけで鳥肌モンだっ!
「ははは。ホント瑛士は元気があっていいね。 ところで、そろそろ戻らなくていいのかい?」
「もっ、戻る! けどっ、 手ぶらじゃ帰れないっ! 何かヒントとかくれっ、さい!」
「ん〜…。ソレを考えるのが企画の仕事なんだけどねぇ。 まあ、僕と瑛士の仲だしヒントくらいはあげようか」
「ーーーーおね……しゃす」
僕と瑛士の仲って何だよ、とかいう疑問と文句は飲み込んで、とりあえず土産になるネタの一つでも貰わないと戻るに戻れない。罷り間違っても一代で築き上げた会社社長(中身はただの変態エロオヤジだが……)だ。その知恵の詰まった頭の中を覗いて見るのも勉強のうちだろう。
「商品というものはね、使う人があって初めてその価値が生まれるんだ。その価値に対して対価を頂く。それが商売なんだよ」
「ーー…はあ」
「だけど僕らはボランティアでも慈善事業でもない。たった一人の為に物を作ってちゃ利益には繋がらない。より多くの需要に対して供給をする。それも他所の真似事じゃ駄目だ。二番煎じじゃ底が知れてるからね。じゃあ、どうするか。それは…」
「そ…、それは?」
「それを考えるのが、企画のお仕事だよ」
「ぅ……、」
「ヒントが欲しいって瑛士は言うけど、そのヒントを瑛士にタダで上げるのは、どうかと思うんだよねぇ。 ほら僕、商売人だから」
「ーーーー……は?」
何だか雲行きが怪しくなってきたぞ。
「どうかな? ヒントの対価に瑛士が払えるもので手を打つけど? もちろん、需要と供給のバランスもしっかり計算しないといけないよ?」
にやにや笑いながらまた組んだ手の上に顎を乗せた。
このゲス野郎…。人の足元見やがって。言ってる事もやってる事もまるで時代劇の悪代官じゃねーか! 指図め後ろの秘書さんが越後屋だなっ!くそっ!どいつもこいつもバカにしやがって。
「ーー分かった。 相応の対価、払ってやるよっ!」
お代官様は一瞬目を見開いて、それから面白そうにニヤリと笑うと、ヒントという名の“商品”を供給し始めた。
「ーーなるほど…。 さすが社長さんだな。目の付け所が違う」
「お褒めに預かり光栄だよ」
ボツになった企画書に比べたら、確かに一国の主が言う事の方が正しい。てか、この企画書だってそんなにじっくり読んでた訳じゃないのに、何がどう駄目で何処が無駄なのかまで指摘を入れてくる。あれ?このオッサン只者じゃないぞ。そういえば初めて会った時も随分と話込んだ気がする。何だか話がやたらと面白くて、時間も忘れてついつい飲み過ぎたんだ。
今だってメモで埋め尽くされた企画書を見返せば、結構な時間が経っているのが分かる。
「あの、ありがとうございました。早速このメモ持って、チーフにもう一度企画の練り直しして貰います」
「うん。そうしてくれる? ーーで、瑛士。そろそろ支払いをして貰おうかな」
あ…。そうだった。無料じゃねぇんだった。
「僕はここでも構わないけど、せっかくだから何処かいい部屋でも予約しようか? まぁ、その分価格の上乗せは必須なんだけど」
仕事の話してる時はちょっと…、ほんのちょびっとだけっ。 か…かっこいいとか思ったのに…。やっぱりこのオッサンはただの変態エロオヤジだっ!
「ーーーいいえっ、結構です!」
俺だってそう安々とアンタに尻を差し出す訳にはいかねぇんだよ。
ツカツカと大きなデスクを回り、やたら座り心地の良さそうな黒い革張りのエグゼクティブチェアに、ゆったりと背中を預けた蓮見社長を見下ろした。
肘掛けに両肘を乗せ、腹の前で手を組む姿はまさに社長様だ。俺を見上げてちょっと不思議そうな顔をしてやがる。いつも小バカにしたようなニヤけ顔しかしないクセに、こんな顔を見たら面白くなってつい頬が緩んでしまった。狩り場でスケベオヤジを手玉に取ってた頃の余裕が出て来た。
「釣りはいらねぇよ」
言っとくがこれは対価だからな。それも渋々払わされただけなんだからな。
オッサンの高そうなスーツの肩に両手を置いて一気に顔を近付けた。むにゅっと唇に当てるように自分のソレをくっつけて素早く離れる。
「言っとくけどっ、俺のファーストキスだぞっ! ダイヤモンドくらい価値があるんだからなっ」
どっ、どうだ参ったかっ!
そっぽ向いてちょっと赤くなりそうな顔を企画書の束で隠した。別にオッサンに照れた訳じゃない。この歳までキスする相手も居なかった自分に恥じただけだ。
「瑛士…。 きみは…」
「何も言うなっ! これでチャラだっ、わかった、ーーっぅわ」
腕を引かれ倒れるように膝の上に乗せられた。
「おっ、おい! 何しやが……んむっ、」
ーーーは? へ? ナニコレ?
「ンンッ…!?」
抱き込まれ首の後ろを固定され、合わさった唇をレロッと舐められた。驚いて開いた口の中にヌルっと熱いものが挿し込まれると、そいつが我が物顔で暴れ回る。
どこかで「アッ」と小さい声が聞こえてその後パタンとドアの閉まる音がした。多分秘書のお姉さんだ。いやそんな事より息が苦しい。相変わらず口の中のヌルヌルは出て行かない。固定された首も動かない。酸素を求めて口を開くと更にその隙間を塞がれた。
「んー、んんー…っ、」
くちゅくちゅ口の中を這い回るものが舌に絡みついてくる。やがて扱かれるように吸い出された舌が痺れてきた頃には、頭の中に霞がかかったように思考が止まった。
あれ…? 俺……何してるんだろ…?
身体中から力が抜けて、だらりと手の中から何かが滑り落ち、ガサガサッと音を立てて床に落ちた。その音に我に返る。
「んぅっ!? んな、ゃっ!」
見開いた眼前に雄の顔をした社長がある。首を振ってそこから逃れ、力の入り切らない腕でその顔を押し退けた。
「やらっ、らにふんらっ」
「んん? 何って、キスだよ」
顔を押し退けた手を逆に握られ、簡単に抑え込まれた。どうしてこうも力の差があるのか。
「く…っそ。 離せよっ!」
「瑛士。 どうやらお前は、俺を本気にさせたようだな」
「ーー…はぁ?」
「とんだ跳ねっ返りだが、こうなったらこっちも本気で落とすから、覚悟しとけよ」
見た事ないくらい真剣な顔で意味不明な事を仰る社長様に、どういう訳か俺の体温が上がっていく。その熱がきゅーっと顔に集まって真っ赤になって放出された。
「んな……っ、ななな、なにをっ、」
その顔面をジッと見つめられて心臓までおかしくなった。
なんだコレなんだコレなんだコレ…、
なんだっ、コレはっ!?
「な、何…、言ってんだか…」
「わからないか? お前に惚れたって言ったんだ。 大人を本気にさせた責任、きちんと取らせてやるからそのつもりでいろよ」
にやりと笑うその顔がハリウッド映画の色男みたいで厭味ったらしいったらない。悔しいがこのオッサン、ちゃんとしてりゃ男前なんだよ。
俺だってブサイクなキモオヤジを狩りの獲物にする訳がない。それなりに見目のいいオジサンに狙いを定めて振り回してたんだ。
くそ…っ、ムカつく…っ!
「い、い、言っとくけどなっ、俺はそんなに安い男じゃねぇんだよっ。 誰がオッサンなんかに落ちてやるかっ!」
「へぇ…。 俺の膝に乗っかって、キスだけで勃起してる童貞のクセに。 随分生意気な口をきくじゃないか」
「ヒャアッ!」
スルリと硬くなった股間を撫で挙げられ、転げ落ちるように膝から降りた。縺れそうになる足をギクシャクと動かして距離を取ると、ドヤ顔でニヤつくオッサンを涙目になって睨みつける。
「瑛士。 ーーー今夜、空けとけよ」
「し…っ、知るか! ばぁーーっか!」
そのまま逃げるように部屋から飛び出した。
バタンと閉まったドアの向こうから、あははは、とさも愉快そうに笑う社長の声が聞こえてきた。
なんだよ! やめろよ!
尻のみならず、俺の純情まで弄ぶつもりかよっ!
そんなの絶っ対、許さないからなっ!
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