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13 柔く白い手①

☆ここからは和哉視点、回想ターンです。   少しだけ昔々。 和哉と柚希がまだ兄弟になる前。  和哉が家族3人で住んでいたマンションの隣には敷地沿いに貼り付くように公園があった。広さはそれなりにあるけれど、鬱蒼と木々が茂っていて遊具はブランコと滑り台がある程度の、比較的地味めな場所だ。小学生でも学年が大きな子が幅を利かせてボール遊びをしているような、そんな公園。 「じゃあな、俺塾あるし、バイバイ!」 「俺も……。今日習い事あるから」 「わかった。また明日!」  そんな感じに友達が友人たちが次々と手を振って公園を後にする中、和哉はベンチに座ってスマホを弄り、父からのメッセージを確認し始めた。 (父さん、今日の帰りも9時過ぎるんだ。「夕食は『代行』さんの作り置きをレンチンしてください」か……) 今週はまあだいたいこんな感じだった。きっとこれからもずっと父と2人きりになった生活は、こうして味気なく続いていくのだろう。  父の最愛であったΩの母が交通事故で急死したのは、まだたったひと月ほど前。母の死が分からないほど幼くもなく、だが若い父の手を煩わせないでいられぬほどには小学4年は自立には程遠い。  家事は父も和哉もまるきりできないので、仕事の忙しい父に代わって、家事代行の女性が作り置きしてくれた食事と、宅配食、たまにはスマホでデリバリーを頼んだりしながら夕食はそれで済ませる。 父はあれからもずっと、仕事のペースを落とさない。もっと言えば多分、家に早く帰るのが苦痛なのだろう。  仕方がないと思う。和哉だってそうだ。あれから一人で家になどいたくない。家族が増えるだろうからとせっかく広めのマンションを買ったのに、ただ寒々しいだけの虚ろな入れ物に成り果てている。 父とは学生結婚だった母は若々しく息子の目から見ても愛らしい人で、『和哉、お姉さんが来てる!』と授業参観で同級生に興奮気味に言われるほどだった。無邪気な笑顔が少女のように可愛らしい人で、その上明るくて社交的な誰からも好かれる性格だった。 家に客を招くことも好んでいたから和哉はよく家に友達を招いてゲームをして遊んでいた。その度、まめまめしい母は手作りのお菓子を作ってくれて和哉の友達に振舞ってくれた。  その母が忽然とこの世から消えさった家の中は、母の営みの痕跡がそこここに残っているだけに、今はただ喪失感しか感じられない。和哉もそんな家の中一人で過ごしたくはなかった。 秋の日は落ちるのが早い。 急には目がなれぬほど薄暗く日が暮れてきた公園からは和哉ぐらいの年の子どもはどんどん引けてきて、その代わりに近隣中学から部活帰りの中学生がちらほらと通りがかる。道路側の端に植えられた金木犀が甘く濃厚な香りを漂わせていた。  和哉がいつもベンチに座っていることを知っているものも多いのだが、その日はある生徒がつかつかと近寄ってきてかなり強い口調で呼びかけられた。 「俺たちもここ座りたいんだけど、どいてくんない?」  先に座っていたのは和哉だし、向こうは近隣の中学の制服姿でサッカーボールのキーホルダーをつけたグループだ。しかし相手が年雨で大人数だからといって引くのもしゃくだった。   「ボクが先にここに座ってたんですけど?」 「僕だって? お前女じゃねぇの?」  それだけで周りに嘲るような笑いが漣のように伝わって和哉は非常に不愉快になった。母が亡くなる前からやや普通の男の子よりは長めだった髪の毛は今や伸び放題。妻子思いで土日は必ず家族で出かけるなど、あれだけ活動的だった父は妻を亡くした衝撃から立ち直れずに今では休みには昼までと言わず終始寝てばかりだ。  平日帰ってくる時間も遅いので和哉の身だしなみについて気づける余裕がなかったのだろう。もっとも家事代行の人が来ているから服装が小汚いということもないし、学校の提出物も和哉が自分できちんとこなしている。  同級生はみな同情的でいちいち髪型について指摘されたことはなかったのだが、初対面のものから見たらこの頃の和哉は愛らしいかった母の面差しにもにて美少女に見えていたのかもしれない。  サラサラの光に透かすと金色にすら見える明るい茶色の髪に、同じくガラス玉みたいと言われるほどの色の薄い瞳。夏休みの途中からどこにも行けずに家に引きこもっていたせいで、肌も真っ白で、その上今日に限って母親の趣味に寄った明るい色調の赤と黄色のチェックのシャツを着ていた。  可愛い顔立ちをしている華奢な和哉を俄かに揶揄いたい、意地悪をしてみたいという気持ちももたげたのか、中学生が少しざわつく。 「まじかよ? 男女? ほんとに男?」 「女みてぇな顔じゃない? 」 「離せよ! クソ野郎」  腕を掴まれて振りほどくと、中学生は怖い顔になった。   「なんだこいつ? 生意気じゃねぇ?」  嫌気がさして家に帰ろうと椅子から立ちあがったところを、ばんっと突き飛ばされて、よろけた拍子に運悪く日陰で乾いていなかった湿った泥の上に尻もちをついた。当然ズボンは泥だらけ、ついた掌もピリッと痛みが走る。 スマホも回転しながら結構遠くまで飛んでこちらに向かって歩いてくるところだった制服の少年の足元に落ちた。  流石に周りの中学生たちも、小学生相手に何をやっているんだと引き気味になっているが、突き飛ばした相手も引っ込みがつかなくなったのか謝るタイミングをなくして立ち尽くしていた。 「ふざけんなよ! なにすんだよ!」  和哉は思わず涙ぐみそうになったのを意地でこらえて下唇を噛みしめながら立ちあがると、泥だらけの手をつきとばした相手の制服にばんっと突き返した。   「こいつ! 服が汚れたじゃないかよ」  大きな声で怒鳴り相手が思わず掲げた拳は、小学生には恐怖を呼び起こすには十分な威嚇だっただろう。とっさに両腕で顔をかばって縮こまった和哉の前に、庇って飛び込んできた影が過る。  いつまでたっても振り下ろされぬ腕を不審に思って和哉は恐る恐る見上げると、大き目の制服を着たほっそりした背中が両手を広げて二人の間に立っていた。 「おい、桐谷! お前小学生の女の子相手に何やってんだよ?」 「別に……。ちょっと押したらそいつが勝手にこけたんだよ。それにそいつ男だし」  庇ってくれた方の少年が、口の中でもごもごと歯切れの悪い言い訳をするのを、少年の肩をぽんっと軽く叩いていなした。 「男だったって、年下にケガさせたんだ。お前が謝れ」  彼は手を出してきた少年より背は小さいのに、臆せずきっぱりとそういうと相手は簡単に鼻白む。それに一緒にいた部活の仲間たちも『確かにユズのいうとおりだ』と頷いているので形勢が悪くなった。 「ごめん……な」 「……うん」  和哉だけならきっと謝ってなどくれなかったはずだ。  思いがけぬ援軍が来たことは嬉しかったが、それでも消せぬ悔しい気持ちがぐっと胃の腑にこみあげてきた。しかしここで喰ってかかるのは得策ではないと小さいながらも頭のきれる和哉はそう咄嗟に考え頷いた。  ユズと呼ばれたその少年は片手に和哉のスマホを持ったまま、ちらっと後ろを振り返るとにっこりと微笑んだ。 「君、ちっちゃい頃、たまにお母さんと公園にいたとこ見かけたことあるよ。近所だよな? 立てるか?」    泥だらけの手を出すのをためらっていたら、確かに見かけたことがある少年はまだぶかぶかした学ランの袖をたくし上げて、ぐいっと手をさらに差し伸べてくれた。  その瞳は睫毛が反り返るほど縦にぱっちりと開き、黒目が大きくとても澄んでいた。  頭の中に不意に母がよく柔和な声で小さな和哉に向けて歌っていた『きらきらお目目』というフレーズが頭に浮かんできた。 (この人の瞳、本当に『きらきらお目目』だ。星が目の中に光ってるみたいに見える)  母の生前は家の中は整えられ何時でも綺麗なものが溢れていた。  色鮮やかな花々が花瓶にさりげなく生けられ、季節の行事に合わせたオーナメントが棚の上に飾られている。窓辺のサンキャッチャーは日を受けて虹を床に落とす。  風を張らんで大きく揺れるカーテンの下、日向ぼっこしながら床でごろごろするのが幼い和哉は大好きだった。  でも今はそんな思い出のオーナメントも母が亡くなった夏の飾りのままおきざりになって、花は最後に生けられていたスターチスの枯れ葉がこびりついたものを綺麗にもされず床に放置されたままだ。  だから和哉はその時、久しぶりにとても美しいものを見たような気持になって思わず見惚れた。 「怪我無い? 大丈夫?」  成長を見込んでかなり大きな制服を買ったのだろう。袖先からは第二関節ががやっと見える程度の手を差し伸べてくれた。  おずおずと手を伸ばすと、泥と血で汚れている自分の手が目に入り、気が引けて引っ込めようとしたが、彼の方が一歩足を踏み出して、ぱしっと和哉の手を取ってくれた。  その掌が温かくてとても柔らかくて、それは母と手を繋いだ温もりをも呼び起こし、深くにも涙の雫が滴る様に零れてしまった。 「痛かった? ごめん、立てるか?」  痛みのあまり泣いたと思われるのもしゃくで、和哉は目元が赤くなるほどごしっと涙をぬぐうとすくっと立ちあがった。 「……立てる」 「この子、俺の知り合いだからもう手を出すなよ?……泥だらけだな。母さんに怒られちゃうかもな? 」  そう言いながら成り行きを伺っていた怪我をさせた張本人を咎めるように美しい瞳を見張ると、少し赤くなった彼がおどおどと顔を袖で擦って狼狽えた。 「俺んちさ、隣のあそこだからさ、手当てして家まで送ってくよ。次会った時は喧嘩しないで優しくしてやれよ?」 「わかったよ」  柚希の言葉にみな素直に頷いたので、日が暮れてきた公園なのにそこだけ小さな星が落ちてきたような、耀かんばかりの笑顔で皆に手を振った。 「じゃ、俺帰るね!」  柚希の人を惹きつける柔らかなオーラや、人望のなせる業なのか。  皆もすっかり大人しく穏やかになって、和哉にまで手を振って『お大事に』とか言ってきたから調子がくるってしまう。 「手当てしてあげるからおいで?」  泥だらけの中血が滲んで滴っている傷に触らない様に、手頸の辺りを優しく握りなおして、柚希はもう一度優しく和哉に声をかけた。 (こいつ、ただのお節介な奴? お人好しかよ……)  それが二人の、運命的な出会い。

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