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彼女には、看護師はおろか多数在籍している療法士すら一度も手を貸さなかったようで、自身に手を貸したスタッフに聞けば「アレには番が居るから私たちが触れたらおかしくなってしまう」と言いきられた。 確かに勇気のいる事だ。 Ωの中でも特に依存性の凄まじかった彼女は、医師ですら不用意に触れたいとは思わない。 だが、彼女は何度転んでも歩くことを辞めようとせず、緩んで脱げた靴は時間をかけて履き直し、また立ち上がっていたそうだ。 ある日、担当スタッフに呼ばれるのを待っていた時の事だ。すぐ傍まで歩いてきた彼女が、ふとバランスを崩した。 咄嗟に重心の定まらない身体で腕を掴むと、彼女は酷く驚いた顔を見せた。 そこに少しも拒絶反応のような症状は無く、みるみるうちに瞳を潤していく涙はとても美しくて。 「初めて、こんな事をしていただきました。お身体の方は大丈夫なんですか?」 自分の膝は痣だらけだというのに、一番に心配したのは同じくリハビリを受けている患者の男。 俺自身まだまだ自立して歩くのは不安定であるにも関わらず、彼女の身体は病的なほど軽く、簡単に支える事が出来てしまった。 そこで周りから褒められたのは、事故による麻痺が残る身体で彼女を支えた彼自身。 毎日汗をかき、小さな傷を増やし続けたΩの努力を称える人間は誰一人として居なかったという。 おかしい、おかしくない以前に、これがΩとして生まれた者の社会なのだと無理やり納得させられたまま、今まで生きていた。 だが、男は知ってしまった。 同じく不自由な身体でありながら、決して諦める事無くリハビリを続ける彼女の強さを。 誰も手を貸さない、誰にも頼らない孤独の中でも光を失わない精神力を。 その日の夜、回診に立ち寄った担当医師に告げた。 「あの人と一緒に、歩く練習をしてもいいですか」 医師は渋い表情を見せ、ぶっきらぼうに肯定の言葉を投げつけた。 それから、退屈な毎日は楽しみを待つ時間へと変わる。 常に手を貸して、必要ならば腹や腰にも触れた。 だが彼女が悪心を抱く事も無ければ、むしろ顔色は良くなっていっているように思えて。 何度かは自分につられ、揃って倒れ込む日もあった。 そんな時は決まって彼女が骨折でもしていないかと気が気でないのだが、可笑しそうに笑う彼女の笑顔が綺麗で、また立ち上がる事が出来た。 日を追うごとに心は惹かれ、しかし番の居る彼女と必要以上に接触する事は不可能。 自立歩行の許しが出てからはよく部屋を覗きに行くようになり、番が見舞いに来たような気配も無い事を疑問に思い始めた。 そして、彼女が番に捨てられた事。 それ故に心身が弱り、このような入院生活になった事を知る──。 「僕には妻子が居ないから、退院して仕事復帰した今でも頻繁にここへ来る事が出来ている。 手を繋いだり、頭を撫でた時の笑顔が本当に綺麗で……って、こんな事を息子さんに話すものじゃないね。不快にさせてしまってすまない」 彼が母に向けるものは、まさに無償の愛といった所だろうか。 彼の紡ぎだす言葉から見えるのは、母の事を性別の垣根を超えた同じ人として尊敬しながら、一人の女性として愛おしく思うさまで。 窮屈に締め付けられる胸の理由は、母を認めてもらえた喜びか、それとも、無垢な偽善者だと断ち切ってしまいたい己の歪んだ心への怒りか。

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