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26 狼に口づけを①
お待たせしました~ 柚希視点にもどってきました💕
浴室から出てきた人物は手早く純白のガウンを羽織ると、へたりと床に座りこんだままの柚希を軽々と抱き上げて寝室に戻っていった。
都会の青いビル群と近くの公園の紅葉した木々が眼下に見渡せる大きな窓とその先の青い空を背にしたその人物は、まぎれもなく弟の和哉だった。
「柚希……。無理しちゃだめだよ? 身体がまだふらつくんじゃないの?」
「どうして……」
和哉は目元で微笑んだまま、それには答えない。大切な宝物を扱うように寝台に下ろされ、和哉はベッドサイドに腰をかけてきっと茫然と間抜け面をしている柚希を覗き込んできた。
柚にいと甘えたな声では呼ばずに柚希を呼び捨てにし、気遣うような少し揶揄うような声色は低くしっとりと耳に響く。もうあの幼いころから知っている和哉とは全く違う別の男のようだ。
柚希の顔の側面を頬骨のあたりまでするりと指の背で撫ぜると、流れるような仕草で顎に手をかけ顔を傾け唇を合わそうとしてきた。
そうは誤魔化されるかと柚希がその手を上から握って顔を背けたら、和哉はふっと微笑むとそれ以上はせずに立ちあがって片手で髪をごしごしと荒い手つきでタオルで乾かし始めた。
そのまますたすたと広いベッドの隣にあるキャビネットの辺りに歩いていき、スマホを取り上げて時間を確認しているようだ。
しかしすぐに柚希の方に向き直り、男っぽく欲を含んだ眼差しを白い柚希の艶美な肢体に注いできて、柚希は恥ずかしくなって乱れた布団を何とか引き上げ情事の痕の色濃い身体を隠してしまった。
「ねえ、なんで和哉がここにいるの?」
「覚えてない? 柚希が予約した部屋が急遽使えなくなってこの部屋にきたんだよ?」
「……だからって、どうして」
「この姿みたら……。想像つくでしょ?」
耳まで顔をかあっと赤らめた柚希の反応を、和哉は心底可笑しそうに笑ったので柚希は不謹慎な弟を睨みつけた。
(俺がきっと和哉を誘ったんだ。でもどうして? 和哉はβじゃなかったのか?)
「……項、噛んだのお前? お前αだったのか?」
「噛んだよ。確かに僕はαだ。ずっと黙っててごめんね」
ごめんねと言いながらもまるで悪びれず、続く静かな口調は有無を言わせぬ迫力があり柚希は息苦しさを感じて胸に手を当て呻いた。
「どうして? 」
「どうして、なんて、|また《・・》残酷なことを聞くんだね。そんなのわかるでしょ?」
「……」
「分かるよね? 言ってよ。どうして僕がこんなことをしたのか、言って。柚希の口から聞きたいな?」
あくまで柚希の口から言わせようと意地悪く囁く和哉は朝日にその美貌の端正さが際立ち、柚希ですら気後れしそうになる。
「……お、俺が和哉を無意識に誘ったから?」
かすれ声で何とかそれだけ絞り出した柚希は、手の中でくしゃくしゃになるほど強く柔らかな寝具を掴んでそのままぎゅっと口も噤んだ。
ガウンを身に着けたすらも姿も様になっている和哉はタオルを首にかけたまま、柚希の隣に再び腰をかけて柚希を強引に抱き寄せた。裸のまま転がり込むように抱き寄せられた弟の胸は厚みがあって見た目よりずっと逞しい。その若い雄の魅力匂い立つ肉体に、なぜだか柚希は心臓が痛いほどに高鳴るのを止められない。そのまま髪を撫ぜられるとぞくっとした心地よさとオスマンサスに似た甘い香りに包まれじわっと安寧が胸に広がってきた。
(和哉はαでもぜんぜんおかしくはない。成長したら敦哉さんに瓜二つになったし、大体こんなに完璧ないい男がどうしてβ?ってずっと俺だって疑問だったし。じゃあどうして黙ってたんだ。)
「カズ、お前さ!」
俺を騙すような真似を……そう恨み言を言いかけて、すぐに思いなおす。
(いや違う。和哉は理由がなくて人を騙すようなことをするような子じゃない。きっと俺の為? ……俺の為だろうな。俺が怖がるから?)
大方αである敦哉に乱暴されかけた柚希に、自分もα判定をされたとは言い出せなかったのだろう。
今思えば出会ったころから非常に出来のいい弟が、わざと柚希の前では兄として彼をたてて弟っぽく振舞っていたのではないかとすら思う。
それでもたまに気が抜けて無意識にあくびをしている時をちらっとみたら、気のせいか晶と似た感じの尖った犬歯があるように見えた。大人になったから以前みたいに和哉が大口を開けて笑わなくなったとは思っていたが、もしかしたらそのあたりも気を使ってくれていたのかもしれない。
(なのにきっと俺また……。敦哉さんの時みたいに和哉を誘ったんだ……。俺を心配して駆けつけてくれた弟に、俺……。なんてことを)
額に手を当て髪を掻きむしる柚希から困惑と混乱を読み取った聡い弟は兄の傍らに寄り添うように近づいて、乱れた黒髪をいつも兄が自分にそうしてくれたようにしっとりと優しい手つきで撫ぜつけた。
「……まあある意味、僕はずっと。柚希に誘惑されつづけていたのかもな。この綺麗な髪も唇も身体も。こうして無防備に触れられる距離にいて、こっちは欲しくてたまらないのに噛み付くことが許されなくて。いつでも僕を飢えさせた」
やっぱり意識が混濁する前にΩのフェロモンで柚希が和哉のことを誘って関係を持ってしまったということだ。それも一度ならず二度もだ。
「ごめん……」
柚希は黒髪を再び乱し崩れるように項垂れた。
和哉は柚希たち母子の恩人である敦哉とって何より大切な亡き妻の忘れがたみであり、そして今では桃乃にとっても大事なもう一人の息子なのだ。
柚希だってこの世で一番大切に想う、1等幸せになって欲しい相手。二度と失いたくない大事な家族にこんな形で仇を成してしまった。
(母さんや父さんと離れて……。この上和哉と離れるのが耐えられなくて……。俺が和哉を手離せなかったせいだ。あんな中途半端な場所に逃げこんで、あの時遠い街にでも越して、きちんと距離を取っていればこんなことにはならなかったのに)
涙が滲んで零れそうになるのを必死でこらえて下を向く。
「本当にすまない。でも最悪αは別に番も作れるし……、和哉は俺に縛り付けられなくても、いいよ?」
「それこそ最悪だ! 柚希、僕のこと振り回すのはもうやめにしてくれ」
またも兄がとんでもないことを言い出したことに和哉に抱きしめられたまま、ぴしゃりと叱られ柚希が震えあがると、和哉もα性をもつものとしてΩに対してあらぬ態度をとったと必死に自分をこらえた。
しかしあまりに真っ正直で、かつあまりに無神経な兄に心底腹が立ち、背中を撫ぜる手つきはなんとか穏やかさを保とうとしつつも乱れる。
「……なあ、いいかげん分かってくれよ。僕は自分がαだってわかる前からずっと。ずっとだよ? 柚希にだけ夢中なんだ」
「え……」
「柚希。初めて会った時、殆ど初対面だった僕にも親切で、家に連れて帰って怪我の手当てをしてくれたよね。その手つきがすごく丁寧で、温かくて、優しくて。僕のことを、とても大切な存在なんだって思わせてくれた。あの時にはもう僕は、この柔らかい手をこれから一生、ずっと握っていきたいって思ったんだ。僕は今も変わらず、柚希を世界で一番大好きなままだよ。柚希は違うの?」
長い長い片思いの果ての告白のはずが何故かほろ苦い表情で、今までのように弟に対して『俺も大好き!』などと軽い調子で応えられる雰囲気ではなかった。
「言ってよ。……いいや。やっぱり僕が言う。僕はずっと、子供の頃からずっとだよ。君のことを愛していたから。ずっとずっと、僕のものにしたかった。いや違ったな? ずっと君は僕のものだったんだよ」
「俺が、お前のもの?」
復唱した柚希の声に何の感情も籠っていない棒読みに聞こえたようで、和哉は柚希に大仰にがっかりして柚希の顔を胸から起こさせ覗き込んだ。
「意外そうな顔しないでしょ。傷つくなあ。僕はずっと兄さんのこと、子供の頃から大好きって言い続けてきたでしょ? 噛みついてマーキングして、僕のだって印もついてる。兄さんだって僕のこと一番に……、目覚める前のこと、あんまり覚えてない?」
試すような口調の和哉には気が付かず、じっと見つめてくる柚希の純粋な瞳からめをそらすとまた後頭部に手をそえて顔を胸に押し付ける。
和哉の熱い胸に顔を埋めてすりすりと顔をよじって頬を押し当てると落ち着く位置を見つける。意外にも和哉の胸の鼓動は澄ました顔と違い強く早く打っていると感じた。
(和哉……。緊張してる?)
「正直朝起きた後のことと、ここに来る車の中のこととか甘いパン食べたこととか覚えているんだけど。ホテルについてからの記憶がちょっと曖昧」
「パンは覚えてるんだ? やっぱり食いしん坊んだね。兄さん」
「煩いな。それで電話が……。沢山……。晶から」
(晶?)
晶と話をした気がするがどこでどう話したのかいまいち思い出せない。首を筆頭にちりちりとした痛みが思考を奪い、それどころか再び身体が暑く燃え立つようになっていくのを感じて身震いした。
すると和哉か項に顔を近づけてくんっと嗅ぐ仕草をしてから目を細め獲物をみつけたかのようににっこりと笑う。そしてぼんやりとした柚希に隙をみて、こめかみに恋人同士のように気安く口付けた。
「ああ……。兄さん、すごくいい香りがする。|また《・・》ヒートに入りそうだね? 少しなにか飲む?」
喉が渇いて先ほどから声が枯れていたから柚希は頷くと、一度優しく柚希を抱きしめてから立ちあがる和哉を上目遣いに心細げな顔つきで見上げて呟いた。
「俺たち、番になったんだよな?」
和哉がその時見せた顔は、それはまだであったころに見せた、愛する人を失って途方に暮れている癖に自分ではどうすることもできない運命に絶望して、それでもどうにか生きていこうとしていた、あの頃のそれに酷似していた。
少し間が開いて、和哉は柚希の元に跪いて、海外の男性がプロポーズをする時のような体勢になると、長い腕を伸ばして柚希のぱたりと布団の上に垂れていた手を両手でとってぎゅっと握りしめた。
敦哉よりもなお甘い甘い目元で柚希を見上げ、端正な口元を一度真一文字に引き絞り、その後すぐ決意したように開いた。
「『番になったんだよ』 僕とじゃ、いやだった?」
普段の悪ふざけでじゃれ合う感じとは全く違う、真剣で少しだけ上擦ってすらいる声に柚希は深い情愛を呼び起こされた。
少しだけ気恥しくなって、握られた大きな手の穏やかな温みとそれに反するような逃がすまいとする強い欲望の両方が伝わる。
「嫌かっていわれても……。だってもう俺たち番になったんだろ?」
それが動かぬ事実ならば、あとはもうそれを受け入れていくしかないのに。和哉は真剣な眼差しを反らさず、柚希に強請るというより懇願する。
「答えて。兄さんの気持ちが聞きたいんだ。お願い。今答えて」
そもそも柚希は自分の欲求に触れにくい性格をしている。誰かが喜べば自分も嬉しいし、愛情も乞われれば自分なんかを好きになってくれてと誠実に対応してしまいたくなる。
(嬉しいかと言われたら……)
複雑なこの心をどう伝えればいいのか分からず、柚希は口ごもり瞳を伏せると、和哉は答えを促すように片手を柚希の顎先にかけて目線を合わせてきた。
「どういわれたって、怒らないよ? 本当の気持ちを、言ってごらん。柚にいはどうしたかったの?」
「俺は……」
とにかく穏やかに優しくなだめすかすように尋ねても、すぐには答えぬ柚希に和哉はいっそ美貌が怖ろしい程の真顔で唇だけにたりと笑うと、柚希の身体の両側に長い脚を折り曲げ膝をついて伸し掛かり、あっという間に腕の中に兄を捉えて上から覗きこんできた。
まだ昼日中、眩い太陽の光のもと金色に光る眼差しは欲望に濡れ、大きくも形良い口元が間髪入れずに柚希の答えを待たずして唇を塞いだ。
吐息を奪われるほどの激しい口づけとどこかこわばりが抜けきれぬ和哉の唇には何故か既視感があり、記憶の糸を辿ろうとするが思考がまとまらない。
きっと先ほど和哉が言った通り、再びヒートに入るのかもしれない。今のような正気と自分ではどうしようもない狂気を繰り返す5日程度を過ごすのが大抵の発情期だ。
唇がまだこそばゆく触れる程の位置で一度顔を僅かに離すと、和哉が両手で柚希の頭をがっしりと掴む。
「ねえ。柚希。もう一回したい……。|また《・・》噛んであげるから、今度は噛まれたこと忘れないでね? 僕が柚希のヒート誘発してあげるから、可愛く乱れて僕を受け入れて」
(なっ! なんだよ、このいやらしい声! 力、入らなくなる)
陽光に耀く琥珀色の瞳に魅入られた心地で柚希の身体から少しずつ力が抜け、瞼を瞑れば優しい仕草で再びそこここに唇を押し当てられる。柔らかくも情熱的なその動作が心地よくて、温かくて、もっともっと満たされたくて。
(気持ちいい……。不思議と怖くない。番になったから? ずっと俺だけを思ってくれていた相手に噛まれたから? でも和哉と番になったら俺は……)
その時、柚希のスマホの着信音がほぼ枕元と言っていい位置で鳴り響いた。
何故かに二つの方向から音割れしたように響くそれを無視したまま、和哉は柚希の顔中にワンコが舐めるようにキスを繰り返す。その有無を言わせぬ力で押さえつけてくる腕の中、柚希は既視感に襲われながら片腕で音の鳴る方をまさぐった。
「電話でるから、ちょっと待って」
このやり取りすら、夢で見たような気がして妙な胸騒ぎがした。
「……」
「まて」
ワンコにでも命令する様にはっきりと言い放つと、長い習慣のサガなのか和哉が一瞬動きを止めた。枕元をまさぐる柚希の指先に硬いものが当たり、当たりをつけてそれを掴み上げると誰からの着信かも確認せずに、通話ボタンを押して耳元にあてた。
『柚希、目が覚めたんだな』
「晶?」
受話器から聞こえるのは紛れもなく、恋人の晶の低いがよく響く声だった。しかし日頃穏やかな男のそれは今日はどこか緊迫感を帯びた風情が漂い、柚希はぞくっと小さく身を震わせた。
『柚希、よく聞け。お前まだ、和哉と番にはなっていないぞ?』
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