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10 金木犀 ②

「比べるものじゃないだろ? お前は、大切な家族なんだから……」  すると和哉が太く男らしくも形良い眉を吊り上げたので、柚希は戸惑って涙の被膜で瞳を潤ませ揺らした。じりじりと熱が高まっていく身体に苦し気に吐息をつく。発情期直前のせいかいつもよりずっと涙腺が緩くて自分でもつくづく嫌になる。 「出会ったばかりの頃さ、僕らはまだ兄弟じゃなかったけど……。この世で一番僕ことが可愛い。大好きだ、ずっと傍にいてって言ってくれたよね? 兄さんもう僕の事、一番好きじゃないの? 僕はあの頃から変わらない。この世で一番、兄さんが大好きなままだよ。今までも、これから先も。一生ずっと、傍にいる。兄さんは? 兄さんは違うの?」 「……」  きっかけはよく覚えていないし、最近では互いに恥ずかしくてわざわざ口にしあったことはないが、それはかつて幾度となく幼い和哉との間に繰り返されたやり取りだった。  出会ったころまだどこか儚げで触れたらこの手に落ちてきそうな、そんな少女のような容姿だった和哉。ソファーに腰をかけた学ラン姿の柚希の膝にまたがり、子首を傾げて心の奥底まで見透かすような大きな瞳で試すように『兄さんがこの世で1番好き。兄さんは?』と唇が耳に触れる程の距離で甘く囁いて、柚希の返事を強請るのだ。  純情で幼げなところがあった柚希は二人きりの空間に危うげな雰囲気に呑まれ僅かに鼓動を高めながら、もちろん和哉がこの世で1番大好きな人であることは間違いなくて、『和哉のことがこの世で一番大好き』といつでも真面目に即答した。  その答えに満足げに和哉の綻んだ笑顔は花より艶やかにでも無邪気に笑って、柚希の頬に仔犬のようなくすぐったいキスをしてきた。そんな時の和哉は愛に満たされた顔をしてそれはそれは、愛らしかった。  この世で一番、可愛くて、傍に痛くて、大好きだった。その気持ちは柚希だって今も変わらない。でも……。  その時と同じ台詞なのに。  寝台に力なく寝転んだ兄の上にのしかかりながら、切なくも悩ましい声で囁くこの男は、本当に弟の和哉なのだろうか。  信じられないものを見るような目で弟を見上げた柚希は、だが黒目がちで大きな瞳を必死に和哉から反らさなかった。 「……俺にとっては、家族が一番大切。今だってさ。お前や母さんや父さんのいる家に戻りたい。あそこはさ俺たちみんながやっと取り戻せた新しい家族みんなの大事な居場所だったんだぞ? 一緒にいると温かくって、賑やかで、笑いが絶えなくって……。昔みたいにずっとみんなで暮らしたかった。だから……、だからさ」 「だから番が欲しいの? やっぱり兄さんは、綺麗で、純粋で、信じられないぐらいに残酷。答えになってないよ? ねえ? 兄さんは? 兄さんが今、一番好きなのは誰?」 「俺が好きなのは……」    その答えを兄の口から聞きたくて、聞きたくなくて。  兄はきっと避けないだろうと見透かしながら和哉はゆっくりと顔を近づけていく。そのまま真っすぐ瞳を反らさぬ柚希の熱を帯びた赤い唇に、和哉は啄むように口づけた。 感触を味わうように今日迎えに行った時からこうして触れたくてたまらなかった唇を味わい、力が抜けたふんわり柔らかな口唇を長い舌先で割り開いていく。柚希は片手で和哉のシャツをぎゅっと握りしめて流されぬようにとこらえようとした。しかしその唇のもたらす感触と熱と味に、柚希は不思議と既視感を感じる。 (かず……? ああ。また……金木犀?)  馥郁と芳醇な花似た香りがまたふわりと柚希を包み込み、全身に染みこんでいくような感覚に何故だか柚希は身動きが取れなくなった。口づけは続けられ、一瞬だけ奥まで舌を探られ舐められる。  柚希がびくっと身体を震わせ逃げたげなそぶりを見せたので、和哉は深く味わうことをやめ、代わりに何度も熱心にちゅっちゅっと、熱でややかさついた柚希の唇にしっとりと冷たい自らの唇を押し当てた。  どこかで窓が開いているのかまたあの焦がれるほどに甘い香りが鼻先を悩ましく擽ってくる。和哉の口づけの手練に、逞しく温かい腕の中心地よさで蕩けそうになりながらも、柚希は爪を拳の中に握りこんで鋭い痛みで意識を保とうとした。  しかし片腕を背に回され強く抱きすくめられたら、次第にそんな抵抗もどうでもよくなって、そのまま弟の気のすむように任せて身体の力を抜くと、苦笑の吐息を漏らした和哉が僅かに顔をはなした。 「兄さん無防備すぎ……。可愛い……。ほんともう、狡い」 「かず、……もう子供じゃないんだから、こんなことしちゃ……。いけないだろ?」  掠れ声で熱く吐息を漏らしながら優しくなじると、この期に及んでそんな風に誤魔化そうとしているのか、それとも本当に子どもの頃のそれの延長だとでも思っているのかと和哉は焦れた。  憎らしい程、透明感を湛え綺麗なままの兄の顔を見おろし、和哉の中にこのまま滅茶苦茶にしてしまいたいという、サディスティックでありながら甘美な疼きがどっと押し寄せてくる。 「いけない、だって。……なんか色っぽい。ねえ、誤魔化さないで。兄さんだってちょっとは分かってるんでしょ?」 「何を? カズなにいってる? わかんないよ」 「分かんない? 僕はね。ずっと子供の頃から兄さんとキスしたいからしてたんだ。ワンちゃんごっこなんて、……嘘だよ」  ついに長い間秘めた思いを白状した和哉に、柚希は嬉しいのか哀しいのか分からない言い表すことがとてもできないような情動に苛まれて、唇を戦慄かせ弟の名前をただ呼びつけた。 「かず、かずや!」 「怖い顔しないで? さっきみたいなとろとろの可愛い顔して、俺にだけ笑ってよ」 「どうして……」 「どうしてって、分かってるでしょ? 僕はワンちゃんじゃないんだ。ずっと昔から、兄さんを狙ってる、狼だったんだよ」 「かず、や……、だめっ」   くんくんっと仔犬と呼ぶには大きくなり過ぎた身体で兄のシャツの襟元をどんどん寛げていくと、白い胸元をまさぐるように鼻先を近づけ唇を寄せる。そしてシャツの上から官能の高まりに立ちあがった小さな突起をじゅっと吸った。 「ひうっ!」 「駄目じゃないよ。俺たち血がつながってるわけじゃない。もとは他人。そもそもずっと僕は兄さんのこと『兄さん』なんて思ってないよ?」 「そんな……酷い!」 「ひどいのはどっち? ずっと美味しそうな餌を目の前にちらつかされてさ。もう10年もお預け食らわされてきたんだよ? でも、もうじき薬がきれそうだね? ああ。いい匂い……。お願い? 食べさせて」  とくとくと早く波打つ白い胸、その心臓の上に口づけて、和哉は兄が自分のことをどうとも思っていないわけではないと知れて嬉しくなる。  シャツを開き、胸の桜色の飾りに直接息を吹きかけると、ふるっと鳥肌を立てそこはさらにぷっくりと立ちあがった。  押さえつけているわけではないのに逃げ出さない兄に、今でも自分に対して一番に蕩けるように甘いというのを見越して、子供の頃のように要求がエスカレートしていく。首筋に顔を埋め、舐めて吸って赤く染め上げる。 「ねえ? ちゃんと気持ちいいんだ? 先輩だと怖くて駄目なのに、僕ならいいんだ? 答え聞かなくてもわかっちゃうよね? 兄さんが好きなのは……」 「……和哉、違う」 「違わないよ。兄さんはさ、ずっと昔から僕のΩなんだよ?」 「え……」 「僕がずっと、小さなころから舐めて齧って、兄さんの綺麗な身体に、消えない僕のマークつけてきたでしょ? 僕の獲物って証。あの頃はまだ小さかったし、お互い未成熟だった。番になれる資格がなかったけど。今なら僕ら、なれるんだよ? ねえ。なろうよ。 なって、お願い? 僕の番に」 「お前、ずっと、βだって、そういってただろ?」  聞き捨てならぬ内容に柚希がぱんっと音が弾ける程に腕を突っぱねて身体を離そうとしたが、日頃は手加減をしてくれていたのか和哉の身体はびくともしない。今更ながら体格と力の差を思い知るがもう遅い。本気になられたら柚希の抵抗など風前の灯火で、ここは何とか冷静に話をしなければと思えば思うほど、興奮から身体の火照りは増していった。 「そうでも言わないと、兄さん、僕とも会ってくれなくなるでしょ? 家にαが二人なんて絶対にもう寄り付かなくなる。父さんはともかくさ。僕のことまで避けるなんて、そんなの耐えらんないよ。だから嘘ついたんだ」 「信じられない……。お前、ずっと俺のこと騙してたんだな!」 「僕が生きるためには……仕方ないでしょ? 兄さんがいなけりゃ、僕は、息もできない」 「かずや……」  弟の顔を両方の眉を下げ切った情けない顔でまじまじと見つめる兄に、和哉は悪びれない様子で長い間の秘め事を告げた口元には笑みさえ漂わせていた。 「あーあ。ついに言っちゃった。でもね、兄さん。このこと知ったからにはもう、絶対に、逃がさないからね? 兄さんはずっと。僕だけの兄さんなんだから。父さんや先輩に横取りなんてさせないんだからね?」  避ける間もなく再び和哉が唇を近づけてきたので、今度は二の腕をベッドの上に押さえつけられていた柚希は避けることもできずに受け入れた。  恋人の晶がたまに感極まったようにしてきた、甘く狂おしい恋人同士の官能的な口づけ。しかしそれはまだお行儀が良いものだったらしい。  ついに狼としての本分を現した和哉は若さで猛り、長い舌で慎ましく結ばれたままの兄の唇を思うさま犯し始める。  熱い柔らかな舌で弟に舌の裏から先までを舐めあげられ、緊張と恐れから柚希が身体を強張らせた。和哉は兄の恐れをすぐに汲み取り、片手では乱暴なほど強く身体を押さえつけてくるくせに、互いに髪を乾かしあっていた時にいつもくすぐったがって兄が身をよじる箇所を覚えていて、耳朶と首筋に境の辺りをあざとい程優しい手つきで撫ぜると柚希の身体から少しだけこわばりがほどけていく。  そのままやわやわと口内をそよぐ様に舌先で撫ぜると、柚希の体の中にぞくぞくと快感の灯が仄かに灯っていった。しかし戸惑いから自ら応じるまではできずにいると、金木犀の香りがぐっと強くこちらを侵すように薫ってきて、いくら鈍い柚希でも流石に思い当たった。 (この香りは……、お前のだったんだな)  金木犀の香りに包まれていると心が落ち着く。それはきっといつの頃からか和哉から隠しても隠しきれずに漏れ伝う、艶美な彼のαのフェロモンに似ていたから。そう自覚した瞬間、急にすべてが腑に落ちた。 (それとも違う? 金木犀が好きだからこの香りで落ち着く? 頭がぼうっとする……。何も考えられなくなる。きもちいい……)  溺れる者ががむしゃらに指先に触るものを掴むように、必死に弟のシャツの袖を掴んでいたら、泣き出しそうな柚希の目元に唇を優しく押し当て慰めるような口づけを与えられた。 「兄さん……、いや?」 (嫌じゃないから……。困る。でも俺たち……)  一緒に暮らしたのはたった7年足らずだったが、一度は兄弟として一生付き合おうと思った相手。その相手からこんなにも求められて、混乱しないはずがない。だが一方で昔から和哉自身の行動は確かに一貫性があり何一つ変わっていない。 (いつでも変わり続けたのは、俺だ……)  和哉は昔からひたすらに柚希に甘く、柚希だけに優しく、柚希を想って行動している。それにこうした遠慮ない触れ合いが深まっただけなのに、それを受け入れていいものなのか、柚希の心はざわざわと駆り立てられて落ち着かない。 (どうしたらいい、俺は……)  戸惑いと心地よさと不安と疑念。全てを浮かべて潤んだ兄の瞳には、弟の欲の滲んだ美貌が映る。 「……かず」 「怖がらないで? 僕を受け入れて。僕も同じだよ。兄さんと同じ。ただまたみんなで一緒に暮らしたいだけなんだ。思いは一緒でしょ?」 「一緒、なの……か?」 「一緒だよ。だから選んで? 僕のこと」 「かずの、こと……」  それが最善でそれ以外の道はないと思わせるように、発情期で思考力が鈍ってきた兄の耳元で甘く囁き続ける。 「家族みんなでまた一緒。元通りだろ? ねえ?」 「みんなで……」  顰めていた眉を緩め全身の力を抜ききった柚希に、和哉がついに愛する人を勝ち得る予感にうっそりと昏いほほ笑みを浮かべ、再び唇を重ねようとした、その時。  再びテーブルの上のスマホが震え、兄弟は同時に音の鳴るほうをみた。  スマホの律動に反応し頭がやや冴えた柚希は多分晶からだろうと確信があって、のろのろと身体を起き上がろうとする。  しかしそれを肩に手を置かれて阻まれ、仰向けのまま和哉を咎めるように見上げたら、肩を掴む手に力を込められ、強い眼差しで身動きを制される。しかし気力を振り絞って柚希はその腕に手をかけた。 「……電話、でる」 「……」 「出させて。晶と話す。……後でお前ともちゃんと話をしよう。なぁ? 和哉」  先ほどまで蕩けた表情を腕の中で見せていた柚希は、頬こそ上気させたままだったが、ぎりぎりと爪先が手のひらに食い込むほど指を握りこんで何とか意識を保ち、努めてしっかりとした口調に戻る。  外側は柔和だが、内側は意外と頑固なところがあるので言い出したら聞かないのだ。   先ほどは『兄と思ったことはない』などと嘯いた和哉だが、やはり年長の彼を長いことたててきた習慣がすぐに消え去ったわけではない。 (兄さんはどうせ今、僕の手の届く場所にいるんだから……。焦ることはない)  この場にいない晶がすぐに柚希にどうこうできるわけではない。  二人きりに慣れたこの場所でことを急ぎ過ぎたきらいはあり、ここは一旦は大人しく引こうと、身体を起こし兄を押さえつけていたその腕でもって手を繋いで兄を引き起こした。  柚希は一見冷静さを装ったが、この状況でそれがそう長く持つはずもない。 (抑制剤の効果が薄れてるのは本当だ。昼の分の薬、こっちについてから飲もうと思って飲みそびれてるから、俺にも和哉の香りが分かるし、和哉が本当にαだったら、このままここに二人きりでいたら押し切られて確実に番にされる。そんななし崩しに、大事な和哉の番を俺なんかがなっていいのか? どうしたらいい?)    しかし発情期前に晶に触れられた時とは違い、和哉に触れられると心地よさが先行してすぐに身体中がふやけたようにとろんと蕩けて力が入らなくなってしまう。どうしてなのかは分からないが、これが本能のなせる業ならば和哉こそ柚希が番になるに相応しい相手だとでもいうのだろうか? (それでもいいのか? それでいいのか……。そんなこと許されるのか? 頭がまとまらない。だめ、だめだ。晶と……。晶と話をしないと)  のろのろとボディーバッグとその上に置かれたスマホのある小さなテーブルと椅子の置かれた場所に向かうと、腰を下ろして律動を繰り返すスマホを手に取った。 『柚希、俺だ。同じ階に上がってきてるんだ。廊下でてきてくれないか? 直接話をしよう』  晶の言葉に心臓が再びどきどきと息苦しい程激しく高鳴り、こめかみ辺りがきーんと痛くなるほどぎりぎりと歯を食いしばってその興奮にたえた。 (廊下に出たら、晶に会える……。直接会って……それでどうする? どうなる?) 揺らぐ心に追い打ちをかけるように、晶が今はまで聞いた事のないような情熱的で、なおかつ憐れなほど切羽詰った声で囁いてきた。 『柚希、愛してる。同情なんかじゃない。昔からずっとお前だけを愛してた。誰にも渡したくない。俺と番になってくれ』 胸がつまり、柚希が応えることができずにいると、『柚希、お願いだ』と多感な時期を共に過ごした仲間で憎からず思う男にダメ押しの懇願をされた。柚希は初めてこれ程までに熱い晶の本音に触れて、口に手を当て嗚咽を漏らしそうになった。

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