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5 可愛い弟②

 拗ねたような翳りの或る顔つきは思春期に柚希がΩ判定された直後に距離を置かれた時の雰囲気によく似ていて、胸がきゅっと苦しくなった。  柚希はあの頃自分のことで精一杯で、まだ高校生だった弟の心のケアまで至れなかったと後悔が残っている。  柚希が家を出ていくと決めた時、和哉は血相を変えて止めに来たが、その後は大学に入るまで甘えただった弟にどこか一線を引かれたような余所余所しさが残ったままだった。和哉が成人してからやっと今のような関係を取り戻せたといっていいだろう。  またあの頃の孤独感を思い出して距離を測りかね柚希は気だるげな身体に意識も飲まれるように表情を曇らせると和哉から視線を反らす。そしてよく茂って公園から張り出している金木犀を眺めるふりをした。 (彼女のこととか、わざわざ兄貴には聞かれたくないか。俺に教える気がないのはちょっと寂しいな。お前にそういう顔されるのが一番哀しい)  和哉ももう成人しているし、これほどのイケメン、女性も、もしかしたら男性も放っておくはずないと分かっているが、小さな頃はずっと柚希のべったりだった弟と再び昔みたいに仲良くなれたのにと、兄離れには一抹の寂しさが伴うものだ。  機嫌が直らぬ顔のまま車を発進させた和哉に流石に気まずくなって柚希は話題を変えてみた。 「このひざ掛けの柄さ……。みんなでキャンプ行くとき持ってってた赤い水筒と柄が似てるな。俺、あれ好きだったな」  するとちらりと盗み見た和哉の横顔の頬がふっと緩んだので柚希もほっとした。 「彼女なんていないよ。……兄さんがこの色好きだと思って選んだんだ」 そう言ってミラー越しに目を細め、人懐っこい甘い笑顔で応じてきた。 「……なんだ。彼女いないのか」 「ほっとした?」 「……」    柚希が曖昧に微笑んで答えないでいると、和哉は再び棒付きキャンディーをコンビニの袋から取り出して多少手荒な手つきで包み紙を剥いて、人工的なストロベリーの香りの漂うそれを口に放り込んでから小ぶりのビニール袋を手渡してきた。 「兄さん、何か少し食べたら? 本発情入ったら食事とるの忘れることもあるんだろ?」  もう昼を過ぎていたが確かに昨晩から何も口にしていなかった。  意識したら単純な柚希の腹が途端にくーっとなり、腹に手を当てると空腹と渇きを感じる。 「コンビニのだけど、コーヒーとホイップたっぷりのやつ、買っといた」  がさがさと袋をあさると、缶コーヒーの他にシュークリーム、ロールケーキにプリンと並んでチョコレートがかかったドッグパンのような形状のパンに生クリームがこれでもかと絞られた柚希の好物が出てきた。  甘いものが沢山なのは今日これからホテルでも食べられるようにと思ったのだろうか。甘いものは仕事に製菓を選ぶほどに大好きだ。仕事の休みの日には近郊のスィーツ店を自転車で回って食べ歩くのを趣味としている。  バスケ部時代甘味好きを散々チームメイトに揶揄われたが、女子のバスケチームが隣のコートを使っていたので見栄を張っていただけで、実はみんな蔭ではこそこそ甘いものを食べていたのを知っている。  逆に甘いものを美味しそうに頬張る柚希の顔が可愛いと女の子たちからちやほやとされて、差し入れが増えたことで、部内男子も皆挙って甘いもの大好きアピールをはじめた。  皆平和でみなあっけらかんと明るくて可愛らしい時代だった。思い出すと今は少し切ない。 「好きなものばっかだ。ありがと」 「当然。僕が兄さんの好きなもの、知らないわけないでしょ?」  そんな風に言った横顔はもうご機嫌が直ったようで頬骨が少し上がって美しい笑顔を見せている。  そののちまた口の中からがりがりばりばりと飴に噛みつく空恐ろしい音がしてきた。  柚希の方もパンをあっという間に二口、三口と食べたところで、父よりずっと丁寧な運転をしてくれる和哉の様子が気になった。 (こいつ、こんなに飴が好きだったっけ? あ、そうか学校から直接ここきてくれて、今この時間じゃ、昼飯食べてないかもな。腹減ってるけどずっと運転中だから飴食べてんのか) 「和哉、腹減ってるだろ? お前も食べる?」 「うん。あーん」  丁度信号で止まったから、生クリームパンを口元まで差し出すと、和哉は飴の棒を取り出して、代わりに子どもの頃のように大きく口を開けた。  無邪気にも見えるその仕草に柚希が蕩けるように甘く微笑んだので、それを見て和哉もまた照れもせず穏やかに微笑み返してきた。  やはり腹が減っていたのか和哉も大口でパンを齧り取ってきた。柔らかな唇が指に当たるがもう一口、さらに一口と食べ進める。ふいに中指と薬指にかりっと歯を当てられ甘噛みをされた。  驚いて僅かに目を見張りながら和哉を見つめると、うっそりと瞳を細めて悪戯っ子っぽく微笑む顔つきの中に精悍な男の色気も感じて、不覚にもドキッとしてしまった。  追い打ちをかけるように唇と柔らかな熱い舌が指についた生クリームごと舐めとっていった。 「あっ……」  思わず口を押えたが遅かったようだ。発情期に差し掛かり身体中が敏感になっているせいなのか、思わず切なげな吐息を漏らしてしまう。  ぞくぞくぞくぞくっと背筋から尾てい骨の辺りまで甘い疼きが駆け抜ける。  柚希は涙目で柚希を睨むと柚希は一瞬瞳を見開いた後、こちらを揶揄うような艶やかにすら見える笑みを残してから、正面を向きなおして車を再発進させた。  艶めかしい雰囲気を払しょくする様に、ごしごしとシャツで指を拭いた柚希は慌てて窓を開けると車窓から平日の街中を眺めて顔の火照を隠そうとした。    一瞬また金木犀の香りが漂った気がしたが吹き込んだ風に流される。 「噛みつくなよ。お前! 子供の頃の癖、直ってないな」 「なにが?」 「とぼけんなよ。……ちっちゃい頃、よく俺に噛みついてただろ、べろべろ舐めたり噛んだりさ」 「そうだっけ?」 「嘘だと思うならみてみろよ。ここ! まだ痕残ってるんだからな」  首筋に残るちっちゃな噛み痕は再婚直後ぐらいの頃にふざけてワンちゃんごっこをしている時に和哉が柚希につけた痕の一つだ。  首の他には鎖骨の上、二の腕にも薄っすらとだが痕がある。  むきになってシャツを寛げ、母親似の真っ白な肌を晒した柚希に、運転中の和哉はミラー越しに意味深な笑みを目元に刻む。 「ああ、あれか。ワンちゃんごっこ」 『僕ワンちゃんだから、柚にいは飼い主なの。僕のことをいつも一番に可愛いがってくれて、いい子いい子ってしてよ』  幼い和哉はそんな風に当時は美少女と呼んでも差しさわりがない程可愛らしい顔で命令しながら、柚希の掌に小さな手を絡めて頭の上に載せさせて撫ぜるのを強請ってきた。  そんな仕草が愛おしくて堪らなくて頭をぐりぐりとしていたら徐々に要求がエスカレートしてきて、元気に跳び付いたり、おぶさったり、噛みついたり、顔やら頸やらを舐めてきたり。  兄弟ってこんなものなのかな? と当時中一の柚希も互いの距離感を掴めずにいたが、今まできっと寂しくてたまらなかったのだろうと、和哉可愛さにされるがままになっていた。  兄弟がいないため悪ふざけも兄弟げんかも手探りだった二人がたまに行き過ぎてしまって、こんなふうになってしまっていたと父と母は解釈し、流石に痕が残るほど噛みつくのはやりすぎだと和哉が怒られていたし、柚希も甘やかしすぎてはいけないとついでに怒られた。 「和哉、あのさ……」  話の矛先を変えようと思ったのか、ハンドルを握る和哉が急に真顔になった。 「母さん心配してたよ。ちゃんとご飯食べてるのか、あの子ちゃんと生活してるのかって。この一か月あんまり連絡しなかっただろ?」  自分の方から先に尋ねるべき話題を先回りされ、柚希はきまり悪げに視線を自分の指先に落とすと落ち着かない様子でもぞもぞと動かした。 「忙しかったんだよ。色々と。別に、俺が家事全般母さん仕込まれてることみんな知ってるだろ? ま、給料は高くはないけどさ、仕事は楽しいし、贅沢しなけりゃ生きられるし……。母さんたちこそ元気?」 「生活ってさ、家事とかそういうことだけじゃないってわかってるだろ? ……二人とも元気だよ。たまには顔を見せて欲しいって。母さんも、父さんも寂しがってる」 「……今度は絶対に帰るから」 「今度っていつ?」  和哉の意外と強い口調に影響されたのか、柚希はまた揺り動かされるようにもどってきた気だるさから掠れた声を上げた。 「俺に番ができたら、かな……」 「番持ちになったら? 無理して今すぐ番なんて作らなくてもいいじゃない? もう、……帰ってきなよ」 「……こんなはずじゃなかったんだ。ちゃんとお前が誇れるような兄ちゃんのままでいたかったんだ。Ωじゃなかったらもっとみんなと一緒に暮らせたのにって。いつも思ってる。それに番が出来れば気兼ねなく家に帰れるだろ?」  柚希はそこは鏡越しに和哉を見据えながらきっぱりと言い切ったが、和哉は苦虫を嚙み潰したよう顔になった。 「それで番を作ろうと思ったの? ……そんなことだろうと思った」  呆れたというよりも忌々し気な声に傷つきながら柚希は両手で顔を覆ってくぐもった声を上げる。 「お前、あれから父さんと……。仲良くやれているか?」 「普通だよ。普通。男親とべたべたなんてしないだろ、この歳で」 「そうだけどさ。お前たちが仲良くしてくれないと……」 「兄さんが困る? そう思うなら帰ってきてよ。あの時とは違う。僕だって成人した。さっきみたいにさ? もう兄さんを支えられる。大丈夫だから一緒にまた暮らそうよ? 」 「帰れるはずないだろ……。俺のせいで父さんとお前は……」  久しぶりに自ら触れてしまった話題に傷ついて、熱っぽさで赤くなっていた唇をぎゅっと白くなるほど噛みしめた柚希を慰めるように、片手を伸ばして和哉が指を組んでがちがちに固まった柚希の手を上から包むようにして掴んだ。 (大きな手……。もう父さんの手と変わらないくらい大きいや)  番持ちΩであった母は、夫を亡くした後、発情期には想像を絶する苦しみを経ていた。今柚希が感じているようなしんどさなど比ではないだろう。  いくら相手を求めても得られることのない永遠の渇望感に苛まれてもだえ苦しんでいた。そんな時、身を挺して母を助けてくれたのが和哉の父だった。  和哉の父の|敦哉《あつや》は男らしくて真っすぐで、学生結婚をしたΩの妻を心から愛していたのに不慮の事故でなくしてしまっていた。  生涯番を作るつもりはないと心に決めていたようだけれど、柚希の母が苦しむ姿を見て居られずに手助けをしてくれていたらしい。  二人は尊敬しあえる友人のような関係から一歩進むことを選んで夫婦になった。αである父はまだ若いし新しい番を作ることができるが、初めての妻に報いて新しい妻にも操立てをした。  そういう一本気ないい男で柚希も尊敬してやまない。敦哉のような男になりたいと憧れていたほどだ。  子育ても柚希の母と互いに支え教え合いながら少しずつ上手になってきて、愛らしい顔にいつもどこか翳りがあった和哉も、いかにも無邪気な表情を見せることが増えてきた。  これからもずっとずっと四人で新たな家庭を築いて、仲良く暮らしていけるとそう信じていたのだ。  

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