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7 エンカウント①

そのまま二人は黙り込んで、少し重苦しい雰囲気を引きずったまま車で1時間も走らずホテルの駐車場まで辿り着いた。  前回泊まったのと同じところがいいと思って、今回は柚希が同じホテルを予約していたのだ。  『シェルターホテル』というのは通称で実際は通常のホテルの業務形態の一つだ。  今回予約した部屋もそれなりに名の知れたホテルの一室だから一人暮らしの木造アパートでヒートを迎えるより余程安全だ。 ホテルは4階部分がそれ専用のフロアになっている。設備も普通のホテルと大して変わらない。ルームキーを持つものしかその階に立ち入ることができないことを上手く利用したセキュリティ、看護師がホテルの医務室に常駐していて食事の差し入れや汚れ物の回収なども全て女性かΩ性を持つスタッフが行ってくれるという、安心安全をうたっている。もちろん緊急時には直ぐに近隣病院の診察も受けられる。  発情期に入りそうだというのは基礎体温をいれる周期計算アプリや、月に一度は抑制剤の処方の関係などかかりつけ医に出向いた時に診察して貰って等、総合的に判断して大体このあたりだなという予測をつける。  それに合わせて抑制剤の量も調節するが、本発情ともなると薬はそれなりに効いても周囲に影響を与えるほどのフェロモンの放出があり仕事は休まねばならなくなる。  柚希の場合オメガ判定をつけられたのが成人してからと遅めで、β男性として何の制約もなく生きてきた意識が強すぎて、今でも自分がΩ性であることを中々受け入れられない、面倒くさく思う部分があるのは否めない。その上発情期の周期はまだ定まっていなくて通常四半期に1度と言われているより間が空くことがあったのは有難かった。  しかしある程度予測をつけて調整しながら仕事をすればぎりぎりまで休まず粘れる。そのため、アプリ自体はとても重宝している。  『誘惑する性』とまで言われるΩのフェロモンに引きずられて誰構わず誘うような真似だけはしたくないと人一倍気を使っていたのだ。  街中でヒートを起こしてしまったオメガ用の緊急避難型の専用施設もあるにはあるが数は少ない。家族がいる場合は抑制剤を飲んで部屋に引きこもり、食事の世話などをしてもらえるが一人暮らしの若いオメガはそれも出来ないために、たった一人で家にこもりヒートを乗りきらねばならなくなる。 柚希も実家住まいの頃は一度慣れぬヒート中、恥を忍んで母にあれこれと世話をしてもらったが、一人暮らしになってからも数回経験している。これが思いのほか辛い作業だ。 抑制剤を服用してもピーク時には意識が飛ぶほどの酷い飢えに苛まれて、恥ずかしい話、アノことしか考えられなくなる。  母が心配してアパートまできてくれたが、成人している男の自分がどうしてもみっともない姿を母に晒すことが嫌で、扉越しに対応して食べ物だけ置いて行ってもらったことがあった。  最中にはどうしても気持ちが荒みがちで、さらに思いもいしないことも口走ってしまうのでどうしても家族を傍に寄らせたくはなかった。 前々回のヒートの時に記憶はあいまいだが、もしかしたら心配して訪ねてきた和哉を付き合いたての晶と間違えて扉越しに誘うような変なことを言ってしまったかもしれない。  後から自己嫌悪に陥るようなことばかりしてしまうので、シェルターホテルの存在は非常にありがたかった。 「ついたよ。いこう」  荷物は全てまた和哉が持ってくれて、その上しっかり指を絡めるようにして、手まで繋がれて、これではどちらが年上だか分かったものではない。  恥ずかしくて手を引こうとしたが、和哉は穏やかな諭すような笑顔を浮かべて車の中の時のように強引に掴まれてしまった。  いつから和哉はこんなふうにさりげなく男っぽい仕草の出来る大人の男性になったのだろう。  一人暮らしをすると和哉に告げた頃はまだ高校生だったから、ともすれば男性アイドルみたいなきらきらとあどけない部分が残っていた。 どうしても一人暮らしをするなら僕もついて行くといって背丈が僅かに上回った兄の身体に抱きついて涙を零さんばかりだった。  しかし今見上げた精悍な顔立ちは、やはりであったころの父の面影が濃くなってきていて頼もしさすら感じる。とてもワンちゃんごっこをしてけらけら笑いながら組み付いてきた男の子とは、ちょっと想像もできないほどだ。 「……そんな風に見つめられるとちょっと照れるんだけど?」  揶揄されて瞳を細めてくる仕草は父よりずっと妖艶な感じだ。昔からたまにこいつ色気があるよなあという顔を和哉はする。 「人からじろじろ見られ慣れてるだろ。お前、知らぬ間に勝手にこんなかっこよくに育っちまってさ。なんか雑誌に出てるみたいな、お洒落な服着てるし」  くだらない話をしている方が気が紛れて、ともすれば脱力しながら快楽に身を任せたくなる心を落ち着けられる。それをわかっているのか和哉も明るい調子で合わせてくれた。 「別にお洒落な服じゃないよ。学校行ってるのと同じ。このブランド気に入ったなら、今度兄さんも一緒に服買いに行こうよ? 僕に選ばせて?」 「俺の手足の長さじゃそんな服むりむり。しかもこんなよれよれスウェットとクシャクシャのシャツで都心のホテルまで連れてこられて……、恥ずかしいったらないだろ」 「だってドアツードアで、これからどこにもいかないから大丈夫でしょ? ずっと部屋に籠ってて、帰りだって僕が迎えに来るから安心して?」  大分頭がぼうっとしていたから、部屋着にスリッパのまま車にそのまま乗りこんできた弊害が今になってでてきてしまった。 「それに兄さんはいつでも綺麗だから安心して」  前から歩いてきた人にぶつかりそうになった柚希を、和哉が手を引きまるで恋人のように自然な仕草で抱き寄せたから、図らずもドキッとしてしまったのはたぶん一肌恋しい発情期のなせる業だろう。 「綺麗って、お前……」 「兄さんはさ、初めて会った時からずっと、そこだけ空気が違うって感じなんだ。浄化される感じ」 「はあ? 何言っちゃってんだか」  すーっと自動ドアが開き、自然に繋いだままだった手を柚希の方から離した。和哉は拒むように指先を最後まで絡めたが、柚希はちょっと恥ずかしそうに頭をかく。 「俺ちょっとトイレいってくる」 「一人で大丈夫? チェックインしてるからすぐこっちに戻って」  一緒について行くとでも言い出しそうな顔をした和哉にこくりと頷き、目線で大丈夫だからと微笑むと、和哉は素直にフロントに向かった。 和哉と離れ、ややおぼつかない足取りで廊下を歩く。 (発情期終わってまだ元気あったらあのカフェのパンケーキまだ食べたい。ルームサービスで、取り寄せられるかな? んな余裕あるわけないか.......) ぼんやりそんなことばかり考えながら、ホテル内のカフェの奥に見えたトイレの案内番を視界を上げて追いながら歩いていたら、ふいに誰かが柚希の腕を逃がすまいとばかりにがっしりと掴んだのだ。 「柚希!」 「しょう?!」  いつもは隙の無いスーツ姿の晶がネクタイを緩めジャケットの前をだらしなく開けて着崩した姿で、日頃撫ぜ付けた前髪を少し気だるげに乱しながらそこに唐突に現れたのだ。 柚希はあまりのことに仰天し、やっと絞り出せた言葉は一つだけだった。 「晶……仕事は?」  すると日頃穏やかな彼が見せたことのない、焦れ怒りに苛まれた表情をしてはあっと大きなため息をつかれた。 「昨日の夜から連絡の取れない恋人のことが心配で仕事なんて手につかないに決まってるだろ。朝、職場に連絡したら出勤してないし……。午後から休みを何とかとったんだ」 「ごめん。俺……」 「今度発情期を迎える時には俺に相談してくれるっていったよな? どうして無視したりするんだ」  トイレ前の細い通路の奥に連れ込まれ、すごい剣幕で壁に背を押し付けられて柚希は日頃穏やかな恋人の激しい怒りに触れて震えあがった。  比喩ではなく、α男性が少しでも乱暴な動きをするとΩ性を持つ者は言い知れぬ恐怖に苛まれてしまうのだ。 「とりあえず……。場所を移動しよう」  そう腕を取られて促されたが、柚希は蛇に睨まれた蛙のように竦みきって身体をがくがくと震わせて身動きが取れなくなってしまった。いくら相手が日頃から信頼を寄せいている相手であってもそれは同じこと。     抑制剤を服用していなかった、Ωの判定を受けていなかったときの柚希のフェロモンにあてられて、父が前後不覚の混乱状態に陥って襲い掛かってきたあの場面。 日頃思い起こすことは少なくなったが、心も不安定になった今の時期はまた別だ。 「ああ……」  それがふいに脳裏にフラッシュバックして柚希は膝からがくんっと力が抜けて崩れ落ちた。 「柚希、大丈夫か?」  晶はとっさに柚希の手首を掴み上げて身体を上へと引っ張り上げながら細腰を抱く。 掴まれた部分がじわじわとどうしようもないほどの恐れと不快感に近い感情が込み上げてきて、柚希は苦しみからえずきながら口元に手を当てて荒い息を上げた。 「兄さん!」  和哉の声がした後は数秒もないほどの素早さでどんっと衝撃が走り、ふいうちを食らった晶は突き飛ばされ、同時に崩れた柚希は逞しい腕の中に救い出された。  顔色をなくした柚希は目の前の逞しく厚い胸板に縋りつき、ふわりと漂う柔らかく甘い香りをすうっと吸い込むと仄かの頬に赤みがさす。 「かず.......」 「心配しないで。僕が話をつけるから」  弟の腕の中、安寧の表情を浮かべた柚希の顔を認めると、晶は嫉妬を隠そうともせずに和哉を睨みつけた。 「カズ、お前がいくら幾ら柚希の弟だって、これは俺たちの問題だ。お前には関係ないことだろう?」 かつてとても可愛がってくれた先輩であり、チームメイトである晶に凄まれても、和哉は1歩も引かずむしろ鬼のような形相の晶に顔を寄せて凄みかえす。 「先輩こそ、兄さんが怯えているの見て分からないんですか? こんな状態で話をするべきことじゃないでしょ?」 和哉の勢いよりも、晶の気に触ったのは柚希が自分の方を見ようともせず、弟の胸に悩ましく白い手を這わせて、抱き抱えられるままになっている姿だった。 奥のトイレに向かう客は皆、突然の修羅場にこちらをチラチラと見ながら早足で端を駆け抜けていく。 (.......傍から見たら、まるで俺が間男か、悪者扱いか) 晶はバスケのゲーム中の不利な戦況を思い出し、冷静に立ち帰ろうと呼吸を整えるが、同時に昨晩柚希が気になって眠れずに、先程から疼きはじめた偏頭痛にこめかみを抑えた。 「……分かった。柚希は俺が家に連れて帰る。明日も休暇の申請を出してきた。これからの2人のことを、うちでゆっくり話をする」  それは当然の権利とばかり、晶はぐいっと自分の方にぐったりとした柚希の二の腕を握り、ほんの僅かにミュゲに似た香りの匂い立つ恋人の身体を取り返そうとした。  しかし、和哉はまるで意のままにはならず、負けじと柚希を間に挟んで果敢に先輩をぎらつく眼差しで見つめ返して、柚希の背中から両腕を胸の前にまで回し抱き込んで取られまいと、応戦した。 「兄さんは今回の発情期で先輩と番になることを望んでない。ここには自分の意志できたんだ。だから無理強いは止めてください」 「……まだ俺とその事について話をしたわけじゃない。なのにどうしてお前にそんなことを言われなといけないんだ?」 「.......」  一歩も引かぬ二人の怒気にあてられて、薄ら目を開け和哉の顔を仰ぎ見た柚希は声もあげられずに目眩を起こすと立ちどころに足元から崩れ、今度こそ本当に気をやりかけたのだ。 「柚希! 大丈夫か?」 「兄さん! しっかりして。僕がついてるから!」 「お客様! 大丈夫ですか?!」 ちょうどその時、柚希の荷物を抱えた客室係が心配をして様子を伺いにやってきた。  そこは社会人になり、自然と人目を気にする癖がついた晶が僅かに気を反らしたのを和哉は見逃さず、ぐったりとした兄を抱き上げるとさも自分が正当な柚希の同行者であると主張するようなハッキリとよく通る声で客室係に声をかけた。 「すみません、兄の具合がちょっと悪くなったみたいなので、僕が部屋まで運びますから通してください」 「カズ!」  晶と和哉は同じ高校のバスケ部で在籍期間が重なった先輩後輩でもある。学生時代の年功序列というのは社会に出てからも通用するのが通説で、体育会系の先輩の威厳をみせつけるように晶が低く唸るような声で咎める。 もちろん今までの和哉ならばそれなりに先輩のことをたてただろうし、この、9ヶ月2人の交際について表立って強く反対してきたこともなかった。和哉が中学生の頃から知ってはいたし、兄弟は周りが驚く程に仲睦まじいので、大好きな兄を盗られたようできっといい顔はしないだろうとは思っていた。 しかし柚希を死んでも離さないとばかりにしっかりと胸に抱える和哉の逞しい腕を掴んで正面から身体で止めたが、止まるどころか和哉は真正面から晶をいっそ整いすぎて冷たく見える美貌で睨みつける。 そこには日頃明るく人懐っこい、チームのムードメーカーでもあった、可愛い後輩はもうそこにはなかった。 「離してください。先輩こそ、僕らの邪魔をしないで?」  生来琥珀色に近い薄い色の瞳を狼のそれのように睥睨し、背格好の似た逞しい男に対して一歩も引かない。  癖のない黒髪を乱し顔面蒼白になった兄を軽々と抱えて、彼を迎えに来た恋人に相手をい殺さんばかりの物騒で、しかし静かな闘志を漲らせている。 そんな和哉はまるでしなやかに強い野性の獣の様だ。  今まで試合の最中も実生活でも人に呑まれるような経験をしたことのない晶だが、一瞬身を引きかけて足の指をぎゅっと握るようにして思いとどまり、ごくりと生唾を飲み込んだ。 「……じゃあ、いきますね」  端的にそれだけ言葉を残すと、和哉は愛しげにぐったりと顔を和也の胸によせ目を瞑る柚希におよそ弟とは思えぬほど危うげに甘く響く声で囁く。 「兄さん、すぐ部屋で休めるから、もう少しだけ辛抱してね?」 そして晶に向かって不敵な微笑みを浮かべたまま、狼狽える客室係を後ろに従え、一瞬身動きが取れなかった晶をその場に置き去りにして立ち去っていった。

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