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14 柔く白い手②

 公園を挟んで和哉の住んでいた4LDKの分譲マンションと、柚希と母が暮らしていた古い二階建てのアパートは隣同士だった。  外見はかなり古めかしいアパートだが中は思いのほか綺麗にリフォームされていて一応畳敷きではなかった。   いわゆるLDKと六畳の洋室が一つきりで他に家族の姿はない。 「うち、母さんと二人暮らしで、今まだ仕事に行ってるから気にしないで上がりなよ」  靴を脱がずに上がりそうになるほど段差の乏しい玄関で、慌てて靴を脱いで殆ど初対面の少年の家まで上がり込んでしまった。  そして有無を言わせず洗面台にまで連れてこられた。  背後に立った柚希が腕を回して和哉は彼に後ろから抱きしめられるような体勢になり、そのままの姿勢で蛇口をひねるとじゃーっと水を出しっぱなしにする。  何度か水に手を翳しているから何かと思ったら、お湯になるまで時間がかかるようで、丁寧に温度を推し量ってくれているようだった。細やかな仕草に彼が保護者から愛情深く育てられたことを感じ、そして和哉も優しかった母を思い出して鼻の奥が少しだけツンっとなった。  湯気が立ち昇ってきたら、外側からやんわりと優しく柚希に手を握られた。  母をなくして以来人との触れ合いに飢えていた身体は、なんとなくその温みに反応してしまう。 「洗うよ」  柚希はそういうと和哉の肩越しに腕を外側から回してバッグハグをするような姿勢になり、まずは無傷な左手から洗い始めた。  さっきの友人相手に啖呵を切った威勢のいい様子では和哉は非常に豪快な性格かと思われたが、意外なほど柚希の手つきはたおやかに優しい。  ハンドソープを自らの手にも付けて揉み込むように泡立てながら、続いて右手の傷の辺りの泥汚れをそっと撫ぜる。 「いっ」 「痛いけど、頑張るんだよ」    確かに痛いがそんな風に優しく励まされたら頑張るしかないだろう。  ほっそりした指先で指の腹を撫ぜるようにされてこびりついた土と血が水と共に洗い流され、排水口からくるくると回りながら消えていく。  懸命に洗ってくれ過ぎて顔がどんどん洗面台に近づいていったから、屈んだ柚希のさらさらとした黒髪が和哉の項に『ふぅ』というくすぐったく甘い吐息と共に降りかかる。  和哉も大きなスポーツバッグにバスケットボールのキーホルダーがついていたからきっと部活帰りは間違いなかったが、若い男特有の汗臭さがまるで感じられず、むしろ清潔感溢れる石鹸のような爽やかな香りが漂ってきた。  妙なくすぐったさを感じて少し身震いすると、痛がっていると思ったのかお湯をさらにちょろちょろと落ちるように調整して、そろりそろりと掌の擦過傷にも触れ始めた。  指の股まで柔やわと白い指を絡められながら丁寧に洗われたら、何故だか心がきゅっと掌で包まれそのまま縮められたように切なくなり、ぞくぞくとした感覚が何故か下腹部のあたりからせり上がってきた。  クラスの男子の中には女の裸がどうのこうのと年長の兄弟からの受け売りで拙い性の知識を面白おかしくひけらかすものも増えてきたが、和哉はあまりそちらには興味がない方だった。しかし今なぜだかあらぬ場所がむずむずとするような恥ずかしくも落ち着かない心地に思わず太腿をすり合わせた。 (なんか……、どうしよう。痛いのに、なんか気持ちいい)  いつまでも触れていて欲しくなるような、そのくせ恥ずかしくて振り払いたくなるようなそんな気持ちを初めて味わいながら押し殺した熱い吐息をこらえきれずにふうっと吐き出す。  柚希は痛みに耐えているのが辛かったのだろうと、吐息だけで「ふふっ」と笑いその甘い息が降りかかるとまた耳の辺りがぞくぞくっとなった。 「終わったよ」  複雑な、しかし甘美な心地に囚われていた和哉に、柚希は明るくそう告げると、柔軟剤が効いた柔らかなタオルを取り出して宝物の様に手をふんわりと包んで水滴を取り除いてくれた。 「ありがとう」    なぜだかぽーっとしてしまい、和哉は素直にお礼が口をするするとついてでた。すると柚希がまたあの周りが華やぐような笑顔を見せてタオルを洗濯籠にぽいっといれると和哉の頭をさらりと撫ぜてくれた。 「どういたしまして。うーん。でもズボンもどろどろだな……。うちだったら泥は中々汚れが落ちないのにって、母さんにぼやかれるとこだぞ」  そういってぱしっと呆けていた背中を叩かれてから、その拍子に思わずポロリと本音を呟いてしまった。 「……うち、母さんいないし、父さんは夜まで帰ってこないから、洗濯ものの中に突っ込んでおけば、バレない」 「……そうか。うちと逆だな。うちは父さんがいない」  意外な返事に俯いた顔を上げると、柚希は少し寂し気みえるがそこがまた胸に来るほど美しい顔で微笑んだ。 その笑顔にも和哉はまた胸の奥がぎゅっとなる。 (この人も……。寂しいのかな。寂しいから僕を家に入れて、世話を焼こうとしているのかな?) 二人の間に共通点があるとは思ってもみなかったが、柚希に対して一気に親近感が沸いてきた。 「じゃあさ、俺がユニホーム洗うついでにズボンの泥落として洗濯してやるよ。着替えは.......俺が昔来てたズボン服探してくるから待ってて」 柚希も余計に情が湧いたのは同じだったようで、より親身になってあれこれと世話を焼いてくれ始めた。 気に入ったならあげると言われて着せられたズボンは、彼が今の和哉ぐらいの時に着ていたらしいが、和也ではすでに丈が足りず『足長い! なんか生意気だな』とからかわれ今日は2回も生意気と言われ、しかし不思議とこちらはずっとまろやかに甘く響いた。  夜が近づき大分気温が下がったのを察して、上はぶかぶかの黒いパーカーを羽織らされ、『こっちは去年きてた服。これは流石にお前にはデカいだろ?』とか年下相手に無邪気な対抗意識を燃やしてくるから笑ってしまったら、柚希もちょっと恥ずかしくなったのか照れて、お互いに顔を見合わせ笑い合った。 母をなくしてから和哉の周囲の人は皆痛ましげに和哉に接して、ともすれば無駄に甘やかしてきて、しかしどこかよそよそしさも漂っていた。  だから大人びているのか子供っぽいのか分からない柚希のごく自然体な様子が和哉には心地良かった。 ソファーで待たされている間にカチカチカチカチと、時計の秒針が進むかなり大きな音が耳に響き、そして柚希が忙しく動き回って洗い物やらなにやら家事を行う音と合わさってそれが妙に落ち着く。自分以外の人間がいるという気配が和哉を自分で思っている以上に穏やかな心地に誘った。  そのまま和哉は何だか眠くなってしまって、友達の家ですらした事ないのにいつの間にかカウチソファーの上でうたた寝をしてしまった。  途中身体にふわっと暖かな物がかけられた感触がして、千々込めていた脚を自然に伸ばすと和哉は本格的に眠りに落ちた。  どのくらい眠っていたのか……。香ばしく甘い食欲をそそる匂いに誘われるように目を覚ますと、覗き込んできた柚希の子リスのようにクリっと丸く見張った目と目が合った。  身体を起こすと毛布が掛けられていたと分かり、温みはこれのおかげかと心地よくて思わずまた毛布に肩まで滑り込んでしまう。 「起きた? 洗濯も終わったから、これ食べたら家に送っていくよ」  柚希が手に持っていたのはころころとまん丸に上がった、油と甘い香りと共に湯気の立ちあがる素朴な菓子だ。 「ドーナツあげたから。食べようぜ?」 「君があげたの?」 「柚希でいいよ。そう。俺夕飯の当番すること多いから料理結構得意なんだぜ」  泥だらけのユニフォームと柚希のズボンの泥を落として洗濯をしている間に、マメなことにドーナツまであげてくれていたらしい。  起き上がってソファーから降りて床にぺたりと座り込むと、ローテーブルに置かれた環っかでなくいびつな形の丸いドーナツに手を伸ばした。  口に運ぶとキッチンペーパーでは切れきれぬ油がじゅっとなり、何故だか他の食べ物の味わいもあったのが不思議で目をまん丸にすると、柚希も一口食べた後、頭をかいて弁明した。 「昨日天ぷらだったからさ、ちょっと古い油も足しちゃったから、てんぷらの風味がついちゃってるな。不味い?」 「美味しいよ」 「ごめん。今度作る時は新しい油だけで作るから」 「また来てもいいの?」 今度という言葉に反応して柚希の顔をまじまじと見たら、小づくりで優美な顔が照れたように耳まで赤くなった。 「公園でまた会えるだろ? 俺毎日あそこ通って帰るし」  じいっと大きな黒い瞳で見つめられたからなんだかこちらも照れてしまい、和哉はドーナツを口いっぱいの頬張るとむせてしまった。  慌てて柚希が麦茶をもって戻ってきて口元に運んでくれる。 「顏、じろじろみられるの、ちょっと……」  和哉は幼い頃から評判の美少年だったので、女の子みたいに可愛いとかモデルさんに慣れそうね?などと大人からも子供からも大絶賛されてきた。  だからしげしげと無遠慮に、ちらちらとこっそり盗み見られることも多かったが、今は単純に青みがかって美しい柚希の真っすぐな瞳に見つめられるのに照れてしまったのだ。   「ごめん、やだったか。君のお母さんのこと思い出してた。君がさ、もっと小さい頃によく公園で遊んでもらってただろ? 俺母さんと二人でここに引っ越してきたばかりの時、学校の手続きする前、何日かこの公園で長い時間遊んでたときあったから……」 「母さんのこと覚えてるんだ?」    すると少しだけ顔を赤らめて睫毛が一本一本が濃く驚くほど長い瞳を伏せてうっとりと微笑んだ。 「すごく綺麗な人だったから、目立ってたし。子供連れてたけどお姉さんなのかなって思ったぐらい若くて美人だった。……似てるね。君」 (そっか。母さんと俺が似てたから、最初はきっと女の子だと思って優しくしてくれたんだ)    少しもやっとした気持ちになったが、その感情に名前がつけられるほど成熟していない和哉は待てよと思い直した。 (じゃあ、こいつきっと僕の顔が好きってことだよな? 好きなら僕の為に色々な事してくれるよな。これから僕が1人で居なくてもいいように、こいつのことを利用してやる)   寂しい気持ちに囚われるのは負けなような気持ちがして、その頃の和哉は柚希に甘えたいと切望する心をこのようにしか表現出来なかったのだ。          

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