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6 可愛い弟③

あれは柚希が専門学校の二年生、20歳になりたての頃。  どうしようもなく身体が怠くて熱っぽく、四人で暮らすと決めた時に敦哉が買った中古の戸建の二階にある自室で横になっていた。  非常に身体が丈夫な柚希が寝込むこと自体が珍しく、たまたま父の敦哉が早く帰宅をしてきて必要ならば病院に付き添おうと様子を見に来てくれた。  保険の外交の仕事をしている母は一度帰宅後、顧客に喫茶店に呼び出されていたため帰宅が遅れると、事前に父に連絡を取ってくれていたからだ。  それがΩの発情だといったい誰が気が付けたのだろうか。  二十歳過ぎての遅発情になる者は少なく、大抵はバース検査を行うのと同じく17歳程度で何かしらの発現がある。  Ωは男女ともに華奢でほっそりとしたものが多いらしいが、その点柚希は見た目は線は些か細いが、すらっと背丈もある体型でバスケ部出身。彼女もちで、しなやかな肉体を持つ凛々しい青年だった。  今までβとして生活してきたし、Ωとしての兆候を感じたことは柚希自身なかったのだ。  父は柚希の好物のケーキを沢山お土産にして部屋を訪れた。  甘いものが好きな和哉のことだから、美味しいものでも食べればすぐに元気を取り戻すだろうと、小さな我が子にするような愛情をこめて。 「柚希! 大丈夫かい?」  穏やかな声で名前を呼ばれて心の底から慕っている父が部屋に入ってきた時も、柚希は熱っぽい身体を推して大丈夫だからと笑いかけたかもしれない。    そこからの記憶はあいまいだ。  抑制剤を未使用の柚希から漏れた濃いΩフェロモンに充てられ、父が見たこともないような怖ろしい形相をして柚希にのしかかってきたのだ。  普通に生活をしていて抑制剤未使用の番を持たぬΩに出会う可能性はそう多くない。  そのため父は日頃からパートナーのいるαの服用する程度の低用量の抑制剤しか使用していなかったのだ。  父に飛び掛かられ、パジャマ代わりのTシャツやジャージを引き裂かれる勢いで無理やり脱がされた。  混濁した記憶を辿ると気がついたら部活から帰ってきた弟が大好きな父親に泣きじゃくりながら殴り掛かって、馬乗りになっていた。  二人の傍に落ちていたぐしゃぐしゃにつぶれたケーキの箱のことだけ妙に頭の隅に残っていた。  全てが悪夢のとしか言えず、委細を無理に思い出そうとすると震えが止まらなくなる。  せっかく繋がった家族の絆はあのとき柚希のせいで断ち切られ、何とか形作られた新たな家族はまるで砂でできたお城のように、再びばらばらに崩れさったのだ。  久々に思い出した悪しき記憶に柚希が煩悶しぶるぶると握りしめた掌を震わせたから、和哉は自分自身の強い意志を伝えようと掌の中の兄の拳を握る。 「あれは兄さんのせいじゃない。純粋な事故だ」 「いや、俺のせいだろ……。母さんがいるのに、Ωの身体が父さんを誘惑した。勝手に……、この身体がさ! 万が一のことを考えたら‪α‬の父さんとは同じ屋根の下で今まで通りに暮らせない……。そんなの、当たり前だろ?」  手を引っ込めようとしたが、和哉は強い力でそれを許さず逆に引き戻してきた。まるで無理やりにでも家族に戻ってこさせようとするかのような仕草に柚希は涙が零れそうになる。 (和哉は俺たち家族の希望、……俺の全てだ。和哉にまで負担をかけて送迎までさせて……。やっぱり発情期のたびにこんなこと繰り返していいはずがない)  そして晶との関係も中途半端なままなのも心に影を差す。   (番になりたい相手っていうのはもっと……。この人になら自分の全てを作り替えられても構わない、そうされたいって願うような強い恋愛感情がないと駄目なんじゃないか。学生時代の友情と変わらないような……。そんな程度の愛情で晶の番になったとして、いつか晶が他にもっと、どうしても番にしたいっていう相手ができた時、俺は邪魔になってしまうんじゃないのか?)  だがそう考えること自体がすでに裏切り行為で、こんな全てにおいて中途半端などっちつかずの心でいる柚希を愛してくれる、晶のその思いに報いるべきではないのか? 例え晶に他にも番ができたとしたって、二人の間にきっと友情は残るだろうから。 (そんなの詭弁だ。Ωとαの間にそんな生易しい関係。残るはずない) 燃え盛る溶鉱炉に叩きとされたように身を焦がし、ただαの精を強請ることだけに頭の中が占められていて、悶え苦しむ母の姿。 そしてあの日の自分の姿.......。  水面に浮かぶ木の葉よりもくるくると柚希の心は揺れ動き、寄る辺を失っていた。  ふと、車内でスマホの放つ振動音が聞こえてきた。晶はまだ仕事中のはずなのにまたスマホが律動している音がして、少し怖い顔をした和哉と目が合う。 「スマホ……」  スマホが入っているはずの鞄を探したが見当たらない。  和哉が荷物全てを後部座席に置いていたので動いたら気分が悪くなりそうだったので無理に探すのをやめておいた。 「.......なあ、和哉。夜になったらシェルターから晶に連絡して、やっぱり番になろうって頼んだ方がいいのかもな? ……うん。それがいいって思えてきた。お前とこんなふうに密室で二人っきりなのもさ、本当はあんまりよくないだろ? 幾らβで抑制剤飲んでても、Ωのフェロモン効かないわけじゃないし。お前だってこんな危なっかしいやつが、兄貴なんてやだろ?? 番ができたらちょっとは普通の兄貴に戻れるし……。そしたらたまに発情期があるだけで後のもう殆どただのβの男と変わらないはずだ。お前だってこの先就職もするし、好きな人もできるだろ? 今みたいにお前に時間を取らせるのもさ」  すると順調に運転中だったのにかっと目じりを赤く染めた和哉が顔色を変え、急に路肩に車を押し付けるように急停止させた。  驚いて顔を強張らせた柚希に和哉が切なげな顔をして向き直る。 「ねえ、兄さん。僕が好きで兄さんの世話を焼くのがそんなに迷惑? 僕が兄さんが好きだからこうして少しでも長く一緒にいたいからじゃ駄目なの?」 「俺だってお前のことが大好きだ。……だから世話は掛けたくない。分かるだろ?」 「わからないよ」  しかしその言葉の何が気に障ったのか和哉は痛いぐらいに今度は大きな掌で柚希の現役時代よりは幾分細くなった二の腕を掴み上げて軽く揺さぶった。  流石に気分が悪くてぐたっとすると、はっとしたような顔をしてシートに頬を埋めた柚希の顔を両手で掴んで、長い指の腹と掌で慰めるようにすりりっと撫ぜ上げる。  この仕草には覚えがあった。真冬の公園で飽かず二人でボールをついて遊んでいた時、あまりにも寒くて和哉のほっぺが真っ赤っかになってしまった時。 柚希が両手で温めてよく摺り上げてやっていた。  それ以降も容姿のことで揶揄われたとか、誰それと喧嘩したとか和哉が落ち込んでいる時に二人の間で、慰める時の定番のような仕草になっていた。  今は和哉が柚希に優しく頬を撫ぜている。  しかし強い眼差しで兄を覗き混み、口にした言葉は厳しいものだった。 「そんな理由で家族を避けて、番が欲しいからって理由だけで、晶先輩と付き合ってるなら、先輩に対しても不誠実だよね? 僕はそんなのとても看過できない」  やはり和哉には番を欲しがる理由を見透かされていたようだ。自分の浅慮を恥じてかっと頬を赤らめると柚希は瞳を反らした。 「……晶のことは、ちゃんとする。ちゃんと、好きだと思う。だけど……」  いうか言わないか逡巡を繰り返し、瞳を泳がせた柚希は一度ぎゅっと瞑目すると大きく息をついた。 「発情期が近くなると、どうしても晶に触れられると怖くて堪らなくなる。自分じゃどうしてもこの感情を抑えられないんだ。あいつのこと好きなのに、どうしてか分からないんだ……。どうしてそんな風になっちまうのかも、謎。自分のことなのに、謎すぎ。俺はさ、ずっと自分のことが何一つ分からないまま、この三年、ずっと……。自分で自分をどうしたらいいのか、まるで分からないんだ」  今までで誰にも言えず、心に秘めていた思いを、ついに弟に吐露して、柚希はまた顔を覆って項垂れた。  この三年、Ωになってからは苦しくて怖くて、たまらなかった。  βの頃の自分はひたすら燦燦と明るい陽の光の下、ただ毎日仲間と馬鹿をやったり、髪型がどうとか、勉強が意外と難しいとか、バイト先の人間関係とか、そんな普通のことで悩んでいたのに。  今までの自分を認めてくれていた居場所すら失い、Ωとしての新たな生を得た、普通の男の頭を持った孕む身体を持つ、まるで『クリーチャー』のような自分自身を持て余した。 普段通りいつも通り、前と同じようにしようとすればするほど今の自分とのギャップに悩んだのだ。  和哉は互いのシートベルトを外してブランケットごと、兄の身体を包み込むように抱きしめた。じわじわと染みこむ温かさ。路肩の脇の金木犀の芳香がまたふわふわと優しく柚希を包み込んでくれる。ほうっと安堵の吐息をつくと、父によく似ているがやはり少し違うちょっと甘く熱に浮かされたような掠れた声で和哉が柚希の耳に付きそうな近さに唇を寄せて囁いた。 「……無理しないで。兄さん。苦しい思いをしてまで、すぐに番を作らなくたっていいんだよ? シェルターに入って、落ち着いたらまた考えればいいでしょ? 先輩には俺から連絡してあげるから。兄さんはゆっくり休むんだ」 蕩けるように甘く、耳をじんっと擽る言葉に柚希が無意識に色気滴る吐息を「はぁ」と漏らすと、和哉は柚希に見えぬ角度で唇を吊り上げ微笑んだ。

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