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第3話

 ますます意味が分からない。  それでも、状況に慣れてきたのか冷静になったのか、彼の頼みにまぁいいかと軽く頷いてしまった。……が、よく考えたら名前も知らない男相手に軽率すぎたかもしれない。 「あのさ、変なお願いはナシでよろしく」 「大丈夫です、部屋に閉じ込めて独り占めしたいとか思っても言いませんから」 「言ってるじゃん……」 「ち、違います……そうじゃなくて……一度だけ、名前を……呼んで欲しいのです」 「……名前?」 「俺、小林那央也(こばやしなおや)って言います」 「あ……はい」 「那央也って、三文字でこう書きます」  滑らかに凄いことを口にした後、徐に上着のポケットから何かを取り出すと、それを渡される。  受け取った一枚の名刺には、氏名と電話番号、勤務先と思われる会社名も一緒に記されていた。 「珍しい名前だね」 「ありがとうございます! 年は二十四歳で、趣味はスイーツ巡り。好きな花はガーベラ、甘いものが大好きですけど、それ以上に好きな人は……あなたです」  別に褒めたわけでもないのに、俺の一言にテンションが上がったのか、嬉しそうに自己紹介をして、最後にとんでもない情報までぶっ込んできた。 (それ以上に好きな人はあなたですって……なんだよ) 「いや、自己紹介はいいから……って、そういうの大事だけど、今じゃないって言うか、タイミングが……」 「ですよね……すいません……」 「で、名前を呼べばいいんだよね」 「はい! 思い出に下の名前を一度でいいので呼んで欲しいです!」 「それだけでいいの?」 「はい……十分です」 「分かった。なお……」  衝撃的過ぎた告白に比べたら容易い要望にホッとして、彼の名前を口にした瞬間、急に大声を出された。 「あー!  ちょっと待ってください!」 「え、何……どうしたの」 「ちょっと深呼吸します、心の準備が!」  見れば深呼吸を繰り返し、気合いを入れるかのように独り言を呟くと、目を閉じる。それから数秒後、彼は再び口を開いた。 「準備出来ました、どうぞ!」  そして、覚悟を決めたであろう彼に向かい、ごく普通に名前を呼んだ。 「那央也……」  呼び終わった後も一向に目を閉じたままで、全く彼は動かない。 「あの……大丈夫?  目、開けたら?」  とりあえず何度か声を掛ける。すると、やっと目を開け、礼を言われた。 「あ、ありがとう……ございます」 「どういたしまして」 「嬉しい……です。夢が叶った……」  そして、噛み締めるように夢が叶ったと涙目で言うと、とても幸せそうに笑った。 「これで明日から悔いなく転勤できます、ありがとうございます! では、失礼します!」  それから深々とお辞儀をして礼儀正しい挨拶を終えると、踵を返して俺の前から去って行こうとする。  そんな潔い彼の行動に、何故かわからないけど咄嗟に呼び止めていた。 「ちょ、ちょっと!」  彼には、今日初めて会った。  なのに……気付いたら俺は、彼の腕を掴んでいた。 「あ、あの……」  予期せぬ出来事に、固まったままの彼。  そりゃそうだ。ここで引き止める理由が俺にはない。  理由はないはずなのに…… 「お、俺の名前は、羽瀬川修一(はせがわしゅういち)って言うんだ」  俺は、その腕を離せなかった。  ***

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