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8 エンカウント②

 恋人になる前から、|晶《しょう》は柚希のことが好きだった。もっと言えば柚希がβだったころから変わらずに、ずっとだ。  人懐っこく底抜けに明るい柚希はいつでも高校のバスケ部の中心的存在で、男女どちらもに人気のある花形の選手だった。  15番を背中に貼り付けてつけて元気いっぱいにコート全体を走り回るプレーや、出番がない時でも率先して仲間に声援を惜しみなくおくる溌剌とした姿勢。  『晶! 行け! 行け!』と熱く凛と耳に響く柚希の掛け声はいつでも晶の心に真っすぐ届いてとても勇気づけられた。  周りを明るく照らしてくれる、お日様みたいな笑顔と思いやりに溢れた性格、 会話も豊富でその上茶目っ気のある性格だから、女の子からも可愛くてカッコいいとモテモテだった。 先輩には可愛がられ、後輩にはちょっと甘いと言われるほどに優しく面倒見が良かったから、みんなが柚希を慕っていたし、もしかしたらただの憧れにとどまらない者もいたかもしれない。晶もその1人だった。  幸いなことに晶は1人だけ先に先輩たちのチームに入っていたこともあって、特別に可愛がられていた自覚はあった。しかし柚希が誰にでも優しく親切にするのを見て居るのが段々妬ましくなってきて、それで自分の気持ちを実感することができたのだ。ああ、自分はユズ先輩に恋をしているのだなあと。  いつでも目で追いたくなる、光を反射する水の煌きにも似た、惹きつけられる澄んだ存在感。汗だくでプレイした後なのに、周りと違ってさらさらとした黒髪、室内競技だからといって外を走らないわけではないのに、きめの細かい白い肌は目に眩しい。  大きな瞳に長いまつ毛、柔らかそうな口元の美しい横顔に見蕩れては、目が合い気がつかれて、『なに? なんかついてる?? 』とか無邪気な顔でゴシゴシ顔を拭う柚希が可愛くてたまらなかった。  プレーが終わり飲み物をあおった白い首筋に水が垂れていく様子の艶めかしさ。汗を捲う時にちらりと見える細いが引き締まった腰の括れた稜線が目に焼き付いて、わすれられなかった。その夜はけして本人が口にしないような卑猥な台詞で色っぽく晶を誘ってくる柚希の夢を見てしまい、その後も度々卑怯な劣情に苛まれたこともあった。 青い青い時期。頭の中で柚希を何度も穢している罪悪感があり、清らかな柚希が変わらずに自分に親切にしてくれることが申し訳なくて、正面から見つめられず盗みることしか出来なくなっていた。  そんな高校1年の初夏。柚希に初めての彼女ができ、それが晶と同級生であるという事実には酷く打ちのめされたのだ。晶は自暴自棄になって自分も告白してきた子を断らずに即、彼女を作った。  夏休み入ると余計なことをする先輩ががいて、みんなで彼女を連れて水族館へ行こうなどという計画を立てた。ユズ先輩が彼女と楽し気にはしゃぐ姿を想像するだけで嫉妬で胸が痛んだが、だが一緒に出掛けられるチャンスをみすみす逃すのもイヤだったのだ。  柚希は先輩たちと最前列に陣取ってイルカが跳ね上げる水を浴びてしまって、早々に白いTシャツの胸元がスケスケになってしまった。  皆から寄ってたかって弄られていた柚希に、晶はすかさず自分はタンクトップ一枚になって自分のシャツを羽織らせた。 『お前の、デカい。ぶかぶかだな』なんて柚希にはにかんで呟かれる姿に、顔には出さずに心はドキドキと鼓動を高鳴ならせた。  先輩が自分のものになってくれたみたいで、あの一瞬はキラキラと輝いた記憶としてすごく印象に残っている。  それでも彼女もちのβ男性である柚希をα男性である自分の方に靡かせる勇気が当時の晶にはなかった。当たって砕けて嫌われるぐらいならこのままただの先輩後輩でいたい、でも諦めきれぬと距離を推し量っている間に柚希がバスケ部から足が遠のいていってそのうち連絡が一切取れなくなった。  だが、再会直前皆の噂で学生時代からずっと密かに思い続けていたユズ先輩がΩだと知った時。神は自分をそのためにα性として生まれ落してくれたのだと、どうしょうもないほど運命を感じ、区大会の決勝点を決めたスリーポイントシュートを成功した時より最高に興奮した。  そんな柚希に初めて告白した時は一度答えを保留にされた。 『お前は俺にはもったいないと思うし、俺、こないだまでずっとβの男だって自分では思って生きてきたから、性の自己認識? みたいなやつを変えるのはちょっと時間がかかるかもしれない。それでもいいの?』  もちろんそれでもよかった。これまでもこれからも誠実に一途に柚希だけを愛し続ける自信があったし、気持ちに応えてくれた柚希はやっぱり後輩の頼みを断れぬ、優しく蕩けるように甘い先輩のままだった。  柚希と恋人になって9か月。Ωになってまだ3年だから恋人同士っぽい感じが出せないのは大目に見てくれ、などと繰り返し晶に小さな牽制をされ、しかしこちらも負けじといつかは番になろうとこちらも懇願を繰り返す。ある意味中身は童女の様に純粋な柚希の歩調に合わせてゆっくりと愛を育んて来たはずだった。  あの夏、彼女とユズ先輩がお揃いで買っていたのが羨ましく妬ましくて、自分もこっそり買ったイルカのストラップ。未練がましくスマホにつけていたことを見とがめられて、『物持ちいいな?』なんて笑われて。それがきっかけでまたあの水族館にいった。  あの頃はこっそり忍んで見つめるしか無かった柚希のくっきりした二重の大きな瞳が、イルカやペンギン、コツメカワウソを見ては大喜びし、懐っこく半月型になる可愛い笑顔を独り占めできて晶は幸せだった。  まるで高校生の恋愛に戻ったかのように柚希と初めてのたどたどしい口づけを交わしたのは、その水族館を再び訪れた時、照明が落とされた室内展示室の天井まである見上げる程大きな水槽前でだった。 「昔、家族みんなで来たこともあったんだ。あの時は……楽しかったな」  そうぽつりと呟いて、夜のように暗い室内に青い海を閉じ込めたような静かな水槽前で、柚希はどこか寂し気な表情を浮かべたまま、大きな瞳で瞬きもせず尾びれをひらひらと揺らめかせてゆったりと泳ぐ魚たちを眺めていた。  その横顔がひどく遠くに感じて、晶は思わず柚希を抱き寄せ口づけてしまった。それは長年の想いを込めた、長い長い口づけで、その最中柚希は鼻で息ができなかったらしく、途中でぷはっとなってしまって、恥ずかしそうにはにかんで顔を片手で隠す慣れぬ姿に胸が熱くなった。 「俺さ……。彼女いたんだけど、なんだかんだで、その……」  女の子と付き合っていた時すら、柚希は結局キス一つするタイミングをつかめないまま、忙しくなって疎遠になったり、別にまた付き合うことができても長くて四か月も付き合えなかったらしい。なんとなくお友達でいましょうという雰囲気になってしまって、その後はオメガ判定をされてしまって別れたりと自分から能動的に告白したことは無かったというのだ。  無理もないと思う。柚希は晶が今まで出会ってきた誰よりも可愛らしいところがある愛おしい人だし、柚希と付き合った少女たちも、もしかして本能で彼の本質を嗅ぎ分けていたのかもしれない。 「ちゃんと付き合ったのはさ、多分お前が初めてなんだと思う」  そんなことを言われて滾らない男はいないと思う。その夜宿泊した海辺のホテルでそのまま身体を繋いでしまいたかったが、柚希が身体を震わせて怯えるのでぐっと我慢をした。 (大切にしよう。無理なことはしない。ずっと大事にしたい)  しかし付き合って初めての発情期を前に違和感を感じたのは気のせいではなかったようだ。普段は口づけも欲を伴った触れ合いも恥ずかしがりながらも応じてくれていた柚希なのに、発情期前になると途端に連絡もよこさなくなり、無理に会いに行ったときもどこか余所余所しい。  決定的だったのは発情期直前に訪れた柚希の部屋で怠そうにしていた彼を抱き寄せた時、その身体が小刻みに震え始めたことだった。自分でも抑えられぬその変化に掌を見つめながら柚希は茫然として、その後痛々しい顔をして無理に笑った。 「大丈夫だから。大丈夫……。怖くないよ?」  それは誰に向けて呟いた言葉なのか……。  初めての発情期はシェルターホテルに向かうため、颯爽と車で迎えに来た和哉とその母親に柚希を託して終わってしまった。  どうしてもその時のことが忘れられずにバスケ部の後輩でもある柚希の弟、和哉にそれとなく理由を聞いてみたのだ。 『……兄さんが話をしてないのなら僕から言うべきじゃないかもしれないけど。僕らの父親は兄さんとは血のつながりがない。父はαだから、無意識のうちに2人は引きあってΩ判定を受ける前の兄さんの発情期に咬傷事故を起こしそうになったんだ。だから多分発情期に対して恐怖心が拭えないんじゃないかと思うんだ』  柚希が話したがらない柚希の秘密を和哉から聞いてしまったことに罪悪感が生まれたが、複雑な家庭ながらもとても家族仲が良かったはずの柚希が実家から大して距離の離れていない安アパートで独り暮らしをしているわけがようやくわかった。今のアパートはΩが一人暮らしをするにはあまりにもセキュリティーが緩い物件だから、早く晶の住む賃貸マンションに越してきて欲しかったがまだ誘いに乗ってくるには至らず。  だが番になったらすぐに結婚しようと晶は心に決めていたから、柚希の希望に叶う、ともに住む新居を一緒に探そうと、そんな風にプロポーズも考え始めていた。 (柚希……。また俺は待てばいいのか? お前の変化を待って待って、お前に焦がれ続けていればいいいのか?)  立ち尽くしていた足が晶が自分で命じる前にぴくりと動き、意を決して再び身体を叱咤し、晶は柚希と和哉を追いかけた。 (それでもお前の傍にいたい。柚希。傍にいさせて欲しい。お前が震えるのならば収まるまでいくらでも待つ。この腕が怖ろしいなら縛り上げてもいい。だけどどうしても傍に……)  恋焦がれ追いかけた恋人の姿は、閉まっていくエレベーターの重厚な扉に阻まれ、消えていった。  閉じ際に和哉のこれまで一度たりとも見たことのない、燃えるような眼差しを認めた時、自分は何か大きな過ちを冒してしまったのではないかと晶は愕然とした。  それはどう見ても、仇敵か……。もしくは恋敵を打ち滅ぼそうと向ける昏い情念の宿る瞳に見えた。 (和哉……。お前まさか……)  非常に仲の良い距離感の近い兄弟だとは思っていたが、やはり和哉の柚希に対する態度と執着は度を超えていると背筋に冷たいいやな汗が流れるのを感じる。  しかし生来真っすぐな性格の晶はすぐさま、兄を大切に思う弟の気持ちを疑うのは良くないことと自分の悋気を恥じた。 (こんなはずじゃなかった……、柚希。ただお前の気持ちを大切にしたかっただけなのに)  しかし昇っていくエレベーターの止まった階の高さを確認した晶の顔は瞬時に憤怒にまみれ、フロントへ向かって踵を返した。

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