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12 牙をむく狼②

晶は和哉から視線を外さず睨みつけたまま、苛立たしげにネイビーのネクタイを緩めた。 「家族を亡くして、人生の一番底の時だって、お互いに助け合って生きてきたんだ。絶対に誰であっても、それが晶先輩だったとしても、僕らの間にはけして割り込ませない。僕が一生柚希の傍にいて生涯支える、愛しぬくって、人生の半分をかけてそう誓ってきた。譲れない。絶対に!」 「和哉! 柚希の意志は尊重したのか? それが柚希の望みだったのか?」  キャプテンとしてチームを引っ張っていった時には聞きなれた怒号に、和哉は僅かに頬を引きつらせたが、もう仲の良い先輩としての晶の𠮟責が届くことはない。  二人は互いに仇敵に出会ったように目をぎらつかせたまま、和哉は晶に掴みかかられ両肩を激しく揺さぶられたが、逆にその腕を上から潰れてしまえと思うほどの渾身の力で掴み上げた。まだ柚希の血が残る唇で犬歯を舌でなぞり不敵な笑みで応戦する。 「それにどのみち、もう遅いんだよ……。見ただろ? 兄さんは僕のものだ」  晶にとって柚希は他ならぬ初恋の相手だ。長く拗らせるほどに愛し、彼の全てに夢中になった人。 1度は諦め、嫌われることを恐れて大切にしすぎたのは否めず、こんなことならばはやく奪っておけばよかったと後悔ばかりが頭を過る。 (柚希が俺を本能的に恐れる理由は分からない。だからといってここで引く訳にはいかない!) 腕をとられたまま和哉を引きずる様に柚希に元に歩を進める。今度は防戦に転じた和哉が引き倒さんばかりに晶の腕を出口のように引き、いかせまいと自分と同じぐらい体格のいい男をアメフトの選手がスクラムを組むときのような姿勢でばちんと筋肉が鳴るほどの勢いで押し返った。晶も負けじとすぐ傍にある和哉の耳元で厳めしい声を上げた。 「こんな誤魔化し、通用すると思ってるのか?」  せせら笑う晶のその言葉に双眸を僅かに見開いた和哉の鼻孔に、ふわりと和哉の元にも柚希の清らかな石鹸にもにた甘く清々しい香りが漂ってきた。 (|α《こいつ》はわかるんだ。兄さんの香りが、まだ僕専用じゃないって)  発情期の性行為の最中に噛みつかない限り、番関係は成立しない。β相手にはちょっとした牽制になるような行為も、ことα同士では通用しないということだ。  ここで相手を打ち負かさねば、永遠に柚希は手に入らない。  和哉も幼い頃よりその半生をかけて柚希を愛しぬいてきた自負がある。譲ることのできない正念場に、和哉は顔色を変えいよいよ余裕をかなぐり捨てた。 「でていけ! 兄さんは渡さない!」 「自分で中に俺を招いた、さっきまでの余裕どこから来たんだ? 俺ならこんな状態の柚希に絶対に近寄らせない。傲慢だな? 和哉。お前はいつだってそうだ。柚希の愛情に胡坐をかいて、当たり前だと思ってる。それがどんなに価値のあることなのか、お前は何もわかっていない!」 「.......あんたこそ無視されたなら、今朝、直接兄さんに会いに来れば良かったんじゃないの? 兄さんより大事なものがあるなんて、そんな奴には兄さんは奪わせない!」 「……大人は気楽な学生と違って色々順序だてないと行けないことがあるんだよ。お前だってそのうちわかる」 諭すような年長者の口調に和哉はムッとする。社会人と大学生の2歳差は大きい。晶は冷静さを取り戻すと次第にペースを乱しつつある和哉を自分のルールに引き込もうとした。  晶は肩を上下させるほどに大きく息をつくと、和哉の頭を両手で掴み上げ真っすぐに自分の方を覗きこませた。男として完成しつつある和哉は端正な面差しに翳りを宿らせ、情念に満ちた瞳は晶であってもぞっとするほど綺麗だと思えた。  美しい、本当に美しい兄弟だ。  顔かたちの造作も勿論だが、互いに想い合う二人が眩いほどに美しかった。学生時代もたまに二人が共にいるところを目にする機会があった。柚希はいつでも年下の和哉を気遣い細やかな愛情を注ぎ、和哉もそれにいつでも感じの良い柔らかな笑顔で応じ兄を立て懐いていた。そんな二人の姿を見るのが晶は嫌いではなかった。  明るい日差しの似合う慈愛に満ちた眼差しを和哉に向け、柚希はいつでも幸せそうだった。  晶が柚希を奪えば、おそらく確実に。  柚希は永遠に溺愛する弟を失うことになる。 (柚希……。俺が和哉の分までお前を愛するといったら? それでも俺ではお前がこれまで大切にしてきたものを一緒に守ってやれないのか?)  柚希を愛するがゆえに、エゴを前面に押し出せず、柚希の全てを奪い去れない。それが柚希が愛した晶の最大の優しさで、同時に弱さでもあった。  寝台から漂う柚希の眩惑の香りが増し、晶は渇きを覚える無意識に喉を抑え呻いた。 (……。このままここで二人そろってラットを起こしたら、和哉と俺とで正気のないまま殺し合いだ。膠着している場合じゃない)  それほどのα同士の番をめぐる争いは苛烈だ。抑制剤を服用しているであろう和哉も眉目を顰め、長い舌先で狼のように自らの上唇を撫ぜまわす。 「カズ、賭けをするか?」 「……そんな必要ない、先輩が退けよ?」 「柚希が俺と話しをして俺の元に戻ることになるのが怖いのか?」 「そんなわけないだろ?」  その言い返す口調があまりにも柚希に似て、やはりこの二人は兄弟なのだと晶は苦笑いした。こんなことにはなったが、いやずっとこうなることをどこかで予想しながらも、こうして正面からぶつかり合うことを避けてきたのは、晶にとっては和哉もまた大切な学生時代の後輩の一人だったからだ。  高校時代共にバスケ部に所属していた。練習の合間、お遊び程度だが二人は互いの守るべきゴールを背にして向かい合い、差しの勝負をしていた。  高校一年生の和哉はあどけなさが残る美少年で、三年生で体格差の或る晶との勝負は和哉が勝つことは稀だった。しかしいつでも果敢に挑戦してきて、アイスをかけたりジュースをかけたり。  ゴール下でコーチと打ち合わせをしていると、いつもそれを邪魔をするように小脇にボールを抱えた和哉が嬉しげに手招きし、しょう凝りもなく挑んできた。 『晶先輩!!! ワンオンワン、やろうよ!』  あの埃っぽい日向の匂いのするコートの上が、今は無性に懐かしい。 (まさか恋人まで賭けることになろうとはな?) 「いいだろう? 和哉。俺と、一対一の勝負だ」  和哉も覚悟を決めたのか静かな顔つきで一度瞑目すると、印象的な色の薄い瞳を見開いて試合中のアイコンタクトのように目で頷いた。 「いいか……。次に柚希が目を覚ました時……」  ぐいっと柚希のスマホを押し付けてきた晶のその企てを聞いた時、和哉はがっりと組み付いていた身体を離し、恋敵の正気を疑ったが、彼の真剣さを物語る視線に射抜かれる。 「先輩、.......いかれてるね?」 「そんなののもう、.......ずっとだ。柚希を好きになってから。俺はずっと。だが柚希を手に入れるなら俺は真正面からと決めている。お前は薄汚く裏からやってみろ?」  和哉にとっての当て馬は晶だが、正式な恋人として晶にとっての間男は和哉の方だ。互いに心の中のその主張は譲らない。 「そんなこと言って、.......後で後悔することになりますよ?」 「それはお前の方かもな? 試してみろ、そして砕けろ」 「あんたこそ、砕け散ちまえ」  互いに砕ける可能性には目もくれず。二人は寝台の両側に立つと、やや苦し気に眠る柚希を見おろす。  香りは一層強くなり、眩暈がするほど飢えを覚える。晶が柚希に向かって伸ばした指先を、額にかいた汗をぬぐった腕でそのまま、和哉は打ち払う。 「いいか? 柚希が目覚めたら、スタートだ」  柚希を挟んで睨みあう緊張感漂う場面で、和哉は柚希をぐいっと仰向けにする。寝台の近くまで客室係がベッドサイドまで運んでくれていた荷物の、取り出しやすい外ポケットから差し薬を抜き取り握りしめると、上掛けをまくり上げ柚希の太もも目掛けてそれを突き刺した。      

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