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9 金木犀 ①

「なあ、カズ」 「.......」   昇っていくエレベーターの浮遊感に身体の重みを強く感じて柚希は怠そうにしていたが、応えぬ和哉に焦れ、自分を抱えている和哉のシャツ前身ごろをグイっと掴み関心を向けさせる。 「やっぱり……。こんなの駄目だろ。晶と話をしたい。引き返そう?」  和哉はふうと煩わし気にため息をつくと柚希の頭をより自分の胸に押し付け抱え込むようにした。 「兄さん、さっき、震えてた。先輩のこと怖かったから逃げ回っているんだろ? とりあえず部屋に行って一度落ち着こう?」  いつも通りの優しい声色だが、和哉は引き返す気などさらさらないようだ。柚希は片方のスリッパがいつの間にか脱げ落ちてしまったようで、足先が妙にすーすーとした。  和哉に抱えられたまま酷い虚脱感に苛まれて、自分が重病人にでもなってしまったかのように不自由さを感じて目を瞑る。  目的の部屋についたらてっきり和哉は客室係と共に帰っていくのかと思っていたら違っていた。  客室係を見送ったのち、大きなベッドの上に丁重に下ろされて、もう片方のスリッパも抜き取られる。  酩酊している時に似たぼんやりとした意識で、違和感に気が付くことに遅れてしまったのだ。  先ほどのエレベーター。気のせいかと思ったけれど以前よりずっと上層階に登ってきた気がしたし、明らかに部屋の作りと大きさがシェルター専用に使われている部屋と違っている。  あちらは必要最低限のものがそろった小部屋という感じなのだけれど、この部屋は端的にいうとずっと立派だ。  気のせいでなければ旅先で恋人と寛ぐために使われるようなラグジュアリーな部屋。きっと夕刻には今日の澄んだ青空が夕焼け色に染まる様と、東京の街並みを申し分なく美しく見えることだろう。 「カズ……。ここってさ? いつもの部屋と、違うよな?」 「ああ、ここ。違うよ。兄さんの取ってた部屋、手違いで緊急にヒートになったい人が入って使えなくなっちゃったんだって。だからここは番用の部屋だよ。大丈夫。僕が世話焼けばいいでしょ? ……兄弟なんだし」 「……」 (そんなことってあり得るのか)  和哉は何か考え事をしているのかどこか上の空でことも無げにそういうと、荷物を備え付けのクローゼットの中にしまい込んでから、今度は鞄から柚希のスマホを取り出して中をチェックし始めている。 「……かぁず、スマホ返して、晶まだ近くにいるかもしれないから。話がしたい」  寝台の上で幼い頃から彼に呼びかけてきたように砕けた口調で懇願するが、日頃は兄の言うことをにこにこと聞いてくれるはずの和哉がまるで兄の声が聞こえていないかのように無視してスマホを触っている。  ロックしていたはずなのになぜ使えるのかと思ったが、柚希の格安スマホを一緒に機種変更しにいってくれたのも最初の設定をしてくれたのも和哉だったと思い当たる。 「あー。これか。兄さん先輩にもスマホ触らせてるでしょ? この前まで先輩追加されてなかったのに……。この地図アプリ入れると相手の居場所わかるんだよね。兄さんってさ機械に疎いし、色々無頓着だから気が付いてなかったでしょ?」 「カズ?」 「ま、僕も兄さんの居場所わかるんだけどさ。滞在時間もわかるよ。ああ、いまあそこに二人でいるのかなって、ちょっと妬けちゃうときもあったからね」 「……カズ、スマホ返せって」 「先輩のことが怖いのに、そんなに恋しいの?」  日頃は意識しているのかワントーン高い、まるでちょっとチャラめの動画配信主みたいな声でしゃべっている和哉が、耳をゆっくりと撫ぜていくような低く滑らかな声を出す。  するとその声が一瞬父のそれと重なって聞こえ、びくっと柚希は無意識に身体を震わせた。 「そろそろ薬の効果が薄まってきたんじゃない? 兄さん、いい香りしてきた。ほらあれみたい。女の子がよくつけてる、清楚なシャボン系。兄さんてさ、香りまで透明感半端ないね?」 「香り……?」  朝飲んだ抑制剤の効果は大体六時間。そろそろ薬の効果が薄れてきて、熱っぽさが増して身体がぐずぐずとなってきた。 (βにも……。Ωの人を誘引する香りってわかるんだよな……。番になる訳じゃないけど、流石に2人きりはまずくないか?)  くらくらと眩暈がする中でそんな風に思った。しかしこのままここで意識を手放しそうになっている場合ではない。何故か泣き笑いのような表情を浮かべている、和哉の顔つきが気になったのだ。  幼い頃、日が暮れてきたころ公園から和哉を誰もいない部屋に送っていこうとすると、嫌がって泣きべそをかく寸前のような何とも言えない顔をしていたこと。それを思い出していた。  しかしなぜ和哉は今こんな顔をしているのだろう。柚希にとって何より大事な弟のことが気にかからないはずがない。 「カズ、お前なんて顔してんだよ。おいで」  フェロモンの影響がどうとか、そんなことは愛する弟を前にしてみれば瑣末なことに思えた。何とか寝台から起き上がって長い腕を伸ばすと、大きな身体をしている癖に甘えたな仕草で和哉が寝台の横に跪き、柚希の背中にバスケで鍛えた長く筋肉質な腕を回して抱き着いてきた。 そのまま兄の腹の辺りにぐりぐりと生まれつき明るい髪色の頭を擦り付けてくる。こんな仕草は小さなころとまるで変わらない。  弟は頑張らなくてもそこそこ何でもできる。幼い頃から器用で人の想いにも聡いから、番だった母を亡くしたばかりの父親が仕事で打ち込むことで気を紛らわしていると深く理解して、父親の前ではいつも明るく振舞っていたらしい。  まだ和哉が小学生だった出会ったばかりの頃、公園で共に遊んでとっぷりと日が暮れた時、腹が減ったと困り果てた顔をされた。 見たところお金に困っていそうもないし、勿論食べ物だって自分で買い行くことだってできただろう。  実際当時、本当はハウスキーピングの会社の人が作ってくれた食事が部屋には用意されていたらしいが、そんな嘘をついていた。 (寂しいってただ言えなかったんだ。お腹がすいて困っているって、そんな嘘までつかないと、人に甘えられない子なんだ)  柚希も桃乃も途中でそう見抜いていたけれど、その子が飢えているのは嘘ではない、きっとお腹ではなくて心の方だったのだと理解をして家に迎え入れていた。 (あのときみたいだな……。和哉。お前本当は何を言いたい?)  シャツ越しに伝わる弟の熱い背中をさすってやると、訥々としゃべり始めた。 「兄さん……。だれかと番になるの怖い?」 「怖くないはずないだろ? 考えてもみろよ。俺、3年前まで自分のことβだって思って生きてたんだぜ? Ω判定されてさ、生まれ変わったと思って生きなさいなんて医者には慰められたけど、そんないいもんじゃない。ある日突然、俺の今までの人生、全てがぶっ壊されたんだ」 「そうだよね……。|兄さんは《・・・・》、自分がβだって思ってたんだもんね」 「……だから迷ってんだよ。だから逃げてんだよ。でもいい。もう、腹くくる。まだ晶近くにいると思うから引き返してもらって……。このヒートで晶に番にしてもらう。ほらさ、番になったらあいつに対する意識もまた変わるかもしれないだろ?」  生来ポジティブでくよくよと悩みを継続させられない柚希がついにそんなことを言い出したから、いかせない! とばかりに和哉がぎゅっと背中に回した腕をきつくかしめ、縋り付くように力を込めてきた。 「カズ? ……痛いよ。離して、スマホ返して」 「……先輩の事がそんなに好きなの? 」  弟の肩を握りしめた手は心の迷いを示すように僅かに震えているのを和哉は見逃さなかった。 「……まあ、そりゃさ。付き合ってるし、俺のこと好きだって言ってくれるし。俺にはもったいないだろ? あいつ、昔からすごくいいやつだし」 「僕が聞いてるのは、恋愛的な意味でだよ?」 「付き合ったら、恋愛っていうんじゃないの?」  その声から狂おしい恋情や執着のようなものをまるで感じられず、和哉は苦笑しながら身体を起こすと、寝ころんだままの兄にあらためて覆いかぶさるようにな姿勢になり、上から見下ろした。 さらさらと綺麗な弟の前髪が乱れて額に掛かると、昔みたいに少しだけ幼く見えて柚希は微笑んだ。 (兄さんのこういう甘い顔、僕にだけ見せてればいいのに)  和哉はいよいよ黙っていられなくなり、自分の気持ちをそこここに織り交ぜた熱っぽい口調になった。 「違うよ。全然違う。相手を自分のものにするためなら、手段を選んでいられないぐらい、相手に溺れきって自分で自分を制御できなくなるような感情を、恋っていうんだよ」  案の定兄の瞳には発情を迎え始めたΩ特有のとろりとした色気はあるものの、会うことができなければ心が千切れるほどに、相手を一途に恋い慕う熱情はかけているように思えた。  いっそ何もかも見透かされているのかと疑うほどに静かな瞳に涙を浮かばせた、兄の美しい面。その綺麗な顔をぐしゃぐしゃに乱してやりたい、泣いても喚いても、腕の中に抱きしめてどこにもやりたくない。そんな衝動にかられて和哉は自らの形良い下唇を一瞬だけ噛んだ。 「……兄さんってさ、優しいけど、いつでもちょっと残酷だよな」  聞こえるか聞こえないかというほどの呟きを飲み込んで、和哉は大きな瞳を一度ぎゅっと瞑ると、覚悟を決めたような凛々しい顔つきで囁くように甘く、兄に問いかけた。 「じゃあさ、僕よりも?」 「え?」 「僕よりも、晶先輩の方が好きかってきいてるの」    

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