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11 牙をむく狼①
ぎゅっとスマホを握りしめたまま返事を戸惑う柚希の傍に和哉は長い脚でつかつかと近寄ると、普段しないような乱暴な仕草でそれを奪い取った。
「先輩……。もういいでしょ? 兄さんは先輩と番には……」
和哉の剣幕に本能的に怯えた柚希は晶に一言も返せぬまま、ただ彼と話をしなければという強い意志だけでふらふらと立ちあがった。
(いかなきゃ……。ちゃんと、話を……)
発情期であったとしても、柚希は学生時代はバスケ部で鍛え上げ、今でも自転車通勤に肉体労働と身体は鈍っていない。
和哉が晶とスマホで話すことに集中した隙を突き、瞬発的な動きは得意とするところで、いくら本発情直前の状態であってもそれほど遠くない鉄の扉まで飛びつくことは可能だった。
しかしそれは年齢が現役生に近く今でも身体を鍛えている和哉も同じこと。
ドアノブに手をかけ開けようとした柚希の後ろから、重たい扉を開かぬように抑える力強い腕が伸びる。
「先輩、来てるの?」
囲われた腕の間から見上げると、硝子玉のように冷たい瞳をして扉を睨みつけていた和哉が一瞬柚希を見おろし、ゾッとするほど昏い咎めるような視線をくれる。
ゾクゾクっと全身に震えと暑さが同時に巻き起こり、柚希は扉に縋って震える脚が今にも崩れそうになるのをなんとか耐えた。
すると柚希たちのいる扉の外と床に打ち捨てられたスマホの中との両方から、ドンドンと激しく扉が叩かれる音が漏れ、続いて晶の声が聞こえてくる。
『柚希! そこにいるのか?』
(晶がドアの前にいる!)
柚希が見つめる2人を阻む冷たい扉に、背後から大きな影が落ちた。
「兄さんっ」
「あ.......っ」
その直後に無防備だった白い項に感じた鮮烈な痛みに、堪らず上げた柚希のつんざくような悲鳴は、音を結ぶ前に硬く大きな掌の中に吸い込まれていった。
衝撃をこらえきれずに足元から崩れ落ちる柚希の身体に長い腕が蛇のように回り締め付けられ、絶対に逃れられない渾身の力を込めて覆いかぶされる。
「うっ……、うう!!」
しかし柚希も男だ。何とか抵抗を見せようと身をよじる。しかし手負いの柚希の必死の抵抗に逆に煽られた和哉は離すまいと余計に力を込めて、生涯この一瞬の為だけに発達した犬歯をさらにしっかりと筋肉の発達した柚希の壮健な項に食い込ませる。
溢れる血潮を野獣のように啜りながらぶちぶちと肉を割き、ぐっと歯列に力を込めて噛みついた。
まるで獲物が喉笛を嚙み切られる寸前のように柚希はびくっびくっと暴れ、ショックと強く放出された和哉のフェロモンによってそのまま気を失ってしまう。
「ああっ! 兄さん。 ゆずきっ、柚希!!」
和哉は自分が犯した罪を直視し、崩れ落ちる身体を抱えなおす。顔色を失い大粒の涙が伝う兄の頬に慰めるように血にまみれたままの唇を押し当てた。
(僕もっ……! 飼いならせなかった)
「……ごめん」
ずっと噛みたくて、噛みたくて、噛みたくて、気が狂いそうだったのに。噛みついたら……。苦しくてたまらない。
だからといって後悔は微塵もない。そして謝ったら何をしてもいいわけではないと分かっている。
これまでも愛情を試すような悪戯をしたこともあったが、和哉が何をしても柚希は笑って許してくれた。
だが……。
(こんな身勝手なことをして、許してくれないかもしれない……。でも、兄さんをあいつにどうしても渡したくないんだ)
眦を吊り上げ、ぎりりっと奥歯を噛みしめた後、覚悟を決めた和哉の行動は早かった。
破り去る様に柚希の白いシャツを脱がすと、まだ血がどくどくと流れる項を一度それでグイっと拭う。意識を失った相手を軽々と抱え上げて寝台まで運びあげた。
柚希の美しい背中の線が悩ましく見えるようにして腰元まで夜具をかけると、自らもシャツを脱ぎ去って腹筋がはっきりと割れ、日頃はずっと着やせしてみえる程逞しい上半身を晒し野性的に髪を乱した。そしてスマホを拾い上げると晶に呼びかける。
「先輩。ドア、開けますよ。僕と話しましょ?」
扉越しにいる男はかつて同じポジションを争ったこともあるチームメイト。力強いポイントゲッターで、プレイ中、柚希の関心を一身に集めていた男だ。
いつの間にか試合の間だけでなく、プライベートでも柚希を間に挟んだ越すには高い壁で、ライバルになっていた。
晶がスマホを抱えたまま、まるで長年の宿敵を見るかのような怖ろしい形相で和哉を睨みつけてきた。
「カズ、お前……、αなんだな?」
「先輩気づくの遅すぎ。どう見たって、僕がβな訳ないでしょ?」
和哉は日頃は柔和な表情で曖昧に見せていたその美貌と筋肉の落とす陰影の美しい肉体美を見せつけるように晶と対峙した。そして僅かだけ目線が下になる晶を嘲るようにねめつけ、わざと相手を煽るようなことを言ってよこす。
「知ってたさ……。だがお前は柚希の大事な弟だ。そうだろ?」
そこにはかつて目をかけ可愛がっていた後輩の、あの誰とでもすぐ打ち解ける朗らかで明るい笑顔はなかった。
一人の男として晶の前に立ちはだかる手ごわい恋敵は、しかしすでに彼の恋人を手中に落として離さず、再び手放す気は毛頭ないようだ。
しかし晶も長い間思いを募らせていた相手がやっと振り向きかけていたのだから、簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「柚希は俺の恋人だ」
和哉はαが出す特有の牽制を促すフェロモンと押し殺しつつも恫喝に近い声を出した晶に全く怯まず、むしろ美しい微笑みすら浮かべて長い人差し指をたてて口元にあて「しぃっ」と言いながら室内に向けて顎をしゃくる。
「兄さんは……。疲きって眠ってるから、静かにしてあげて」
わざと背後の室内の様子を晒しながら鷹の目のように明るい色の瞳を細め、首に手を当てにこりとでも形容できそうな凄艶な笑顔を見せる。
晶の目に柚希が血が滲む噛み痕が生々しい項をそのままに、情事を匂わせる白く艶めかしい背中を晒して眠るその姿が目にうつったのだろう。
俄かに信じられず、黒黒と男らしい眉の間に深い溝を刻んだ晶は、瞬間和哉の頬を渾身の力で殴りつけていた。
和哉もスポーツで鍛え上げた体幹でやや躱しながらも受けて立つ。
日頃の物静かな姿とは違い、プレイ中はアグレッシブで当りの強い男の、かなり重たい拳だった。
しかし和哉も意地でも倒れこむまいとし、よろけてもまたすぐに恋敵の正面に対峙して、切れた口元についた赤い血を拭い去った。
「無理やりに奪ったのか! 柚希を……! お前!!」
晶が付き合ってからも大切に大切に風にも当てぬように愛でてきた、手中の花を引ったくり奪われ、握りつぶされた。ひどい暴力を受けた心地だ。
和哉は心外だというように炯炯と琥珀色の瞳を狼のように光らせて、自らの愛する人を背に庇うように長く逞しい両腕を広げた。
「誰が誰を奪ったって? あんただよ。兄さんは……。柚希は、出会った時からずっと僕のだ」
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