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25 恋仇の台頭⓷

☆次回からは柚希視点に戻ります💕  しかし和哉にはそんなことはできないと自分でも思っている。狼の牙で自分の腕を食いちぎってでも柚希に再び怖い思いをさせたくはない。  和哉は苦し気に暴れる柚希から、一度伸し掛かりくっつけていた胸を息がしやすいようにずらしてやった。高校生の頃までは背丈もほぼ同じぐらいで力も同じぐらいだったかもしれないが、今は病後であっても兄を易々と押さえつけられる。それだけに手加減をせねば傷つけてしまうかもしれない。  そう思うと途端に愛おしさがじわりと全身に押し寄せ、彼をなにものからも護ってあげたい、だが全て欲しいという熱情に同時に溺れそうになる。顔を上げて幼い頃のように悪戯してくる弟に困ったような笑顔で返した柚希に、和哉は嫣然ともいえる微笑みを浮かべながら両手を傷つけぬよう慎重に押さえつけ、唇を寄せていく。 「カズ?」  和哉は迷いながら触れるか触れないかの微妙な距離で止まった。  兄のいつでも感じの良い甘い唇を奪うための良い言い訳を思いつくことができずに、そのまま顔を柚希の頭の横の敷布団に押し付けて大きな嘆息をつく。そしてぐるっと身体を反転させると逆に兄の身体を自分の胸の上に抱え上げた。  和哉は子どもがあやされているような体勢に逆に慌てた柚希が退こうとするのを両手でがっしりと掴んで離さないのだ。 「兄さん。こんなふうになったらもう、逃げられからさ。……最初の発情期近いだろ? 慌てて番になったりしないで。不安ならちゃんと晶先輩に気持ちを伝えて待ってもらいなよ。……自分のこと大事にして欲しいんだ。昔からさ。兄さんはずっと自分のことを好きになってくれる人に告白されるとすぐOKするだろ。相手を妙に崇めてさ。自分のことをやたら下に見て。あれってなんなんだろうな」 「そんな風に見えてたのか……。恥ずかしい。自分でもよく分からないけど。……どうしてだろうな」  柚希が言いかけてやめたことを和哉は強く追及はしなかった。兄が二人が出会った公園横のアパートに桃乃と逃げるように越してくるまで、生まれ育った父方の実家との間に色々と大人の嫌な側面を見させられてきたことを、和哉は細かくは聞いていない。その時のいざこざがこんなにも素晴らしい兄が自分自身を心のどこかで卑下するようなトラウマを植え付けられる原因になっていることを、成長した和哉は薄々と感じていた。つい最近、つまり兄が完全にΩと判定されるまで、αだったら柚希を跡取りによこせと父方の親族に申し入れられていていたのを突っぱねたとは敦哉からは聞かされている。  明るい桃乃はかつての苦労を和哉には見せないし、その傷は敦哉だけが知り得て居ればいいことだ。だが柚希の傷を塞ぐのは和哉の使命だ。だからいつかはきっと打ち明けて欲しいと願っている。 「……でもさ。柚にい。ここに兄さんのこと一番必要としている人間がいるってことだけは忘れないでほしい」    一番、を強調してしまう自分の未熟さを感じつつ、和哉は腕の中呼吸を繰り返す、柚希の重みをこれからもずっと自分が担っていきたいと思った。  しかし柚希が珍しく哀し気な風情で和哉の胸に顔を擦り付けて吐息をつく。 「……カズ。そろそろ兄さん離れしてもいいんだからな? 俺なんかが心配で彼女も作れないなら大丈夫。お前はすごくいい奴だからさ、これから沢山素敵な人に出会いがあって、愛する人を見つけて欲しい。それで亡くなったお母さんの分までさ、世界中で誰より幸せになって欲しいんだ」  寝ころんだまま柚希は和哉の上から横向きに転がっており、すぐに向かい合ってきた和哉をぎゅっと縋るように長い腕を背に回して抱きしめてきた。幼いころから兄に抱かれているだけで、ここがこの世の天国のように感じるのに、どうしてそこを出て行けというのだろう。 「……」 (貴方なしではそれは無理だな。分かって欲しい。僕の最愛)  答える代わりに抱きしめ返して、兄の頭の天辺にキスを落とすと、和哉はいつまでも子供の頃のようにここでこうして居たいと願わずには居られなかった。  晶と柚希の交際は意外というか睨んだ通りというか割と順調に進んでいるように見えた。  Ω性を自覚以来、和哉が連れ出す他は仕事以外引きこもりがちだった柚希が、今は休みの度に晶に連れ出されて、以前の社交的で明るい雰囲気を取り戻して来たのだ。  出かける時でも柚希と自分の二人きりの時の濃厚な関わりを優先した和哉と違い、晶は以前の柚希の屈託ない笑顔を取り戻そうとしつつも、きちんとΩとしての柚希の今も尊重しようとしていた。 夜に自室でスマホを繋ぐと楽しげに晶とのお出かけの話をしてくる柚希の昔の彼に近い華やいだ様子に、晶にとても大切にしてもらっているようで、今までの交際とは違う手応えを感じる。それだけにライバルとしての彼は敦哉以来の大きな壁で、喜ばしいことだが和哉は複雑な気分だ。  柚希も新年を迎えて頑張って明るく前向きに自分を変えていこうとしているようにも見えた。 なにより学生時代から柚希を憎からず思っていたであろう晶が、柚希を悪いようにするはずがない。 大人しく身を引くべきは自分の方なのではないかと、和哉は真剣に悩んで悩んで……。    それでも変わらず柚希のほうからスマホを繋げてきて朝も夜も大抵「和哉? 起きてる?」からはじまる眩惑の甘い囁き声を聞かされたら、飼い主の帰りを待っていた仔犬のように和哉の心は尻尾を振って踊る。  スマホが繋がらない日はアイツと会っているのかと嫉妬で唸り声をあげる狼のような凶悪な気持ちになり、スマホの上で追跡した先の2人を想像して胸が千切れそうに痛くて堪らなかった。  ある日は和哉が久しぶりに人気スィーツ店巡りをする柚希に付き合い外で会っている時に、大学の同級生でしつこく迫ってくるβの女の子から連絡が頻繁に入ってきた。仕方なく返信しているところを柚希に見られたら、じっと見つめられ相変わらず綺麗で大きな瞳が揺らぎ、寂しそうな顔をされた。  ああ、まだ柚にいは僕への興味は失っていないんだ。きっと僕のことを好きな気持ちは残っていると、それが弟に対する兄としての愛情でも、愛情には変わらないと、それ以上を期待をしてしまう。  期待するたび、次の発情期にはきっと柚希は晶の番になるのだろうと嫉妬とあの時柚希を一人で行かせなければと後悔に苛まれ、眠れずに朝を迎えたことなどかず限りない。 いっそ身体からでも兄を自分のものにしてしまえと、夜中に自転車でアパートの周りをウロウロして職務質問されかけけたこともある。   大学でも相変わらず周囲からはちやほやとされがちで、男子からもお前みたいな顔と頭と体型に生まれた人生楽しくて仕方ないよなあ? などと嫉妬交じりにぼやかれても心はちっとも満たされなかった。 (結局さ、いっそ諦められるような相手なら、こんなに寝ても覚めても想ったりしないだろ。ねえ、柚にい。柚にいを好きな気持ちはもう、僕の身体の大部分で。無理に引きはがしたら血が沢山流れて、きっと僕死ぬよ……)    もっとも希望を捨てなくてもよいと思えたのは、晶と付き合って二度の発情期を迎えながらも、柚希が番になることを拒み見送り続けてくれたことだ。  理由を聞いても浮かぬ顔できちんと応えてくれなかったが、そこに付け込み何とか柚希を取り返そうと和哉は慎重に、しかし次にチャンスが回ってきたらためらわずに牙を剥こうと決めた。  そして柚希が晶と付き合ってから訪れた、三度目の発情期の兆候を、今度こそ和哉は見逃さなかった。  発情期が終わるまで柚希を自宅のアパートの中に監禁してそのまま番になってしまっても良いぐらいだったが、その間に嫌なタイミングで晶がやってこないとも限らない。晶は平日は遅くまで仕事をしているらしくて時間に融通の利く大学生の和哉と違い土日でないとシフト勤務の柚希に会いにはこれないのだ。  しかし晶と和哉は共に相手にとって間が悪い間柄なので油断は禁物だ。番用の部屋をホテル予約してさっさと移動するに限る。   仕事場の人からの情報によれば柚希は少し予定より早めに発情の兆候が出たとかで昼間職場を早退したのだという。  明日は和哉もどうしても出なければいけない講義が一現に控えていたから午前中に迎えに行く約束を取り付けてホテルに移動しようと考えた。  タブレットを弄りながらスマホを柚希につなげようと何度目かのコールをすると、柚希が起き抜けの怠そうな声でやっと通話をはじめた。 「ん? 和哉……。ごめん。寝てた」 「身体大丈夫? 体調不良で早退したって聞いたよ? ヒート入りそう?」 「ああ……。多分ね……。明日からさ、前に和哉が予約してくれたシェルターホテル取れたから、朝には移動する」  幸いそのシェルターホテルにもう一室部屋をとっていたわけなので和哉としてはとりあえず現地に連れて行く前に色々説明して拒まれるという心配と手間が省けて、今度こそことが上手く進みそうだと胸を撫ぜ下ろした。 「……そっか。あそこね。シェルターホテルってことは、まだ晶先輩と番になる気はないってことだよね?」 「……うん」  弱弱しい声で呟く柚希の元へ今すぐ駆け付けたかったが、家にいって和哉が柚希のフェロモンにノックアウトされて無理やり奪っては父の二の舞いを踏んでしまう。発情直前の柚希を前にして話をするには、ぎりぎりまで理性が保てるように強い抑制剤を持続時間を計算して飲んでおきたかったら明日にかけようと思った。 「危ないから僕が父さんの車で送るよ。迎えに行くまで絶対に、家で大人しく待っててね?」 「ごめん。正直ありがたい……。今回結構怠さ酷くて。自分で何とかしないといけないのに……。弱気になってごめん」 「身体辛そうだね。今すぐそっちに行っちゃダメ?」  ゆるゆると首を振る柚希は傍に行って抱きしめてあげたくなるような弱々しい姿をさらし、和哉は潤んだ瞳でこちらを見つめてくる柚希の顔に画面越しに指先を触れて頬を撫ぜた。 「……このアパートに1人で寝てたらさ、昔のこと色々思い出したんだ。父さんが死んでさ、父さんの兄弟が母さんのことは追い出そうとしてさ。俺がαなら跡取りにするから置いてけって言われてさ。俺がそんなの嫌だ、母さんと離れたくない。母さんに手出しするなって歯向かって嫌がったら、やっぱり金目当ての下賤の子は礼儀がなってないって。母さんに似た目つきも顔も気に入らないって。叔父からも叔母からも寄ってたかって罵倒されてさ……。母さんは父さんが病気で寝付いてからも親戚に頼らずにずっと一人で看病もしていて尽くしてたのにさ。Ωにとっては番になるって一生ものだよ。それでも父さんのことが大好きだから先が短いってわかっていても番になったのにさ。母さんと夜中に家を逃げ出した時。持ち出せた荷物もちっぽけで不安で寒くて。母さんを護ってやりたいって思ったのに、発情期で苦しむ姿を何度も見て……。俺は何度も自分は無力だって思った。このアパートに来てから母さんが仕事のトラブルで遅くなった時のこととか。最初カーテンもないがらんとした部屋で公園からの光が眩しくて起きた時のこととかさ。色んな辛い記憶が混ぜこぜで蘇ってさ……。俺、この部屋で1人で寂しいって泣きそうになった事も沢山あったけど……。でも和哉と出会ったからはそんなの忘れてたよ。俺に懐いてくれてさ、いつでも1番に俺のところに駆け寄って来てくれた。お前といるとあんな風に卑下された俺も、Ωの母さんの役に立たない俺も。誰かの役には立ててる、好きだって思ってもらえるって思えて……。世界で一番可愛かったなあ。和哉」  兄がここまでの本音を漏らすのは初めてで、和哉は胸が熱くなった。 「今でも。柚にいは僕の1番だよ。大好きだ」 「俺も大好き。カズなんか今日すごく。……すごくお前に会いたい。家に帰りたいよ」  自宅にいるのに帰りたい家とは、家族の暮らすこの家のことだ。あまり弟には弱音を吐かない兄がついに吐露した本音は、心の拠り所である『家』に帰ること。 「ごめん。忘れろ」 「謝るなよ。僕に謝るな。Ωになったって変わらないで、兄さんは今まで通り一生懸命生活して、誰にも迷惑なんてかけないで生きてるだろ。もういいだろ? ここに帰ってきなよ」 「カズ……。俺……。どうしたら家に帰れるかって、ずっと考えてた」 「そんなの兄さんが帰りたいって思えばいつだっていいだろ? 帰ってきて……。柚にい。ずっと、寂しかった」 「俺も。カズ。寂しかった。お前と一緒にいたかった。こんな兄ちゃんでごめん。でも今はまだ駄目だ。帰れない」    何が今はまだ駄目なのかと聞きたかったのに、柚希はそれっきりその日は通話を繋いでくれなかった。  居ても立っても居られない気持になった和哉はまだ暗い未明に自転車に飛び乗って、こっそり大学に行くぎりぎりの時間まで、兄のアパートの部屋の前に駆けつけていた。部屋には入らず小さな頃のように階段に座りこむと、朝日に白む空をまんじりともせずに眺めていた。 (兄さんは自分でも自分の気持ちに整理をつけられない。先のことばかり心配して、不安を見せないように明るく振舞いがち。昔からずっとそうだ。誰かに喜んでもらえることが一番正解だって思い込んで、それで結局自分のニーズをつかみにくいんだ。やりたくないことを取っ払って、残ったことが自分がやりたいことだ、欲しいものだって思い込む。柚にいは本音では家に戻りたい。出ていきたくなかった。でもΩになった自分はこうすべきだって考えが邪魔をしてる。そんなの僕が、壊してやる。兄さんの凝り固まった考え事、今までの関係も全部、ぶっ壊してでも……)  三度逃げ出す柚希を今度こそ捉えて離さぬため、和哉は晶から柚希を攫い、再びわが手に取り戻すために。 (どんな手を使っても……。絶対にこの牙で兄さんを仕留めてやるんだ。僕の腕の中に戻ったら、もう絶対に迷う暇なんて与えない。覚悟して?)  大事に育てた仔犬はお前を狙う狼だったと、今度こそ全部曝け出けだしてやるのだ。

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